予感の隣を歩いていく
次々と持ち込まれる書簡に目を通しながら縁側の柱に身を任せていたら、不意に陰りが出来た。
「兄さんに頼みがあるんだけど…」
と共に降ってきた声は馴染みのあるもので…やむなく、書簡を置き、顔を上げた。
「…なんだ?俺は最近忙しいんだ。」
太閤であった豊臣秀吉が死に、勢力図が目まぐるしく変わっていく。最も目につくのは徳川家康の動向と、それに対立する秀吉の家臣団…といっても文官派か。最早、どこから均衡が崩れてもおかしくないところまで来ている。
「知ってるけど…兄さんの力を借りたくて。」
普段、他人を頼らず一人でなんでもそつなくこなす友輔がそこまで言うのは非常に珍しい。
「…何があったんだ?」
いい加減見上げるのも辛くなってきたので、そこに座れと指示を出し、向かいあった。
「僕の師である細川幽斎先生を助けてほしい。」
その言葉に思わず固まった。細川幽斎といえば、元は将軍家の家臣であり、その後…織田、豊臣と仕えた武将である。幽斎の文化人としての才能は多岐に渡り、武将にしておくには惜しいぐらいの教養人だ。武将を忌み嫌う公家がこぞって呼びたがる人でもある。
「…幽斎殿に何かあったのか?」
そんな幽斎を友輔に請われ、歌学の師として招いたのは記憶に真新しい。友輔には俺にはない和歌や連歌の才能があったから、無論反対はしなかった。
「忠興が徳川方につくのは太閤への恩を欠くという理由に小野木 重勝をはじめとする豊臣方が幽斎先生のいる田辺城を攻め始めたんだよ。」
そのような知らせの書簡は目にした覚えがなかったような…いや、俺が三夜に必要な情報を無意識に頭から消していただけか。
「先生は今度会った時には古今伝授を教えてくれるって言ったのに…」
だから、助けてくれるよね?そう言い、小首を傾げる我が弟…友輔はあざとく、狡猾だ。全て織り込み済みで俺に話しているのだろう。ただの文化人、なら朝廷が戦に横槍をするのはあり得ない。惜しい人物を亡くしたな…の一言で済まされる問題である。しかし、話が”古今伝授”の相伝に関わるとなれば別だ。古今伝授は古今和歌集の解釈を秘伝として師から弟子へと受け継ぐものである。幽斎は三条西実枝から子孫に伝授するよう託されてから、まだ一度も誰かに伝授したことがない。つまり、此処で幽斎が死ねば貴重な解釈が永久に失われてしまうわけだ。
「はぁ…幽斎殿の歌道の弟子を田辺城に勅使として出す。それで良いか?」
その言葉にぱっ、と表情に喜色を浮かべる弟は先ほどまでの憂鬱げな表情がまるで嘘のようで、いや…実際嘘なのだろうが。感情が先立って顔に現れているように側からは見えるかもしれないが、この弟はそう単純な感性の持ち主ではなく、己の利害のために手段を選ばない面がある。最初の憂鬱げな表情は間違いなく演技だろう、そして俺が勅使を出すことを確信して此処に来たに違いない。
「ありがとう、兄さん!」
そう言うと、激しく足音を立て廊下を走り抜けていった。あれだげ内裏内で走るなと言っているのに、そろそろ落ち着きがある所作が出来るようになってもいいんじゃないか、と嘆息した。