★じゃずけん!第一話
2014/03/30 17:42

ここは、とある高校の寂れた地下。
その一角にある防音室からは、毎日の様に楽器の音か人の笑い声が漏れている。
そう、この部屋はモダンジャズ同好会の部室件練習場である。

「ワーン、トゥー、ワン! トゥ! スリー、フォー!」
ファラがカウントと共に力強くドラムを叩き始める。
それに追従するように、シンクのベースが響く。
低く響き渡る8拍子と4拍子の中からタイミングを探り出し、今度はリリスが鍵盤を弾く。
その白い指を突き刺すように強く。かと思うと撫でるように柔く。
重低音の渦に鍵盤が踊る。
そして、椅子に座っていたスパーダがすっくと立ち上がり、トランペットを構えた。
それを見て、3人は軽い目配せの後、一瞬の静寂を作った。
不敵にニヤリと笑い、スパーダがマウスピースに口を当てる。
次の瞬間、静寂を切り裂くように稲妻が走った。
ペース配分も何も無い、初っ端からのハイノート。
そのハイノートに惹かれるようにして、再び重低音と鍵盤が舞い戻る。
集合して最初のセッション。
これが、彼等の挨拶だった。
リズムセッションが互いの調子を確かめ合い、それが済んだら部長がトランペットでハイノートを叩きつける。
このハイノートが、部活開始の挨拶だ。
今日の挨拶はダブルハイC。
調子はかなり良いらしい。
リズムに合わせて体を揺らしながらトランペットを調子良く吹くスパーダを見て、自然とリズムセッションのテンションも上がる。
徐々に早まるテンポに、激しさを増すアドリブ達。
どうやら今日は、体力が尽きるまで演奏し続ける事になりそうだ、と予測して。
リリスは僅かに、微笑んだ。


「いやー、しっかし本当にリリスちゃんに入って貰って助かったぜ! まさかこんな実力者が転校して来てたなんてな」
帰り道、鞄を振り回しながら部長であるスパーダが機嫌良く笑う。
「うんうん。私なんてクラス同じだったから初めて見たときびっくりしたよ」
それに答える様に、今度はファラが深く頷いた。
「本当にね。ちょっと情弱過ぎたんじゃないの、部長?」
更に、そこに乗せるようにしてシンクが皮肉る。
「っんだとシンクコラ! 確かになぁ! 確かにこの俺としたことが感はあるけどなぁ! テメーにンなこと言われる筋合いはねーんだよ!」
「へぇ。僕がもう少し同級生から探してみたらって言った時、『この俺の情報網を持ってして見つからなかったんだ。もう2年はアテにならん!』とかドヤ顔で言ってたクセにね」
「あぁん? やるか? やんのかコラ?」
「……僕は別に良いけど?」
シンクが挑発し、スパーダが怒る。
いつも通りの会話の流れに苦笑しつつファラが仲裁(物理)を行おうとしたその時。
「……喧嘩しないで」
静かな、しかし有無を言わせぬ空気をまとった声が割って入る。
最初はファラ一人で行っていた仲裁を、いつの間にかリリスも行うようになっていた。
「でもよォ、こいつが生意気言ってるんだぜ!?」
「違うよ。僕はちょっと指摘しただけさ。僕に非はなーー」
「……ダメだって、言ったんだけど?」
「「……はい」」
ドスの効いた低音が響き、男二人が首を垂れる。
最初は無口で話し掛けられる度にびくびくしていたリリスだが、気が付けば随分と馴染んでいた。
彼女を含めて4人しか部員はいなかったが、部員同士の仲はとても良く、帰り道に雑談をしながら帰るのは半ば習慣となっていた。
話す内容は様々で、あの先生の板書が見にくいだの、今日の演奏はあそこをミスっただの、何で中等部の校舎の音楽室は一階にあるんだだの、しかもガラス張りって頭おかしくない?だの、そう言えば最近ソシャゲにはまっただの、ジャンプを叩いてみたら結構良い音がしたから今度スネアの代わりに使ってみたいだの、もう目茶苦茶である。
そんな事を話しているとあっという間に駅まで着いてしまい、部活はそこで初めて解散となる。
因みに、リリスが入部する前、余りに話が長引いたので駅前の飲食店でドリンクバーだけで粘っていたら、終電を逃してしまった事があったらしい。
同じ部活であること以外殆ど接点が無い筈の彼らだったが、不思議と仲が良かった。
そしてそれは最近入ったリリスも例外ではなく、入部して一週間も経っていないのにも関わらず、既にかなり馴染んでいた。

「いやーでも知らなかったなー」
「……何が?」
帰りの電車の中で、ファラがリリスに話しかける。
二人は帰り道がギリギリまで同じ為、気が付けばすっかり良く話す仲になっていた。
「リリスってさ、本当は凄く面白い子だったんだね!」
膝を手で叩いてリズムを取りながら、ファラが言う。
「……え? 私が?」
到底自分が面白い人間だと思えないリリスはきょとんとして首を傾げる。
「うん! 最初転校してきた時は暗い子だなーって思ってたけど、結構冗談言うし、話始めるとすっごく話し込むし」
「……そうかしら?」
実際、リリスは部活を始めてから随分と話すようになっていた。
「そうだよ! だからきっとすぐにクラスにも友達出来るよ!」
「……どうかしらね」
「イケるイケる! リリスなら大丈夫だって!」
まるで根拠のない確信を持ってファラが答える。
以前のリリスなら、勝手な事を言うな、だの何も知らない癖に、とでも言っただろう。
しかし、この友人の言うことは、何故か素直に聞けた。
「何なら私が友達紹介するよ! ……あっ、そうだ! 折角クラス一緒なんだし、明日一緒にお昼食べようよ!」
「……えっ、と」
だから、彼女にとってはこの提案も嬉しいものだった。
ただ、いつも一緒に昼食を食べる相方に何と言ったものか、一瞬迷ってしまう。
「……うん、私で良ければ、良いよ?」
「よし! 決まりだね!」
よくよく考えてみれば、相方の方が「俺今日他の女の子と食うわ」とかほざいて一人で食べる羽目になった事が何度かあった。
つまり、リリスが他の人と食べても彼には他に一緒に食べる相手がいると言うことだ。
ならば問題ない、とリリスは判断した。
「あっ、私もう降りなきゃ! じゃあ、また明日ね!」
「……うん、またね」
手を振って別れる。
放課後に部活をし、友達と話しながら帰宅する。
普通の学生生活だが、リリスにとってそれがとても嬉しかった。
一昔前には考えられなかった生活。
あの時勇気を出して本当に良かったと思う。
「……♪」
明日の昼食を楽しみにしつつ、リリスは最近音楽プレーヤーに登録したジャズセッションを聞きながら帰路についた。


「……部活、ねえ」
鏡像のリオンは、昼休みの廊下を歩きながら一人呟く。
最近、相方が何やら部活を始めたらしい。
あまり小難しい話は好きではないので、コードの転調がどうだとか、このフレーズが格好良いとか、そういう話は流して聞いていた。
そもそも、普段のリリスを知っているリオンから言わせれば、彼女が部活動をまともにこなしているという事実が既に疑わしかった。
(あんなマイペースな奴に合奏なんて出来んのか? っつーかそもそもあいつ何か楽器出来たっけ?)
適当な事を言ってゲーセンに入り浸っている可能性も十分あり得る。
そして、もう一つリオンにとって疑わしかったのは今朝の一言である。
何時ものように朝食を食べ、一緒に登校して。
これまたいつも通りに下駄箱で別れる際に、リリスはリオンにこう言ったのである。
『……私、今日お昼は友達と食べるから。貴方も今日は他の子と食べて』
「……まっさかなぁ」
まだここに来てそんなに経っていないが、彼女に友達らしい友達がいるという話は聞いていない。
ならば、一緒に昼食を食べるような仲の良い友達がそう簡単に出来るだろうか。
(なーんか、嘘っぽいんだよなぁ)
そこで、彼は自分の目で確認しに行く事にした。
もし嘘だったら少しからかいに行こう、という名目で。
……実際は、本当にちゃんとした友達が出来たのかという不安と、自分以外に一緒に食事をするような仲の相手がいるという事に対する若干の嫉妬があるのだが、彼はそれを認めようとはしなかった。
リリスのいる教室に行くのは、大して苦労しなかった。
何度か放課後の買い物に付き合って貰おうとして、迎えに行ったことがあるからだ。
「さてさて、どんなもんかなっとーー!」
そこまで言って、リオンは口を噤んだ。
教室の中、紅いリボンで結ばれたポニーテールの少女が、席に座って今朝自分が作った弁当を食べている。
そして、その正面に濃い緑髪の少女が座って同じく弁当を食べている。
それも、ただ向かい合って食べている、という感じではない。
特に向かいの少女はそんなに喋って食事が進むのか、と思う程頻繁に話をしている。
「…………」
そして、対するリリスも、自分が見たことがない程に楽しそうな顔をしていて。
向かいの少女が喋る度に微笑しながら答えているのが見て取れた。
「…………」
自分の知らない表情で、自分が見たことがない位会話をしている相方の少女を見て、リオンは表情を失っていた。
その内、向かいの少女の友達であろう数人の女子が二人に加わる。
一瞬困惑した表情を浮かべたリリスに安心している自分に気付き、ハッとする。
しかし、意外にもリリスは新しく加わった女子とも拙いながら会話をしているようだった。
どころか、徐々に馴染んでいる様さえ見て取れた。
更に賑やかになる様を尻目に、リオンは黙って教室から離れた。
「………ッ、………!」
気が付けば急ぎ足で教室に向かい、弁当を鞄から取り出して屋上へと向かっていた。
「………はぁ」
何やってんだ俺は、と自問しながら、リオンはいつも二人で食事する辺りに腰を下ろす。
空は憎たらしい程の快晴で、鮮やかな青が天を覆っていた。
(………別に良かったじゃねぇか。あの根暗女に友達が出来たんだ)
黙々と弁当を食べながら思考する。
今日の卵焼きは少し水っぽかったかも知れない、などと反省点を確認しつつ。
(……まあ、あいつ相手じゃ苦労するだろうけどな。持ってせいぜいーー)
そこまで考えて、再びリオンの顔は苦し気に歪む。
(………嫌な奴)
良かった、と納得しておきながら次の瞬間にはその関係が終わる事を望んでいる。
自分のあまりの女々しさに反吐が出そうだった。
「っとに、最低だな、俺は……」
「全くだな」
「!?」
自虐が心に広がり、吐き捨てるように呟いた直後、背後から自分とそっくりな全然似ていない声が落ちてきた。
完全に不意を付かれたリオンはびくりと身体を硬直させーー忌々しげに唸った。
「……何の用だよ、オリジナル」
「別に用など無い。ただたまには屋上で食事をしようと思っただけだ」
それからその呼び方を止めろ、と加えて言い、リオンのオリジナルーーリオン・マグナスが隣に座った。
「あっそ。ならもっと離れた所で食ってくんねぇ? 俺今すっげぇ気分悪いんだけど」
「そんな事は見れば分かる。だが、僕にとってそれはどうでもいい事だ。ここが一番見晴らしが良さそうだから僕はここで食べる。貴様こそ、気分が悪いなら保健室でアニーでも口説いて来たらどうだ?」
流れるようにリオンの悪態を切り捨てると、オリジナルのリオンは弁当箱を開け、黙々と昼食を食べ始めた。
「……お前、性格悪いよな」
「人の事を言えた口か?」
「………」
容赦のない皮肉の返しに、先程の自虐が蘇り、リオンは黙り込む。
「………」
「………」
それから、どちらも喋ろうとはせず。
黙々と、昼食が進んだ。
(……んな事は、分かってんだよ)
空になった弁当箱をぼんやりと見つめ、リオンは考える。
(……でも、しょうがねぇだろ)
そう感じてしまったのだから。
祝福したい気持ちは自分にも勿論ある。
でも、自分以外と仲良くしているリリスを見た瞬間に、心が酷く痛んだのも事実で。
どうしても、認めたくない自分に気付いてしまう。
喜ばなければ、と思う程に、リリスを独占したがっている自分に気付いてしまう。
それがどうしようもなく、辛い。
「………どうしろってんだよ」
沈黙が長かったせいか、不意に心の声が形をもって漏れる。
「……俺だって、あいつに友達が出来たんだから、喜びてぇよ……何で、俺は、そんな事も出来ねえんだよ……!」
一度漏れ出した感情は、中々止まってくれない。
最初は聞こえるか聞こえないかの大きさだった声は、気が付けば結構な大きさになっていた。
「一言、良かったなって言ってやることも出来ねえ! 心の中で、密かに祝ってやる事も出来ねえ! ……ただ、嫉妬を感じただけだ」
ついには、半ば叫ぶような声で感情を吐き出していた。
「へっ、本当、情けねーな、俺は……女々しくて、吐き気がするぜ……」
ふと冷静になり、再び掠れた小さな声で呟く。
こんな事は、今まで無かったのに。
一体いつから、こんなに情けない人間になってしまったのだろうか。
そんな事を考えながら、リオンは項垂れた。
「……全くだな」
唐突に隣から返って来たのは、慰めでも同情でもなく、まるで容赦の無い短い肯定だった。
「本当に、愚かな奴だ。自分が何を言っているか分かっているのか? 余りに馬鹿馬鹿しくて、聞いているだけで吐き気がするな」
「……っ、…て、めぇ……!」
続く容赦の無い追撃に、リオンはまるで似ていない瓜二つを睨み付ける。
この捻くれ者に、心を開くべきではなかった。
この世界なら、もしかしたら少しは分かり合えるかも知れないという淡い期待が死んでいくのを心に感じながら、リオンは激しく後悔した。
殺意すら篭った眼光をまるで意に介さず、黒髪の皮肉屋は言葉を続けた。
「……お前は、とっくに喜んでも祝ってもいるだろう」
「………は?」
目を合わせずに続けられた言葉に、リオンは言葉を失った。
さっきから喜べない自分に悩んでいるというのに、この男は何を言っているのか。
「分からないのか? 貴様は今喜びたいとも祝いたいとも言っただろう?」
「……そりゃ、言った、けど」
「その時点で、もう祝うつもりはあるだろう」
何を当たり前の事を、とでも言いたげに溜息とともに皮肉屋が告げる。
「……お前、話聞いてたのかよ……俺は、嫉妬してたんだぞ?」
「それは当たり前だな。ここに転校する前からずっと二人で過ごしていたんだろう? ならば、この状況で嫉妬するのは当然だ」
「………」
「嬉しい反面、嫉妬もしている。それだけの話だ。よくある話じゃないのか? そこまで悩む事だとは思えないがな」
そこまで話すと、皮肉屋は何事も無かったかのように立ち上がり、階段へと歩き始めた。
「……おい、オリジナル」
勝手に喋って勝手に帰る皮肉屋に、リオンは一言言いたくなって呼び止めた。
「何だ? ……それから、その呼び方は止めろ。何故だか分からんが非常に不愉快だ」
振り返らずに皮肉屋が応える。
言いたい事は決まっている。ただ、言い方を考えてしまって言葉に詰まる。
「……辛気臭い話聞かせて、悪かったな」
結局、言いたかった事とは大分ズレた言葉が口から出る。
人にツンデレ野郎とか言えたタチではないのかも知れない。
「……何の話だ? 僕は何も聞いていない」
「………そうかよ」
どうやら皮肉屋は、聞かなかった事にしてくれるらしい。
ここまで偉そうに説教しておいて、今更この口上は無理がある気がして、内心で突っ込む。
「………ーーーー、」
今度こそ本当に教室に帰った皮肉屋の、階段を降りる音が聞こえなくなったことを確認し、リオンは小さく本音を呟いた。
空は、まだ青い。


放課後、リリスが鞄にノートと教科書をしまっていると、一人の少年がリリスに近づいて来た。
「先輩、ちょっと良い?」
「……シンク君? どうしたの?」
シンクは中等部の生徒なので、制服が違う為良く目立つ。
そもそも、部活関係の連絡なら同じクラスのファラがしていた。
わざわざ中等部の生徒であるシンクが連絡に来るのはどういうことだろうと思い、リリスは首を傾げた。
「それがさ、今日ちょっとうちの先生に交渉したら、水金だったら中等部の音楽室使わせてくれるってさ」
「!? 本当に!?」
予想もしていなかった朗報にリリスは目を見開いて驚いた。
「……こんな所で嘘吐いてどうするのさ。今、ファラ先輩と部長は先生とお話中でね。残った僕達で準備しろってさ」
「……分かった。じゃあ、早速行こうか」
状況を把握したリリスが立ち上がり、二人は早足で中等部へと向かった。

「ああ、そうそう、音楽室だからグランドピアノ使えるってさ」
「グランドピアノ!? ……私が弾いて良いの?」
中等部へ向かう途中、シンクがもう一つの朗報を伝えて来た。
以前からピアノに憧れていたリリスにとって、願っても無いチャンスだった。
「……あのさ、先輩以外に誰が弾くの?」
若干呆れた表情でシンクが答える。
この新しい先輩は、基本冷静だが何処か抜けている。
「……そうだけど、ちょっと信じられなくて…」
「そんなに嬉しい事? グランドピアノって、やっぱキーボードとは違うもんなの?」
シンクが何の気なしに聞いた問い掛けに、リリスは勢い良く顔を向け、目を輝かせて朗々と答えた。
「ええ、私も実際に弾いた事は無いからあんまり細かい事は分からないけど、やっぱり全然音の表現の幅が違うみたいなの。こないだ見た動画でグランドピアノ一人でずっとソロを弾き続けてるのがあったんだけど、やっぱり音の重さが違うと思ったわ。ゆっくり押し込んだ時の音は凄く荘厳な感じで、勢い良く叩いた時は、そうね、鉄が鋭くぶつかったみたいな……ううん、豪雨が水面を激しく叩いたみたいなイメージの音がしたわね。後、優しく撫でるとシルクに触れた時の様なーー」
(ああ……始まった……)
シンクは地雷を踏んだことに少し遅れて気付いた。
そう。この新しい先輩は、何処か抜けていると同時に、物凄く熱い所がある。
音楽に関しては素人、と言っていたが、少なくとも部活で関わるようになってから見ている感じでは、熱意に関しては部長に勝るとも劣らないレベルだと、シンクは思う。
長話は基本嫌いだが、何故だかこの先輩の話は嫌いになれなくて。
つい、苦笑しつつ相槌を打ってしまう。
結局、音楽室へ着いて机や椅子を整えて、申請手続きを終えたスパーダとファラが帰って来るまで、リリスのグランドピアノ最強説は続いた。


「……はぁ」
同じ頃、リオンは昼休みにオリジナルに言われた事を考えていた。
確かに、リリスに友達が出来た事を祝っている自分はいるのかもしれない。
言われて見れば、そうでなければ自虐は起こらなかっただろう。
そして、同じ位妬む気持ちを持ってしまうのは当たり前の事で、別に珍しいことでもないらしい。
少なくともあの皮肉屋はそう言った。
(……そういうモンかねぇ)
だとしたら、所謂「普通の人間」という奴は皆これが飲み込めているのだろうか。
少なくとも、リオンにとってはこんな感情は初めてだった。
「…………買い物行くか」
控えめな溜息を一つつくと、リオンは日課であるスーパー巡りに行こうと立ち上がった。
こういうテンションの低い時は買い物をするに限る。
彼にとってスーパーは聖域だった。
スーパーにいる間は、彼は全ての憂鬱を忘れられた。
スーパーに入り、野菜の値段を確認しながらいつものおばちゃんと立ち話をすれば、大抵の事は解決する。
それが、この世界でリオンが見出した最初の法則だった。
(……今日は水曜だから乳製品が安いか……つっても今牛乳は足りてるしな)
歩きながら今日のターゲットをリストアップしていく。
毎日のようにやっていたせいか、すっかり慣れてしまっていた。
(……! 待てよ、今日確か2件目の所が缶詰半額だったな。 じゃあ適当な所でチーズ買って、あそこでホワイトソース買うか)
今朝、広告で確認した缶詰半額セールの事を思い出したリオンは、即座に夕飯のメニューをグラタンにすることを決定した。
偶然というべきか、以前リリスがグラタンをとても嬉しそうに食べていた事も覚えている。
(缶詰だったら日持ちするしな、ついでに色々買っとくか。サバ缶とサンマ缶は買うとして……そうだ、トマトの缶詰もーー)
ついでに缶詰をまとめて買おうと計画を立てながら歩いていたリオンが、突然凍りついた。
偶然視界に入ったのは中等部の音楽室。
何故か1階に作られているその部屋は、更に妙な事に外側をガラス張りにしてある。
「………っ、なん、で」


その向こう側に見えるグランドピアノに、相方の少女が座していた。

演奏に夢中になっているのか、此方には気付かない。

鍵盤に意識を集中している為か、伏し目がちな表情で。

その艶やかな黒髪を踊らせて、鍵盤を弾く。

突き刺すように激しく。撫ぜるように柔く。

意思が宿ったかのように指が踊り、身体がそれに追従する。

まるで、操り人形のようだと思った。

乱舞する指先に引かれて踊る、人形。

しかし、同時に紅く輝くその双眸には、強い意志が宿っていて。

「…………」

気が付けば、身動き一つ取れずに固まっていた。

ガラス越しだから、どんな音なのかは判然としない。

しかし、それがより一層リリスの美しさを際立てていた。

結局、踊りが終わるまで、少年はずっと見惚れていた。

無音の硝子の向こうで踊る、鍵盤の女王に。

演奏が終わり、リオンはようやく意識を取り戻した。
どれ位の時が経っただろうか。
彼にとっては、何時間もそこに立っていたような気分だった。
「………っ、……」
言葉が出ない。
割と陳腐な褒め言葉だが、彼は今まさにその状態である。
意識を取り戻しは良いが、まだ動けずにいた。
部活仲間であろう人と談笑する少女は、やはり自分の相方で。
そしてやっぱり、自分が見たことのない表情をしていた。
「………っ」
途端に胸が切なくなる。
柄じゃ無い、と思っても止まらない。
思えば、この時せめて立ち去っておけば良かったのかも知れない。


不意に、室内のリリスと目が合った。

紅い瞳が大きく開き、驚愕を象る。

次の瞬間、リオンは全力で駆け出していた。


「……っ、はぁ、はぁ、………っくそ、くそっ……!」
気が付けば学校の屋上にいた。
何故わざわざ校舎に戻ったのかは分からない。
相当混乱していたらしく、ここに来るまでの記憶が殆ど無かった。
(……見られた………)
大きく見開いた瞳が脳裏を過る。
完全な失態。
生まれてから今までして来た中で最も情けない表情をしていた所を見られた。
外から部活をしているあいつを見ていた所を見られた。
急激に顔に血が集まり、赤面する。
恥ずかし過ぎて、このまま空に溶けてしまいたい気分だった。
「………はぁ」
溜息をつく。
今日は厄日だ。
とっとと帰宅した方が良いのかも知れない。
全身に感じる疲れを抑え込み、立ち上がろうとしたその時。

「……リオン?」
「ーーーーッ!?」

今日一日、彼の心を振り回し続けた少女が、背後にいた。


「お、まえ……っ、なんで、」
「………」
余りに唐突過ぎる登場に思考が追いつかないまま、リオンが問いかける。
リリスはいつも通りの無表情で、じっとリオンを見つめていた。
「……何だよ。何か言えってんだよ……」
「………」
自分を見透かすようなその視線から逃れるように顔を逸らし、リオンはいつも通り悪態をつく。
その悪態にも反応せず、リリスはリオンの隣に座った。
「………」
「………」
しばらくの無言。

「……っ!?」
先に動いたのは、リリスだった。
白い手が、リオンの金髪を不器用に撫でる。
慣れていないのか、撫でる手はぎこちなく。
がしがし、と音がしそうな力だった。
「……おい、何やって……」
突然の事が多過ぎて半ばヤケになって撫でられているリオンが、講義の声を上げる。
リリスの答えは短かった。
「……権利」
「あ?」
内容が把握出来ずに聞き返すリオンに、今度はしっかりとリリスが答える。
「……私に『だけ』あるんでしょう? 貴方の頭を撫でる権利」
「……!」
見たことが無い程、優しい微笑。
夕方と夜の合間を背景に、初めて見る表情が、リオンに向けられる。
心の中に巣食っていた何かが崩れ落ちるのを感じながら、リオンは黙って撫でられる事にした。

「………ありがとね」
しばらく、無言でリオンを撫でていたリリスが、不意に口を開く。
「……礼を言われる筋合いはねーぞ」
本当に思い当たる節の無いリオンが悪態をつく。
「うん。でも言わせて?」
「………ハッ、勝手にしろ」
聞いたことの無い程、優しい声。
それに聞き惚れそうになる自分が癪で、リオンは顔を逸らしてそう言った。
「……で? 戻んなくて良いのかよ」
更に、リオンが続ける。
きっとこの女の事だから、大して理由も述べずに部活を抜け出て来たのだろう、と予測しながら。
「……? 何が?」
きょとんとした表情で首を傾げる相方に、脱力してコケそうになる。
「……部活、途中なんじゃねーのかよ」
リオンとしても、今は一人になって落ち着きたかった。
心の靄は晴れたものの、今度は今日一日の自分を冷静に振り返ってしまい、別の意味で気が狂いそうだったからだ。
「……今日は、早退するわ。久々に一緒に帰ーー」
「ばーか。とっとと戻れっつーの。友達無くすぞ?」
またも爆弾を投下して来た相方を、強めの言葉で押し返す。
部活より自分を優先してくれた事を喜ぶ女々しい自分を蹴り飛ばして。
「……でも」
「あーもううっせえうっせえ。俺は何も気にしてねえから、変に気使うなっての。……今から買い物して、夕飯作って待ってるからとっとと行ってこい!」
買い物と料理をすれば、取り敢えず普通の状態には戻れるだろう、と算段を立てて、リオンは背を向けて立ち上がった。
今顔を合わせる事は出来ない。
今顔を見られる訳にはいかない。
「……? 分かったわ」
頭に疑問符を浮かべつつ、リリスが頷く。
窮地を脱した事に安堵しつつ、リオンは一言付け加えた。
「……半額のホワイトソースが売り切れてなかったら、今晩はグラタンにするから、その、何だ……早めに、帰ってこいよ」
夕飯の献立を伝えるだけの筈が、つい余計な事まで言ってしまう。
やはり今日は、調子が悪い。
「……ええ。分かったわ」
リリスがそう返したのを聞くと、じゃあな、と言いながら手を振り、リオンは今度こそ買い物へ向かった。


「……ったく、本当最低の日だったな」
帰り道、無事に予定通りのものを買えたリオンは一人ぼやく。
相方を冷やかしに行って自爆して、オリジナルに内心暴露して説教されて、挙句の果てにピアノを弾いてる相方に見惚れた上にそれがバレて。
結局ここまで気にしていたのは自分だけだったのかと思うと、本当に馬鹿馬鹿しくて笑えてくる。

(………まあ、でも)
脳裏を過るは、黒く紅い鍵盤の女王。
そして、初めて見る柔らかな微笑。
(………悪くは、なかったかも知れねぇな)
せめて夕飯はしっかり作ろう、と心に決め、リオンは家路を急いだ。

余談だが、この日を境に、二人が喧嘩をしたり気まずくなる度に食卓にグラタンが出るようになったと言う。


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