開けてはならない扉の鍵
「翠さん、朧の刻ってなんなんですか?」
森邸から帰った翌日、華族としてのマナーを身につけるためのレッスンが山のように待ち受けていた。
基本は翠さんが手配した家庭教師に教えられるが、家事などは翠さん本人が教えてくれる。
この時代では男女平等なんて言葉は欠片もなく亭主関白が一般的な訳で、女性は家事が出来ないと嫁に行けないらしい。
文字通り花嫁修行と言っても過言ではないのではないかと思う。
私もある程度はできるがやはり、“平成“と“明治”の差は大きい。
例えば、この時代…津守家は男爵という地位があるからこそ電気が普通に通っているが一般家庭にはまだ普及していない。
ガスもガス灯が神奈川県庁前に初めて灯ったが日常生活で使うには至っておらず、料理など作る際には竈(かまど)と七輪を床上で使う。
と、まぁ…現代では必要なかった技術を会得する必要があるのだ。
それらを翠さんに教わっていた時に、ふと数日前に森邸で疑問に思ったことを私は口にしたのだ。
朧の刻とは何ぞや、と…
すると、翠さんはその言葉に固まった。
どうやら、この時代では常識らしいが翠さんはその言葉に私が未来から来たことを思い出したらしい。
「朧の刻を過ぎると妖(あやかし)が活発に活動し始めるの。魂依でなければ、あまり害はないけれど…」
また出た……“魂依”とはなんなのか。
翠さんは、私が初めて会話した時もその名を口にしていた。
首を傾げていた私に翠さんは更に説明してくれた。
「“魂依”っていうのは妖の姿を認識出来る人間のことを言うのよ。私も魂依だわ。」
つまり、“魂依”というのは見鬼の才がある人間のことなのか。
なるほど、妖が視えるかこそ未来から来たとことに納得してくれたのかと今頃思い至る。
「昔は視える人は沢山居たらしいわ。でも、時代と共に視える人は少なくなり魂依は珍重されるようになっているの。だから、視える私は妖絡みの事件が起こった際には警視庁妖羅課に協力することが多いわ。」
つまりは、常人には妖が視えないから魂依が協力して妖を討伐するということか。
そう考えていると、不意に玄関のベルが鳴った。
翠さんが扉を開けると、そこには警官の姿があった。
翠さんの後ろから様子を伺う。
サーベルを腰にさし、帽子から若草色の髪が無造作に肩へ流した男性がいた。
「あら、藤田さん。」
翠さんがその男性の名を呼んだ。
藤田さんと呼ばれたその人は、後ろにいた咲耶の姿を見て瞠目した。
「お前の娘は死んだのではなかったのか。」
その言葉に予測してましたと言わんばかりに翠さんは首を振った。
「開口一番がそれなのね。彼女は小夜じゃないわ。先週から私の娘になった咲耶ちゃんよ。この仏頂面の警官は妖羅課の藤田五郎さん。」
翠さんに紹介されて、慌てて自己紹介をした。
「つ、津守咲耶です。」
藤田氏は私を一瞥したあとに翠さんに視線を移す。
「ふん、養子か。そんなことよりもお前に協力してもらいたい事件が起きた。」
それは先程、翠さんが話していたような事件だろう。
「あの、翠さん!私も付いて行ってもいいですか?」
“魂依”のワードを聞いた時からなんだか胸騒ぎがするのだ。
悪い予感は外れたことがない。
「だって、藤田さん。構わないわよね?」
「……あぁ。娘、捜査の邪魔をするなよ。」
翠さんにそう問われた時、藤田氏は苦虫を潰したような顔をした。
彼は何か弱みでも握られているのだろうか。
翠さんが準備をするためにその場を離れてから空気が重く、思わず話題を振ることにした。
「藤田氏は視えないんですか?」
ふと疑問に思ったのだ。
わざわざ呼びにくるということは彼には視えないから、ということになるだろう。
「………。」
無言の肯定とはよく言うものだ。
「視えないのにどうやって退治するんですか?」
更に畳み掛けるように言葉を紡いだ。
問わなくても、その答えはなんとなく検討はついていたが…
「俺にはコイツがいる。このサーベルは妖の姿を刀身に写し教えてくれる。」
やはり、そうなのか。サーベルから視えないが気配はしていた。
そう思いながらサーベルを見つめていると、藤田氏はため息をつきながら口を開いた。
「娘、お前は魂依か?」
「さぁ、どうなんでしょう?」
私は平成に居た頃から視えてはいた、しかし兄のように特別見鬼の才が優れていたわけではない。
だから、あまりにも力が弱い妖だと私には視えなかった。
この世界で視たことがないから分からない。
「待たせたわね!」
動きやすい服装に着替えた翠さんが来た。
それと同時にミケが咲耶の肩に乗る。
お前も行くの?と聞くとミケは顔をすり寄せて来た。