プシュっと弾け出た炭酸。少し手を汚してしまって顔を顰めた。今日は付いてないらしい。ポタリと落ちた水滴がまとめ終えたレポートに染みを作った。小さく吐いたつもりの溜息が思いの外大きかったらしく向かいに座っていた坂田が顔を上げた。


「あーあ、なにやってんだよ」
「……私も自身に問いたい」


バッグからタオルを取り出し拭いてみたけどインクが滲んだまま、元には戻らなかった。一緒に作業を進めてた坂田が「内容そんな変わらねえし余分にコピーしてくる」と席を立つ。お礼を言おうとして目の前にあるレポートから顔を上げた瞬間に、ポンと置き去りにされた坂田のスマートフォンが鳴った。盗み見るつもりは無かった。しかし視界に入ったソレを意識せずとも頭が文章として捉えてしまった。
"寂しくさせたのは銀ちゃんでしょ?"
液晶が暗く落ちていくまで目を反らせなくて、ただその文章の意味を考えてしまった。


「ほら、コピーしてきてやったからそんな怖ェー顔してんなって」


頭の上に置かれた用紙。横を向けば坂田がいつも通り、気の抜けた顔でヘラッと笑っていた。
なんで笑えてるんだろう、先ほど見てしまった会話の内容から察するに坂田は彼女と上手くいっていないはずだ。この二人が喧嘩をするのも別れ話をするのもよくあることで、ついこないだ旅行から帰ってきた時も坂田は嘆いていた。毎日のように一緒に居れた高校時代と違い、距離が出来てしまった大学進学後は度々別れるだ別れないだと喧嘩をしていた気がする。


「ありがとう」
「全然有り難そうじゃねえんだけど?」
「いやだって、坂田……」
「俺?」


受け取ったレポート最終ページ。勝手に見てしまったことの罪悪感から言葉を詰まらせてしまった。席に着いた坂田が携帯を手にする。「あっ」と漏らした私の声に反応して顔を上げた。


「ああー……見えちまったのか」


困ったように笑う坂田はやはり傷ついていた。もう何度も見た作り笑いに私まで笑顔の作り方が下手くそになってしまう。二人して自嘲めいた笑みを浮かべ肩を竦めた。


「聞かない方がいい?」
「いーや、聞いてくれた方が楽になる」
「どっか行く?ここじゃ人が多いし」


坂田が自分の家に私を入れることはない。やましいことはなに一つなくて、私を気の合う友達で男として見てると言いつつも彼女が不安がることはしたくないと絶対に入れなかった。それは納得していたし、別に私だって一人暮らしを謳歌しているのだからなにも坂田の家に拘る理由がなかった。いつも通り「うちにする?」と言った私に坂田が「俺ん家の方が近くね?」と言った。は、と目を見開いた私にへらへらとしながら荷物をまとめる坂田。


「ちょっと待って、いいの?だって坂田の家は、」
「あー大丈夫。あっちも友達家に入れてるみてェーだし」


気にすんなよと言われて私も荷物をまとめた。本人がいいと言うならいいのだろう。
初めて入った坂田の家は至る所に彼女の面影が浮かび、ここが家主以外の誰かの為に存在しているのを物語っていた。


「最近アイツ来てねェーから荒れてんだろ?」
「そうなこと……あるかも」
「適当に座ってて。トイレしてェーから」


脱ぎ捨てられた服と床に散らばる雑誌。飲み終わったいちご牛乳のパックがテーブルの上に3個も置いてあった。
座るところを確保して腰を下ろす。壁に飾られた写真はどれもこれも彼女と坂田の楽しそうな笑顔で、当事者でも関係者でもないくせになんだか少し胸が痛んだ。
すぐ戻ってきた坂田がテーブルのゴミを避けシルバーのネックレスを置いた。


「なに、これ」
「友達の忘れ物らしい。アイツん家にあった」
「友達の……」
「そ、友達の。男とは言わなかったんだけど、まあ見りゃ分かるよな」
「……でも友達って言ってるんでしょ?」
「やましくねェーなら男友達って言えばよくね?」


坂田の言い分は分かる。離れてる分不安になりやすいのも、分かる。でも、それで別れ話やらなんやらに発展しているのだとしたら話を急ぎ過ぎている気がする。


「女の子でもこういうのつけるかも知れないし」
「んや?最終的にゲロったアイツ。同じ学部の男友達のだって。サークルの飲み会後に仲のいいグループの奴らだけで宅飲みに流れたんだと」


疑いたくねェーけど不安になるだろ、と頭を掻きながら言った坂田の目の縁は少し赤くなっていた。なんて声を掛ければいいのか分からなくなる。私にはアドバイスや慰めが出来るほどの恋愛経験が無いのだ。


「私今本当に非力だ」
「いや俺別にお前になに求めてるわけでもねェーし?ただ吐き出したかっただけ、サンキュ」


結局私には、目を赤くした坂田に無理矢理笑顔を作らせることしか出来なかった。
私なら坂田を悲しませることはしないのに。私なら坂田が不安になることは絶対にしないのに。
私の求める理想像は坂田で、坂田も私を好きになれば幸せになれるはずなのに。
それでも私が好きなのは高杉で、坂田が好きなのはあの彼女で。足掻いても覆すことのできない事実だけが頭の中に居座った。そんなことを今更思い知るなんて、今日はやっぱり付いてない。
伸ばしてしまった手は、シルバーのネックレスを包み込むその手に触れた。幸せになりたいだけなのだ。