数億の溜息



血界の眷属を無事に密封したあと、場違いのように見つめ合う二人にクラウスはどう声をかければ良いのか分からなかった。ので、結局いつものように名を読んだ。

「スティーブン、」
「…あ、あ。クラウスすまない。友人のところのウエイトレスが巻き込まれていたのに、少しばかり驚いてね。」

そう言った彼がチェイン、と人の名らしきものを呼ぶと誰も居なかった空間にいきなりスーツを着た女性が現れた。なにやら、二,三状況の確認をしているようだがその光景に眉を寄せる。数日前から感じていた視線の正体は彼女だったのか、と。以前、拓麻が「不可視の人狼」なるものの存在の話をしていたのを思い出す。「自らの存在を希釈して、超人的な運動能力と透明化することが出来るんだって」と彼は言っていなかったか…?つまり、私は監視されていたわけだ。ここ数日の行動を思い返すが、特に人外的な行動をした記憶はないのが不幸中の幸いか。

「君は怪我はないかい?」
「えぇ、そちらのクラウスさん?という方のおかげで、大きな怪我などはしませんでした。」

と言ったあとに、詰めていた息を吐き危なかった…と思った。先ほどのすりむいたところは表面上血は滲んでいるが、すでに完治済みである。此処で怪我はなかった、などと不用意なことを言ってあらぬ疑いをかけられるのは遠慮願いたい、と思っていたが結局上手くはいかなかったようだ。彼の視線は擦りむいた膝に向いていたのだから。

「でも、膝に血が滲んでいるじゃないか。良ければこれを使うといい。」

そう渡されたのはハンカチで。此処で受け取らない、というのも不自然なので礼を言う。さすがに血がついたハンカチを返す、というのはいくら洗ったとしても申し訳ないので今度店に来た時に新しいハンカチを渡す、と約束を取り付けざる負えなくなった。なお、この時は膝を拭いたフリをしたが完全には拭っていない。完全に拭ってしまえば、傷口がないのが分かってしまうので。

「ところで、君を襲ったやつが途中から君だけを標的にしたように見えたんだが……」

そこで言葉を切り、探るような視線を向けられた。アランさんの知人、ではあるが普段見る女性との交際状況、姿を隠せる部下がいる、この状況に場慣れしている、どれを取っても相手が只者ではないことは明らかだ。しかも、そんな相手はこちらを監視していたということはなんらかの疑いを元からかけられていた可能性もある。

「偶然、ではないでしょうか?たまたま近くに標的にするには良さそうな人間(ヒューマー)が居たから、とかだと思いますよ。」

標的にされた理由がある、なんて思われたら芋ずる式に根掘り葉掘り聞かれそうな雰囲気である。その答えに向うは納得していないようではあるが、そろそろ出勤時間もあるから、お暇することにした。全く、稀に見る災難な1日である。






ライブラの事務所に戻ってから、チェインが報告書にまとめた彼女の情報に目を通す。履歴書のように彼女の経歴が記されている。

「紅 朔ね、」

アランから名前を聞いてなかったから、此処で初めて彼女の名を知った。彼女のHLに来るまでの経歴は至って平凡的であった。平凡的過ぎて、何故彼女がHLなどという危険な場所に踏み入れたのか謎である。そこである一文に目が止まった。

”真偽不明だが、一部異界人の目撃情報として再構成した日に紅 朔を見たものがいる”

再構成した日とは文字通り、NYがなくなりHLが誕生した混沌の一日を指す。以前からNYに住んでいて巻き込まれた、なら分かるのだが彼女の場合は経歴として再構成後に入国したことになっている。一体、どちらが真実なのか。

「アラン、彼女は思っていた以上に謎多き人物のようだよ。」

一人心地にそう漏らしたが、その言葉を拾ったものは居なかった。真実を知りたいならば、本人に確認するのが一番なのだろうが今日のように警戒心を滲ませた彼女が素直に答えてくれる可能性はなきに等しい。それに気のせいでなければ、今日の血界の眷属は途中から明らかに狙いを彼女に定めていた。もし、それが本当ならば彼女を保護する必要性が出てくるだろう。

「さて、どうしたものかね…」



○(吸血鬼騎士を知らない人向けの)補足
主人公の本名は緋桜 朔で、叔母である閑にならって偽名の苗字として紅を名乗っている。
主人公が通っていた黒主学園には夜間部(ナイト・クラス)と普通科(デイ・クラス)が存在しており、夜間部は全員吸血鬼。主人公も夜間部の生徒で寮長が一話目回想登場の純血の吸血鬼、玖蘭 枢。副寮長が三話目回想登場の一条 拓麻。主人公的にはそれなりに二人と親交があったが、閑を枢が殺した件から疎遠に。拓麻とは現在に至るまで連絡をマメにとっている。HLに入るまでの経歴を詐称したのも拓麻である。
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