シュガー不足
イチャイチャさせたかったけどできませんでした。
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たいして広くもない宿の、簡素なベッドの上で静かに泣いたキリトは、むくりとベッドから起き上がると、ストレージから鏡を取り出した。今日ほどこの世界がバーチャル世界でよかったと思ったことはない。アバターには隈もなければ、泣いた痕跡も見つからなかった。これならば、自分がボロを出さなければPoHに悟られることもないだろう。自分に何か仕掛けられていないか念入りにチェックした後、キリトは早々に宿を出た。もとより泊まる気はない。
新しいアジトの場所に行くまでには、場所を知られないためにいくつかダミーのアジトを通る必要がある。PoHはそこのダミーアジトの一つで俺を待っているらしい。わざわざ俺のためだけに、ご苦労なことだ。思わず皮肉げに表情を歪めてしまう。
あの言葉一つで今まで扇動PKを行ってきたPoHに、ヒースクリフとの会話を悟られないようにするのは至難だ。一番バレてはまずいのは、もちろんラフコフ壊滅を俺が目論んでいることだろう。しかし、それは元々計画にあったことだ。バレているのなら、とっくに俺の対策をしているだろう。まだバレていないと信じるほかない。それに関しては、いつも通りを振る舞えばいい。
それとは別に、PoHにバレるとまずいのは、言わずもがなヒースクリフと一つ屋根の下、濃厚なキスをされ、そして告白されたことだろう。
──────バレたら死ぬ。絶対死ぬ。殺される。
考えただけでも恐ろしいのに、実際に言う勇気はない。しかも、勝手にキスされたことに怒りはあっても、嫌悪できなかった事については言い逃れできない事実である。断じて浮気などではないが、犬に噛まれた、で済ませられない相手であるのもまた事実だった。あぁしかし、ヒースクリフをここでPoHに売り渡してしまうのもありかもしれないな、と荒んだ心で考える。やつらが勝手に争って、共倒れになってくれれば万々歳だ。
「私のために争って、ってか」
ハハ、と渇いた笑いがこぼれ落ちる。もとよりキリトは自分の身が可愛くて仕方のない人間だ。今となっては死ぬ事にあまりためらいはないが、時と場合によるのも確かである。こんなくだらないことで死んでたまるか、と思う。それも大切な人を守って、と言うかっこいい死に方ではなく、他人のせいで浮気を疑われて死亡、なんて冗談じゃない。
キリトはダミーアジトへと向かう前に、どうPoHに言い訳したものか、と考える事に集中した。どうせ、何があったかは聞かれてしまうのだ。嘘をつかず、なるべく本当のことは言わないように切り抜けるしかない。あのPoHに、それができるかは不安ではあるが。
「ヒースクリフ、今度会ったら一発ぶん殴りたいな……」
密かに野望を胸に抱いて、攻略組のいるこの階層から、逃げるように転移した。
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なんとなく、嫌な予感はしていた。PoHにとってそれは無視できない類のものであったから、なおさら。だから、キリトが俺の目の前に現れて、安堵するどころか、逆に不安を煽るような心境になったのは、PoHにとって予想通りの出来事であった。しかし、予想が当たったからと言って、喜べるわけがない。
キリトは、いつも通りだった。ヒースクリフとの間には何もなかったのだろうと、他の奴らが見ればすぐに納得してしまいそうなほどに、いつも通りの飄々とした態度のまま、俺へと報告を済ませていた。だが、それが失敗だったのだ。キリトはあまりにも────いつも通りすぎたのだ。
「……PoH?」
キリトが不思議そうに首をかしげる仕草さえ。PoHにとっては、苛立ちを掻き立てる仕草にしかならない。
普段であれば可愛らしいと思えるその仕草が、演技だとわかるがゆえに。
「キリト。もう一度言う。何があったか、最初から全部言え」
「……何もなかった、って」
「あの男がわざわざ呼び出したってのに、何もないわけねぇだろ。俺だったら、絶対に手を出す。なぜ記録結晶を使わなかった」
「使わせてくれなかったんだよ」
「何もないのに、か?あの男がそんな意味のないことをするとは思えねぇな」
PoHは、ヒースクリフが大嫌いである。アレが只者ではないことぐらいわかっていたし、敵対するであろう攻略組の筆頭であったのだから、戦闘面でも警戒は十分していた。当然よく調べたし、性格もその分知っている。もちろんキリトほど調べてはいないし知ってもいないが。しかし、それだけではない。
キリトがあの男のことを、特別だと思っていると、PoHは理解していた。だが、理解はしていても、感情面では別なのだ。《閃光》ならばキリトの死を見届けさせてもいいと思えるが、あの男だけは真っ平御免であった。気にくわない、と言ってしまえばそれまでなのだが、その理由は嫉妬である。あの何もかもを見透かしているような真鍮色の瞳がキリトを捉える時だけ愉悦に歪むのを知っている。そして、キリトもまた、あの男を特別だと思っているのだ。あぁ、憎たらしい。
そんな存在との間に、キリトが俺相手に演技するほどの何かがあったとするならば。生かしておけないと思う。ヒースクリフはもちろんのこと、場合によってはキリトさえ。だからこそ、中身を知らねばならなかった。キリトを殺すのは、その中身を聞いてからでいい。
「……はぁ。あーもう、そんなに気になるなら、身体全部触って確かめればいいだろ。消毒もかねてさ。やましいことは何も無いって言っても信じないなら、それしか無いだろ」
キリトはそう言うと、ベッドに移動して、服を脱いだ。PoHははぐらかすなと言おうとしたが、キリトの言うことも一理あるかと思い直した。どうせあの男に会ったあとで、消毒する予定ではあったのだ。ヴァーチャル世界だから匂いやマーキングなどは意味がない、などと言う話ではない。PoHの精神的に、キリトが他の男と会っていたのが許せないのだ。それがかつての仲間だった時でさえ、嫉妬していたのだから。
上半身に黒いシャツだけを纏い、あとは全て脱ぎ去ったキリトは、ベッドの上でPoHを待っていた。
さて、どうしようかと考えながら。なんとかこの場はごまかせたようだが、どうやらPoHは違和感を感じてしまったようだ。己の演技の未熟さはどうしようもないので、そこは仕方がない。覚悟はしていたことだ。しかし、このままでは全てを吐かされてしまう。そうなれば、もしかしたらラフコフ壊滅を企んでいることがバレる可能性もある。
そうなるぐらいならば、やむを得ないがヒースクリフのことをぼかして伝えるしかない。告白された、と言えば納得するだろうか。流石にキスの事まで言う必要はないだろう。こんな事で死ぬのはまっぴらである。……けれど、あぁ。今すぐキスして、上書きをして欲しいと思ってしまうのは、仕方のない事ではないだろうか。
「……キリト?」
上半身に一枚しか服を着ていない状態のまま、ベッドの淵まで移動して、PoHに擦り寄る。ぐい、とPoHの襟元を掴み、ゆっくりと顔を近づけ、そしてキスをした。PoHは驚きつつも拒みはしなかった。触れるだけのキス。しかし、それではだめなのだ。
あの唇の感触を。
あの舌の熱さを。
あの息苦しさを。
全てこの男で上書きしなければ、俺はきっと眠れない。
「ン、」
キリトはベッドの上で膝を立てて、PoHの首に腕を回してキスをした。ねっとりと絡み合う舌をすり合わせ、熱い吐息を交わしながら、どろりとした瞳をPoHの瞳に映す。
──────紅い瞳だ。
俺を絡め取って、愛してやまないと言うような、俺への愛しさを煮詰めたような瞳だ。……バーチャル世界なのに、どうしてそれがわかってしまうのだろう。あの男といい、PoHといい、目は口ほどにものを言うなんて事が本当にあるのだと。
PoHの唇と舌が俺の口内へ侵入し、捕食される。まるで食べられているかのような感覚に、俺はそっと目と閉じた。俺の頭の後ろに手を回して、俺が逃げられないようにキスしている。
ぢゅっ、グチュ、ちゅぷっ、ちゅ、ちゅ、ちゅっ
「んぐ、んぅう……っ!」
あまりの激しさに思わず目を開けると、至近距離にあった苛烈な瞳にキリトは硬直した。それを見逃すPoHではなく、酸素ごと呑み込むようなキスをされる。それでも足りないのか、口内を好き勝手に蹂躙していた舌がキリトの舌を絡めとり、そのままPoHの口内へと導かれる。
舌を噛まれるのだとわかって身構えたが、襲ってきたのは痛みではなく快楽。甘噛みでキリトを翻弄し、そのあとキリトの上顎をなぞるようにゆっくりと、丁寧に気持ちいいところを探していくような舌遣いに、膝立ちをしているキリトの脚がガクガクと震えた。さっきまで強引だったのに、急に優しいキスに変わって、頭がぽわぽわとしてくる。そしてとうとう、キリトはビクビクと身体を震えさせて、崩れ落ちた。
「……珍しくキリトからキスするから、多少は耐えられるかと思ったんだが……」
へなへなと腰が抜けてしまったキリトを見て、PoHはペロリと唇を舐めた。キリトはそんなPoHをまともに見ることも叶わず、「はぅ、はっ、はぁ」と肩で息をしていた。キスだけでここまでになったことはなかったので、ありえない快楽に頭が追いつかない。
「キスだけでも十分イイだろ?ここまでしたことはなかったが、気に入ってくれたようで何よりだ」
「……こんな、どこで、覚えてくるんだよ……」
「クク、嫉妬すんなよ、キリト。そのおかげでオマエを気持ちよくしてやれるんだからな」
上書きなんてものじゃない。キスというものを根底から覆された気分だ。キリトが息を整えていると、PoHはベッドに座っていた俺を押し倒し、紅い瞳で問いかけた。
「で、キリト。あの男にキスを許すとはどういうことだ?」
底冷えするような声音で問いかけられ、キリトは思わず言葉に詰まった。悟られないように、声をあげる。
「……考えすぎだよ」
「……オレ以外なら騙せたかもしれねえけどな。もう一度言うぞ。あの男に呼び出されて、何もないわけないだろうが」
と。先ほどと同じ言葉をもう一度言われて、キリトは『あぁ、詰んだな』と己の運命を悟った。ボロを出さないようにしていてもこれだ。どうせいつかバレるのだから、早いか遅いかの違いでしかない。しかし、こんなことで死ぬのは御免である。
バレた時のための作戦に移るとしよう。
「────言っておくけど、俺は何もしてないからな。あいつが無理やりしてきたんだ」
大人しく白状したキリトに、PoHは眉尻を釣り上げた。
「なぜ隠した?」
「バレたらどうせ俺が誘ったとか言われるだろうと思ったんだよ。俺は無実だ。浮気なんてしてない」
「それを決めるのはオレだ。洗いざらい全部話せつったろうが」
キリトを睨め付けながらそう言ったPoHに、キリトも睨み返す。
「あいつが俺を脅してきたんだ!言うことを聞かないと圏内で晒し者にした挙句、攻略組に無理やり連れ戻すって言われて、抵抗しようとしたら地面に押さえつけられた。圏外でだぞ!?」
嘘を信じ込ませるためには、真実を織り交ぜて話せばいいと言っていたのはこいつだ。圏外で脅されたのは本当。攻略組に無理やり連れ戻されそうになったのも本当。晒し者にされるのは多分半々の確率で本当。ただし、『地面』は嘘。圏外の宿屋の狭い一室だなんて言えるわけがない。だが、地面かどうかよりも他の部分の方が重要性は高い。ならばこの嘘は通る。これは確信だった。
「それで?反撃できる隙はあっただろうが」
「……腕を押さえつけられて、足も封じられた。結晶どころか麻痺毒ナイフだって取り出せなかった。麻痺毒ナイフは見つかって捨てられたけど。これでも俺だって頑張ったんだ」
これは全て本当だ。嘘をつく必要がない。ただし、押さえつけられたのは柔らかいベッドの上だと言う事実は伏せておく。
「そんな状態で、抜け出そうとしたらキスされたんだぞ?不可抗力だ」
俺がそう言うと、PoHは少しだけ納得したのか、俺を押さえつけていた腕の力を緩めた。もちろん抜け出そうとはしない。まだ完全に信用されてはいないからだ。
「舌を入れられそうになったから、噛んで拒否した。好きでもない男からのキスを受け入れられるほど、俺は寛容じゃない」
「……なるほどな。だから、消毒、ね」
そうだ。消毒されたいと思ったのは本当だ。ヒースクリフのあの舌の感触を忘れたかった。
「だが、それだけじゃねぇよな」
さすがPoHだ、今の話だけですむはずがないとわかっていたらしい。これも、事前に考えていたセリフで躱す。
「……告白、された」
そう、告白だ。狂っていた、あの告白。人を引き寄せるような、磁力的な真鍮色の瞳に俺を映しての、告白。そう言う意味でヒースクリフに見られていたなんて思っていなかった自分にとって、思いがけない出来事であった。
「返事は」
ヒースクリフがキリトに惚れていることなどとっくに知っていたPoHは、キリトにそう問いかけた。自分では絶対に言わないが、キリトに向けられる視線の熱は、自分と種類は違いこそすれ、執着と呼べるものであるのは、遠目からでも十分気が付いた。だが、これはキリトの方が驚いていた。
「え、なんで驚かないんだ?」
「……まさかオマエ、自分に向けられた視線の意味を知らなかったのか」
これにはPoHも驚いた。と言うより呆れていた。どれほどの鈍感さなのか。PoHでさえわかったあの熱を、キリト自身が気がつかなかったことには驚きを隠せない。いやしかし、PoHにもなんとなくだが覚えがあったので、今更かとため息をつくにとどめた。
「返事は?」
もう一度問いかけると、キリトは一瞬だけ目を細めた。PoHはそれを見逃さない。
「……断ったに決まってるだろ」
「本当に、ちゃんと断ったんだろうな」
「俺にはPoHがいる、ってちゃんと言った」
「それは断ったとは言わねぇんだよ」
それを聞いたキリトは、言い訳をするようにPoHに返す。
「だってあいつ、俺がどれだけ迷惑だって言っても聞かないんだよ!」
そう言っても、PoHの視線は冷たいままだ。
「はっきりと『嫌』とか『付き合えない』、なんなら『死ね』ぐらい言えよ」
キリトは言えない。たとえヒースクリフに「嫌だ」とか「お前とは付き合えない」と言ったのだとしても、「私が君を好きな事に変わりはないのだから、関係ない」と言われることなど。そして、俺の計画する《笑う棺桶襲撃作戦》にて、PoHを捕まえる事によって、俺との恋人関係が終わると考えているから引く気がないと言う話も、言えるわけがないのだった。どうしたものかと考えあぐねていると、PoHがキリトに問いかける。
「まさか、あいつに絆されたんじゃねぇだろうな」
「……無理やりキスされた事については怒ってるけど、結局突き離せなかったのは俺の落ち度だし、誤解されても仕方ないとは、思う。けど、本当に、俺が好きなのはPoHだけだよ」
お前が俺を愛してても女を抱けるのと同じなんじゃないのか、と言う言葉が喉元まで出かかったが、それを言うと火に油であることは重々承知している。俺がPoHを見つめてそう言うと、PoHは俺をしばらく見つめた後、顔をそらしてチッ、と舌打ちした。
「……どうしたら、許してくれる?」
俺はPoHにそう問いかけると、PoHはこちらを流し目で見つめた。低く、そして甘さを含んだテノールで答えた。
「ヒースクリフをその手で殺せ」
と。これに関しては、キリトは本心から答えた。
「できるもんならやってたわ!言っておくけど、アイツ絶対ぶん殴るからな。もし殺すとしても殺す前に俺に一言声かけてからにしてくれ。そしたら心置きなくどうぞ!」
と。キリトは結構ご立腹であった。ぎょっとしたPoHは、キリトがキレ気味(否、キレている)状態でまくしたてるのを聞くしかできない。
「アイツのせいで浮気疑われて俺までお前に殺されるとか、せめてもうちょっとマシな死に方したいと思ってもいいだろ!?やだって言ってんのに人の話聞かないし、怖いし、自分勝手だし、狂ってるし、そう言うとこお前と似てるって言ったら似てないって言うし!いやだからそういうとこだよ!」
言いたいことをぶちまけ、ゼーハーと肩で息をするキリト。そんなキリトに毒気を抜かれたのか、PoHははぁ、とため息をついた。
「オーケー、もういい。確かにオマエの反応次第じゃ殺そうかとも考えたけど、やめだ。確かにこんな整ってもいない舞台でオマエを殺すのは勿体ねぇ」
「そうしてくれると嬉しいよ」
キリトはやった!と微笑んだ。とりあえずの窮地は脱したようで何よりである。嘘も隠し通せたようだし、計画もバレていない。ならばいいのだ。まぁ、バレたとしても俺の責任ではなくヒースクリフの責任である。何かあったらアイツに全ての判断を任せればいい。
「……で、PoH」
「あ?」
俺は、危機が去ったと言う安堵でいっぱいの表情を晒しながら、PoHに問いかけた。
「身体の隅々まで、確認しなくていいの?消毒も、まだ口だけしか、終わってないよ?」
そういって、煽った。もちろん、ヒースクリフにされたのはキスだけだ。他の部分には何もされていない。しかし、PoHに全て上書きされたいと言う気持ちは残っている。それならば、身を委ねようと思ったのだ。
PoHも俺のそんな思惑に気が付いたのか、微笑みを浮かべて俺を見つめた。そのままゆっくりとベッドの上に乗り上げると、耳元で囁く。
「そうだな。ちゃんと全部確認しねぇと、なぁ?」
耳元で囁かれ、ビクビクと腰が跳ねる。俺は知らず口角をあげ、PoHの首へと、もう一度腕を回したのである。
シュガー不足
END!
────────────
地味に続きます。
イチャイチャは次回!
糖分を多めにするにあたって、どうしても先にこの話を済ませておかなくてはならないと思い至り、このような運びとなりました。
ヒースクリフとPoHは結構似てる部分があるんじゃないかと言う話。
方向性は違うけど。
このシリーズのキリトくんは、しっかり告白を断るのは苦手なのではないかと思っておりました。
通常のキリトくんであれば、期待を持たせないためにも「ごめん、君とは付き合えない」ってしっかりフると思うんですけど、それができないのがこのシリーズのキリトくんだと思います。
しがらみの多さゆえに、がんじがらめで動けないキリトくん。
そんなキリトくんがどう決着をつけるのか、見届けていただければ幸いです。
次回は絶対ラブラブの糖分多めになるはず!です!
ありがとうございました!
更新日:2018/05/01
改稿日:2021.04.22
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