高校三年の秋が終わりかけ冬がやってき始めた頃、受験に追い込まれた私は生まれて初めて授業をサボった。いつもは騒がしい廊下も静かで、悪いことをしているのになんだか嬉しくなった。今まで真面目で無害な生徒の一人だった私が、受験を目前にしたこんな大事な時期にサボりをしているなんてきっと誰も思わないだろう。
どうせならもっと悪になってやろうと、立ち入り禁止とテープを貼られた屋上へと続く階段までやってきた。赤いコーンが置かれていて、黄色と黒のテープが貼られている。生徒は屋上に許可なく出ることを禁じられていた。テープを跨ぎ足音を立てぬようゆっくり階段を上がっていく。わくわくして、ちょっとした冒険をしている気分だった。見たことのない屋上は一体どうなっているのだろう。許可を得ていないのだから鍵は持っていない。開くはずのないドアを前に気持ちが落ち着きを取り戻す。
ガチャと回したドアノブはなんの違和感もなかった。不思議に思いながら力を込め開け放てば、冷たい風が入ってくる。ドキドキと高鳴る胸を押さえながら、一歩踏み出せばなんだかとても気分が晴れてなにもかもどうでもよく思えてしまった。悪いことをしているはずなのに、清々しい。コンクリートの地面を躍るように吹かれる枯葉でさえ、何か新しいもののように感じた。
手すりに捕まり身を乗り出す。グランドを見下ろしながら深呼吸をした。冷たい空気が一気に鼻腔を通り抜け、少し痛い。


「何してんだお前」
「……え?」


立ち入り禁止のはずなのに人の声がした。驚いて振り返るが、ドアは閉まっている。少し重かったドアを思い出し、音もなく屋上にやってこれる人物などいないことに気づいた。辺りを見渡して声の主を探す。「こっちだ」ともう一度声が発せられた。顔を上げれば塔屋のところに人影。こんなところに人がいるなんて、とハシゴをよじ登る。一体誰なのだろう。声からして男の人だと思うけど、今は授業中だ。それに屋上は立ち入り禁止となっている。慌てた様子も受けれないからきっとこの人は私よりも確実に悪い人だ。


「なにしてるの?」


登りきれば、見たこともない人が寝転がっていた。眼帯をした単眼に長い前髪。着崩された制服に少し残る煙草の苦い香り。あぁ不良だと思った。こんな時間にこんなところで寝ているなんて絶対不良だ。


「パンツ見えてっけど?」


顔は向けずに視線だけこちらに向けたその人に、ここで照れたり恥したりしたら負けだと思った。なんの勝ち負けかなんて分からないけど、別に負けたからってなにかあるわけじゃないけど。ただ癪だった。ギュッと握り締めたスカートの裾。不良と話すのは初めてだ。少し怖い。


「いいよ別に、減るもんじゃないから」
「目反らしながら言うことじゃねえよ」


少し寒くなってきたな、と言ったその人の声はなんとなく優しく聞こえて目をきつく閉じた。冷たい風に紛れて香る煙草の残り香と甘い香水のような香りがより一層強く鼻腔を抜ける。くすぐったくて甘苦い。胸がゆっくり主張を始めた。


「ちょっとこっち来い。丁度暖を取りたかったんだよ」


起き上がったその人が胡座をかく。こっちって……。ゆっくり近づいた私の腕を引っ張り股の間にすっぽり収められた。背中に受ける体温は暖かい。


「寒いならこんなところに居なきゃいいのに」
「受験勉強とか興味ねえ」
「3年なの?」
「あぁ」
「じゃあ同じだ。名前は?」


高杉、と言われてどうして見たことがないのか分かった。噂に聞いたことがある。この学校一の不良で秀才。停学に何度もなっているのに退学に出来ないのは頭がずば抜けていいからだと聞いていた。
驚いて顔をきちんと見ておこうと身動ぎをすれば回されている腕が少し締まる。


「動くなよ、寒ィーだろーが」


結局チャイムが鳴るまで無言で、私は高杉の暖係だった。授業の終わりを告げるチャイムが鳴れば高杉は私から離れそのまま塔屋から降りようとしている。


「ねえ、進学するの?」


他に話題が見つけられなかった私は、受験に興味がないという人にそんなことを問いかけるしかできなかった。今度は顔ごとこちらを見てくれたらしい、先ほどよく見てみたいと思った顔がはっきりと見える。
綺麗な鼻筋に、特徴的な単眼。少し上げられた唇の端が生意気そうだと思った。


「聞いてどうすんだ?」
「別に、どうもしないんだけど……」
「適当にその辺の大学受けると思う」


じゃあなと降りていく。ギィーとドアが開く音がして、少ししてからバタンと閉まる音がした。胸がキュウっと縮こまりなんだかおかしな気分だ。ポケットからスマートフォンを取り出し周辺の大学を調べた。どこもこれも今の私じゃ受からないであろう偏差値に驚く。あの人が授業を受けている印象はない。秀才と謳われるのは嘘じゃないらしい。
急にやる気が出て、急いで教室へと向かった。参考書などをバックに詰め込み図書館へ向かう。


「銀ちゃんはどこ受けるの?」
「俺?俺はそうだなー……○○大にすると思う。近ェーし」
「ふうん。じゃあ少し遠くなっちゃうね」
「馬鹿。いつでも会いに行く為に、地元離れねェーんだって」


そんな校内一のバカップルの会話を聞きながら歩いてた足を速めた。そんな理由で大学を決めるなんて正真正銘の馬鹿だ。何がムカつくって、そんな理由なのにそこそこ偏差値の高いところを選べる辺り胸がムカムカする。
その日から私は、高杉が行きそうな大学に向けて勉強を始めた。私も大概馬鹿らしい。理由は簡単だった。高杉にもう一度会いたくて会いたくて堪らなかったのだ。


「気を落とすなよ苗字。○○大には受かってたんだから。そこだって就職率は高いしこの辺りではかなり上の方だ。我が校からはお前ともう一人しか受からなかったんだぞ」


肩を叩く担任の先生。結局、高杉が行きそうなところ、まあ予想でしかないけど。高校から一番近い大学には受からなかった。もう一人と言われたのが高杉じゃないことは分かっていたし、それが誰なのかも分かっていた。
あんなに頑張ったのに力が抜けて何もしたくないと思った。きっともう高杉とは話せない。
案の定高杉は、卒業式にも来なかった。