坂田はあれから私にどれだけ赤い痕が残っていても、何も言わなかった。それは優しさからなのか、それとも他人の面倒くさい事情に興味がないからか。きっと前者だろう、坂田銀時という男はそういう奴だと一人納得していた。


「そんでよー、今日なんだよね。お前も来いよ」
「へ?」
「だからすき焼き」
「ああうん、すき焼きねすき焼き」


坂田が彼女と家ですき焼きをするらしい。そこに私にも来いと言う。少し迷っていれば「アイツもお前に会いたいって」と言われてしまった。坂田の彼女は、私をどう思っているのだろう。私は嫌いだけど。


「でも話したことないし。二人で仲良くやればいいじゃん」
「それが二人じゃねえんだって。俺の友達も来るし」
「尚更嫌だよ」
「馬鹿、顔はいいぞ。性格はちょっと問題あんけど」


でも悪い奴じゃねえんだって、といつもならこんなにしつこく誘ってこないのに今日はなんだか粘り強いなと思った。


「何企んでんの」
「なーんも?」
「嘘つき、坂田がこんなに何回も誘ってくるなんて今までなかった」


ご馳走様でしたとスプーンを置いて、飲み物を取りに行こうと立ち上がれば坂田が「お前、他の男も見た方がいいんだよ」と呟きた。
ああなんだそういうことか。妙に納得した。坂田は坂田なりに私のことで頭を使ってくれたらしい。深く話を聞いてこなかったけど、心配してくれ、他の男とやらに自分の友達をピックアップしたらしい。
こんな女なのに、ね。


「そんなん別にいいのに」
「いや別にそいつにしろとかそういうのじゃなくて。そいつもなんかよく分からねえけど元気ねえっつーか、いやあいつはいつも騒ぐような奴じゃねえんだけど」
「ええー、暗い人?」
「お前が言うんじゃねえよ、根暗の引きこもりが」


兎に角来いよお前も。それまで笑っていたくせに急にそんな顔するのはずるい。


「仕方ない。でも無駄にくっつけようとか、盛り上げようとかしないでね。すき焼き食べに行くだけだからね?」
「おう!任せろ。あと俺の彼女とも仲良くして」
「あーうん、頑張る」
「そこ一番頑張って欲しいわ、まじで」


はいはい、と笑って準備するからと言った坂田と別れた。
家に一度帰り時間まで暇をつぶす。高杉と坂田以外の男っていったら、父親くらいしかまともに会話したことないけどどんなもんなのだろう。その人が高杉以上だといいのにと思ってから、高杉以上ってどんな人だと疑問に思った。私は高杉のどこが好きなのだろう。
スマートフォンで恋の定義やら一目惚れやら、浮かんだ言葉を検索にかける。検索にかけても、しっくりくるものを見つけられなかった。結局私は高杉のどこがとか、なにがとかもうどうでもいいのだ。高杉がよくて、高杉じゃなきゃダメなのだ。
非喫煙者の私の部屋に、我が物顔で存在する灰皿を見て冷めた気持ちになる。高杉は私をどう思って抱いているのだろう。この関係はいつまで続くのだろう。
早く終わりにしてくれればいいのにと何度も思っている。しかしその反面、どんな扱いを受けてもいいから高杉の世界の片隅に存在していたいと渇望する。
もう堂々巡りのこの自問自答は疲れてきた。吐き出した二酸化炭素はちっとも目に見えない。

坂田から言われていた時間に、少し遅れてしまった。余裕をぶっこいてゆっくりし過ぎたのだ。もう私以外は揃っているのだろう、そう思うとなんだか足が重く感じた。
坂田の部屋の前まで来て、インターホンが押せない。どうしようかと玄関の前でスマートフォンを取り出した時、「は、なんでお前……」と聞こえて振り返った。


「え……」


鼓動が早く、速くなる。喉がゆっくり締まっていく錯覚。心臓は忙しなく働いているはずなのに、血液の巡りが悪くなったかのように指先が冷えていく。コンクリートの上に立っていて、その場が歪むなんてことは有り得ないのに足に入る力がよくわからなくなった。


「なんでって……高杉こそ」


どうしよう、なんで今会う。何日か前に会っているし、別に久しぶりに会うわけでもない。それに私と高杉は身体だけの関係で、これから坂田の家に入ろうが何か言われるわけでもない。高杉の家もこのマンションなのだろうか?もうよく分からない。ただ頭の中にどうしようという、何に対してなのかわからない焦りが生まれた。
ブーブーと手の中で震えるスマートフォン。もちろん着信音も鳴った。その瞬間ガチャと音を立てて開いた扉。


「なんだよ、着いてんなら入ってこいよ」


明るい坂田の声がえらく大きな音のように聞こえた。


「あれ?高杉と一緒?なに、お前ら知り合いだったの?まあ高校一緒だしなー。んなとこ突っ立ってねえで早く入れよ」


一人で話し出す坂田。
坂田にはバレたくないと、思ってたのに。どうして、坂田と高杉が……。


「ごめ、ん。今日、予定できた……」
「は?ちょ、苗字?」


坂田と一度も目を合わさず、高杉から目を反らせず。私がとった行動は、その場から全力で走り逃げることだった。勘弁して欲しい。こんなの、あんまりだ。
坂田と高杉が友達だったとか。坂田が私に勧めたのがあの高杉だったとか。
坂田は分かってない。アンタが他の男を見たほうがいいと、その男大丈夫なのかと心配してた相手はアンタの友達だ。そいつが私を苦しめるんだ。
行き場のない、吐き出し場のない感情をどうにか出してしまいたくて、家に帰ってそのまま手にしていたスマートフォンをベッドに投げつけた。
ああもう、終わった。何もかも終わった。
坂田がもしも高杉に私の話をしていたら?私はただの軽い女で、もうこれから先に希望も何も持てない。
別に高杉とこれからちゃんと付き合えるとか、そんなことに縋っていたわけじゃないけど。それでも。


「いつかはって、思ってたのに」


もう、疲れた。どうにでもなってくれと、光る画面に浮かんだ着信を誰からか確認せずに切った。