世界の深淵に | ナノ
彼女はいった、苦しいと。病かと尋ねると首を振った。身体はいたって健康だが、時々締め付けられるような痛みに襲われるらしい。ここの、胸のあたりが、といいながら彼女は小さな膨らみを摩った。何か変な物は食べていないか、とか、日常で変わった事はないか、とかなんとか原因を探そうと彼女を尋問すると、彼女は笑った。
「白咲、お母さんみたい」
心配症だね、そういいながら冷たくなった俺の頬を小さな手で包み込んだ。体温が高い彼女の掌は真冬でも陽だまりみたいに暖かい。その両手に更に俺の氷のように冷たい重ねると、少し、彼女が震えた。
「冷たいね、白咲」
「君は暖かいな、本当に」
「それは褒め言葉として受け取ってもいいかしら」
「そのまま受け取ってくれたまえ」
くすくすと笑う彼女の睫毛に粉雪が少し降り積もっていた。それを溶かすように、右瞼に口付ける。彼女が顔を上げ目が合うと、その漆黒の瞳に引き込まれるように、俺は再び口付けた。左瞼に、鼻に、頬に、そして、唇に。すると彼女は、あ、といいながらまた胸に手を当てた。
「今、ぎゅって、苦しかった」
「大丈夫か?」
「そっか、ねぇ、これ、白咲のせいよ」
思いがけない言葉に面食らってしまった俺はただ首を傾げる事しかできなかった。俺の、せいで、彼女が、苦しい?大切にしている筈だが思わぬところで傷つけてしまっていたらしい。俺はどうすればいい、慌てて尋ねると、また彼女は笑った。
「なにもしなくていいのよ」
「でも、苦しいのだろう、」
「いいの、優しい痛みだから、幸せな苦しさだから、いいの」
言っている意味が益々わからなくて固まってしまった俺は、ただ彼女を見つめるしかなかった。そんな俺を尻目に彼女は笑い続ける。そして彼女のお陰で充分に温まった俺の左手を握り返し、こういうのだった。
「触れられて、嬉しくて切なくて苦しいなんて、世界一幸せだわ」