冷たい風に映える虹色
私、土御門久脩は土御門家三十一代目の当主を務めております。
父は土御門有脩で、あの安部晴明の血を継ぐ代々陰陽師の家系に生まれました。
安部家は室町時代の十四代目当主である安部有世の時に土御門の家名を名乗るようになったと伝えられています。
その時に陰陽師という忌み嫌われる役職ながら、公卿の地位を貰うという前代未聞の事態がおこりました。
元々、安部家は下級貴族でしたのでかなりの昇進です。
そして私も父の後を継ぎ、無事に陰陽博士の地位を頂くことになりました。
陰陽博士は陰陽頭の次席に当たります。
私も行く末は陰陽頭に…と思っていたのですが、人生はそれほど甘いものではありませんでした。
雲行きが怪しくなり始めたのは、父がそろそろ引退しよう考えていた時期でした。
丁度、織田信長が頭角を露わにし始めた頃です。
信長公は十五代足利将軍である義満を擁立し入京いたしました。
足利義満の擁立、といってもあくまでそれは口実であり
実質、信長公が操っているといっても過言ではありませんでした。
皆様もご存知かもしれませんが、信長公は南蛮のものなど新しいものが好きなお方でした。
故に古い慣習などを切り捨てるという側面も持っていたのです。
陰陽師は呪術を操る得体のしれないものとして、信長公の目には写ったようです。
流石に御上の懇意にする陰陽寮は無事でしたが、京の町にいた一般の陰陽師と名乗る人々は追放されました。
和仁様の祖父であられる正親町天皇が亡くなられたのはそれから数年後でございましたでしょうか。
三夜と出会ったは、正親町天皇の崩御なさる五年ほど前のことでした。
私は一族の中でも久々に生まれた強い力を持った人間でした。
ですが、三夜の潜在能力は私の比ではありません。それは本人も十分承知しているようでした。
土御門家も代を重ねるうちに血が薄まり、術者の保有する霊力が下がったのでしょう。
もちろん、陰陽師は妖怪退治だけではなく暦の製作や星を読むことに関しては我々の右に出る者は居ませんでした。
京の都は平安時代に比べ、遥かに妖の出現率は減っていました。
それは歴代随一と言われた安倍晴明とその子息である吉平、吉昌、三夜、孫である昌浩の五人が京を覆うほど大きい結界を張ったからだと安倍に伝わる書物には書かれていました。
晴明の息子である二人と孫については他の書物に記録が残っていましたが、三夜については全く記述が残っていませんでした。
そんな彼女を見つけたのは本当に偶然でした。その年は日照りが続き、陰陽師である私が貴船神社へ雨乞いをしに行ったのです。その時に彼女を見つけたのです。
思えば、彼女との出会いが私の人生の起点だったのかもしれません。