平穏で、平和で、ただそれだけがない世界

 優しい世界だ。

 俺は誰にも聞こえない程度の声でそう呟き、目を閉じた。
この世界で、前世……別世界の記憶が蘇った俺は、この世界の見え方がガラリと変わった。
別段普段と生活が変わるようなことはない。緩やかにすぎていく日常と、退屈しない毎日が俺を取り巻く。あちらの世界で因縁のあった二人と愛娘のユイを除けばこの世界で俺と同じような記憶を持っているものはいない。明らかな人選ミスだとは思ったが、俺と先日契約をしたおかげか普段通りに過ごしているようだ。あの二人が殺人に手を染めるようならその前に俺があいつらを止める。そうならないように手は打つけれど。
 だからこそ、そんな不穏分子に目は光らせども、世界はそんなに変わっていないのだ。毎日皆が忙しそうに歩き、慌ただしそうに走り回り、そんな中で取り残されないように必死でいる。しかし俺は人生二周目といっていい。世界は変わらなくとも、俺の方が変わったこの世界。意外なことに、悪い話ではないなと思ったのだ。
 だってそうだろう。前の世界を知っているからこそ、噛み締められるのだ。俺は今、とてつもない幸福な世界にいるのだと。甘やかで、優しくて、幸せだと泣きそうになるぐらいの世界にいられる幸運を。

「何考えてるの」

 ああ、この声だ。
俺の求めてやまない声。もう二度と会うことはできないと思っていた、そんな声。俺は振り向き微笑むと、その男に腕を伸ばして抱きしめた。その男は俺を拒むことなく、優しく抱きしめ返してくれた。

「……キリト?」
「もう少し、このまま」

 幸せなのだ。この世界には、この男がいる。
前の世界で、誰よりも愛し、何よりもそばにいて、そして俺の背中を押してくれた、大好きな人。

「ユージオ」
「なぁに」
「……ごめん」

 俺はそういって、ユージオを抱きしめる腕に力をこめた。この世界が俺に優しいのなら。この世界で出会うことが許されたと言うのなら。俺はその幸運を離せるほど、達観できてはいなかった。

「どうして謝るのさ」

 俺を離さないままそう問いかけたユージオから腕を離し、笑う。そんな俺の顔を見て、ユージオが酷く驚いたような顔をしていた。仮にも役者の癖にうまく笑えていない自覚はあった。泣きそうなのを堪えている。目元が熱い。胸が苦しい。

あぁ、ここにいる。




「感動の再会ってやつは終わったかよ」

 そういえばこいつ隣の部屋だったな。
キリトは思い出してから、今日はユイがいないんだったかと思い出して声をかけてきた男に目を向ける。せっかくの幸せで苦しい気持ちに水を差された。

「なんの用だ」
「冷たいじゃねぇか。せっかく思い出したんなら、仲良くやろうぜ?」

 いけしゃあしゃあと前世ともいうべき世界のことを棚に上げて俺にそう言ってくる男は、言わずもがなヴァサゴ=カザルスであった。この男については要注意人物、とデカデカとラベルシールを貼り付けておきたいぐらいである。だがまあ今世は何もしていないようだし、前世よりもこちらの世界の方がまだマシではあった。とはいえ別にお近付きになりたいわけでもない。この男の執着が前の世界から続いているのだなと思う程度だ。

「お前と仲良くする理由はないと思うけどな」
「オレにはあるんだよ、ブラッキー」
「……頼むからその呼び方はよせ。あと外でそういう話もするな」
「招いてくれんのか?」
「──────ユイがいないこと知ってたな、お前」
「じゃなきゃ待ち伏せなんてしねぇよ」

 悪びれもせず待ち伏せ、と答える男に辟易しながらも、この男の誘いに乗るのもなあという気持ちである。話はいくらでも聞くと言ったがそれはそれである。大体、こいつへの恐怖心は消えていない。むしろ思い出してしまった分警戒しているほどだ。前のようにオフが重なったから一緒に食事へ行きましょうという事はもうないだろう。あの時にはもうこいつの記憶は戻っていたようなので、あまりにも愚かな真似をしたものだと当時の自分を罵りたい気分だった。

「よくそんな堂々と言えるな。……はぁ、まあいい。お前の部屋より俺の部屋の方が安全な気がする」

 結局ヴァサゴを部屋に入れることになった。こいつのこういう用意周到なところは今世でも相変わらずのようだ。いいや、前世の記憶があるから余計に、なのか。鍵を取り出しドアのロックを解除する。ヴァサゴに先に入れ、と促すと大人しく従った。オートロックなのだから締め出してやっても良かったが、そうなると後々面倒なことになりそうだった。こいつの執念深さは身をもって知っている。
 玄関に入ると鍵がかかる。これで部屋に二人きりだが、さっさとヴァサゴは廊下を突き進みリビングへと向かった。俺が家主なんだからそういうところは気を遣え、とも思うがこの男に至っては今更な気がした。靴を脱いでいるだけでもよしとしよう。

「で、なんの用だ」

 ヴァサゴがソファに座ったのを見届けてから、俺は立ったまま問いかけた。茶を出してやるほど親切ではないし、この部屋にはコップが自分とユイとユージオ、アリスの分しかない。来客を想定していないのだからそういう気の利いた食器などはないのだ。それに関してはヴァサゴもどうでもいいようだったが、俺が立ったままなのが気になったようだ。

「座れよ」
「俺が家主なんだが?」

 この間は主導権を握るために楽屋の椅子に座るよう促したが、今日はそういうわけにもいかない。大体この男と部屋で二人きり、警戒するなという方が無理な話だ。

「心配しなくても、なーんにもしねぇよ」

 俺の警戒をとっくに承知しているようにいうものなので、かえって気が抜けた。思えばこの男に警戒心を抜き取られた挙句PKに堕とされた人間が数多くいたのだった。人の懐に入るのが上手いのは、前世の境遇からだろうか。俺はその疑問をとりあえずは横に置いておいて、ヴァサゴの座っている場所と対角線上のL字型ソファの端に腰掛けた。これで顔も見れるしローテーブルを挟んでいるため咄嗟に逃げるぐらいの距離は掴めるだろう。ヴァサゴもその考えに至ったのか「用心深ェな」と笑った。お前相手だからだ、とは言わないでもお互いがわかっていた。
 ヴァサゴはぐるりと俺の部屋を見渡し「黒ばっか」と笑った。これでもこの部屋の家具はユイとユージオとアリスのセンスの賜物なのだが、ヴァサゴからしてみれば知る由もない話なので「俺の趣味だ」とだけ返しておいた。どうせそう間違ってはいない。壁はもちろん白だが、遮光カーテンやソファやテーブルはほぼ黒だ。モノトーンで固められた俺の部屋は面白みもないだろう。時折色が混ざるのは俺が今腰掛けている位置にある群青のクッションやらローテーブルの上に置かれた黄色の花が綺麗なハーバリウムといったユージオとアリスが選んだ小物ばかりだ。どちらもこの部屋に合わせて選んだそうで、「私たちのイメージカラーです、大切になさい」とアリスが胸を張って自慢してきたのを覚えている。金木犀は流石になかったが、代わりに金と黄色を取り入れることで満足したらしい。

「赤色はねぇんだな」
「ユイが取り入れたかったらしいんだけど、この部屋にはちょっと、って」
「このハーバリウムみてーにすりゃ良かったんじゃねえの」
「それはアリスが嫌がった」
「フーン」

 ヴァサゴと普通の会話をしていることに違和感を覚える。前は普通に世間話もできていたはずなのに、不思議なものだ。意識が変わるとこうも変わるか。前の方が良かったとも言えないので、単純にどうしたらいいのかわからなくなっていた。

「《閃光》はこの部屋に呼んだ事ねぇのか」
「ない。基本的に俺の部屋にアリスとユージオ、ユイ以外を招く事はない」

 だから食器もない。前世の、それこそ22階層のログハウスのような部屋にしなかったのは何故なのだろうか。ユイはログハウスのようなインテリアを好んだが、それをこの部屋に結局は反映させなかった。きっとそういう事なのだろう。あの家に住んでいた思い出は、ひどく美しく綺麗だけれども、もう二度と戻らないものでもある。何せ、俺が変わってしまったのだ。あの世界とこの世界は、違う。ユイは俺のことをまだパパと呼んでくれるけれど、前世のようにアスナと恋仲になって結婚してユイと3人で幸せに、とはできないのだ。しようとすれば、きっと叶えられるだろう。けれど、この全てが揃った幸せな世界で、それはできなかった。

「……この世界は全部揃ってるからな」

 ぽつりと零した俺の言葉に、ヴァサゴが片眉を上げて興味を示す。俺はそちらを向くことなく、なんとなく目に入ったハーバリウムの花を見つめながら続けた。

「俺の初恋の人も生きてるし、笑ってるし。俺が殺した奴だって、今は普通に別の場所で別の役を演じてる」

 黒猫の鳴き声が、クリスマスの赤鼻のトナカイが、雪降る夜が俺の心を斬りつけることは、ないのだ。俺がこの手で殺した記憶は無くならない。思い出してしまった。もう、思い出す前の笑顔には戻れない。どうしたらいいのだろう。どうしたら。

「お前は、どうしてた?」

 そこでようやく、ヴァサゴの顔をみる。ヴァサゴは俺を見つめたまま、質問の意図を問いかける。

「罪悪感とかなかったの?」
「思い出したときは色々考えた気もするが、それも一瞬で塗り変わったな。全部オマエのおかげだぜ、キリト」
「……せめて和人呼びしろ。俺もヴァサゴ、って呼んでるんだから」
「クク、オーケー」

 俺はもうどうでも良くなって、警戒心を微妙に解いたまま、足を投げ出した。そんな俺をみてヴァサゴは意外そうに表情を変えたが、それもどちらでもよくなった。

「なんだ、急に腑抜けて」
「いや、なんていうか。この世界、SAOないんだなぁって、改めて実感してた」

 当たり前の、ことだ。
この世界に、デスゲームは存在しない。ドラマの話はフィクションであり、実際の人物、団体とは一切関係ありません。そんな表記が白文字でされて、テレビやらスマホやらに表示されるだけなのだ。記憶を取り戻した俺からしてみれば、実際の人物にバリバリ影響はあるのだけれども。
 はぁーあ。俺はクッションに顔を埋め、ヴァサゴの前だろうと気にせずため息を吐いた。この男も、俺も、茅場も。SAOに全てを狂わされた人間だといっていいだろう。そこにアスナは入らないのかと言われれば、きっとそれは"狂わされていないから"だと答えることができる。彼女は、最後まで、綺麗だった。

「この世界で、アスナの綺麗な手を二度と取れる気がしない」

 この世界でたとえ俺が穢れていなくても、そんな事はもう関係ない。あの世界では、アスナがいなければ立つこともままならなかった俺だ。ALOも、GGOも、ALICEも、URでさえ、仲間がいなければ乗り越えられなかった俺が、なぜこの世界で同じように立てると思えるのだろう。

「もうあの世界の俺じゃない。……お前の期待には添えないだろうから、さっさと興味をなくしてくれると助かる」

 苦笑した俺の顔を見たヴァサゴは言葉に詰まったようだった。何をいうべきか考えて、その結果「そうか」とだけ呟いた。

「もう、ねぇんだな」
「────うん」
「こんなに揃ってんのに」
「……うん」
「俺もお前も、茅場晶彦すらいて、あのゲームだけが存在しねぇ」
「うん。それに、シードもない。SAOから芽吹いた新たな世界も、あの世界で起きたVR絡みの事件も、ない」

 俺がそう告げれば、ヴァサゴは俺と同じように疲れたようにソファに身を沈め、手で目を覆った。前の世界で『燃え尽き症候群』と帆坂朋……アルゴは言った。良くも悪くも、この時代に適合できないトップ3の記憶が戻ってしまったというわけだ。茅場ももう、あの世界を体感してしまってからでは今更芸能界をあのレベルで謳歌する事はできないだろう。

「……つまんねぇな」

 ヴァサゴがそう口にするその言葉を、キリトは肯定も否定もできなかった。だって、そうだろう。ここには幸せがみんなある。ないのは、SAOだけ。SAOというドラマはあるけれど、その世界に入ることは、もう二度とできないのだ。それに、もしこの世界で茅場が同じようにSAOを作ったとしても、きっと俺はその世界に入る事はないだろう。なにせ、もう体験してしまっている。ALOでは、100階層まで挑戦をしてしまえた。75階層のその続きの景色を見てしまった。もう茅場がラスボスになって《二刀流》の俺と戦うこともないだろう。だから、もう、いいのだ。この世界は、もうあの世界ではない。

「この世界、ユージオもアリスもいるんだぜ?ユイも、カーディナルたちもいる。それもAIとしてじゃなく、人間として。同じ世界にはならないだろうな」
「望んでたんだろ」
「そうだなぁ」

 ヴァサゴの問いかけに返事をして、俺はクッションを抱きしめたまま目を伏せた。


「誰にも、壊されたくないなぁ」


 この世界で記憶が戻った俺の、唯一の願いが、それだった。
俺が目を開くと、こちらを見つめているヴァサゴと目があった。

「壊したい?」

 俺が静かに問いかけると、ヴァサゴは「オマエがそれを望むなら」と返した。 望むわけがない。望んだとして、どうするというのだろう。この世界が壊されようとするなら、俺はそれを止めるけれど、でも。

「幸せになったらいけない気がするのに、どうしたってこの世界がいとしい」

 もう二度とあの綺麗な手を取れない気がするのに、手を伸ばしてしまいそうになる。閃光のように激しく、煌めいている彼女の手も、優しい風の妖精の彼女の手も、知的で真っ直ぐな弾丸のような彼女の手も、金木犀のように輝く彼女の手も、青い薔薇の花のような彼の手も、全て。

「……オレはオマエがいる限り、幸せってやつになれる」

 ヴァサゴがそういうものなので、俺は目を細めた。なぜ、この男なのだろう。なぜ、俺なのだろう。

「今の俺、前よりなんにもないよ」

 俺がそういうと、ヴァサゴが俺に手を伸ばした。来い、とその手が呼ぶので、クッションを抱きしめていた手をどかし、自ら前の世界では殺人鬼だった男の方へと近付いた。その手が引かれ、そしてドサリとソファにヴァサゴを押し倒す形で俺がヴァサゴに乗り上げた。

「オマエだけだ」

 俺が見つめる下で、男はそう言った。

「オマエがいれば、それでいい」

 何度だってそう言うものだから、俺は泣きそうになってしまった。

「なんで、俺なの」

 俺がそう問い掛ければ、ヴァサゴはいつものように笑った。

「オマエが、オレの、唯一の希望だからだ」

 その答えはやっぱり理解できなくて、でもそれを否定することもできなかったから。


「……愛してやれなくて、ごめん」


 小さく、そう溢した。その答えを聞いたヴァサゴは、俺の下で幸せそうに微笑む。

「オマエがオレを愛さなくても、オレがキリトを……和人を愛してる事実に変わりはねぇよ」
「……頑固者」
「一途って言えよ」
「……前よりは、まだ好きになれる……と、思う」
「そりゃ何よりだな」

 俺を抱き寄せたまま幸せそうに笑うヴァサゴに、俺は顔をそっと近づける。
そんな俺をじっと見つめるヴァサゴは、何を考えているのだろう。

「どうしても殺したくなったら、ちゃんと言って」

 とろりととろけるような、甘やかで優しい声色がこぼれ落ちた。囁くように、けれどしっかりと届くように。

「殺されてはやれない。でも、こうして抱きしめてはやれる」
「──────……なんで、殺されてくれねぇんだよ」
「そんなの決まってるだろ。俺が死んだら、お前も死んじゃうじゃんか」

 そう言い切った瞬間、触れ合う寸前だった唇が、ヴァサゴによって奪われた。頭をしっかりと掴んで、離れないようにして。苦しくて、息が詰まった。でも、俺はその口付けを受け入れた。だって、仕方がなかった。俺はきっと、そうなることがわかってたから、この腕の中に引き込まれたんだ。
 舌が熱い。唾液がこぼれ落ちる。この世界では初めてのキスにくらくらと目眩がしそうだ。けど、それでも。

「っ、は……」

 唇が離れる。愛されなくて、愛していて、でも愛せないこの男は、あいも変わらず俺だけを見つめていた。


「愛している」


 何度だって、この男はそう繰り返すのだろう。だから俺もこう答えるしかないのだ。


「知ってるよ」


 その答えに満足したかのように、ヴァサゴは笑った。









穏で、平和で、ただそれだけがない世界









END!
────────────
 お久しぶりです酢酸です。
久々にこのシリーズを更新したのですが、いい話が書けたと太鼓判押せる作品できてよかったです。
ヴァサゴがフられる話書いてて楽しいんですけど、それだけじゃなくてキリトくんにとって特別だからこそこんだけ苦しいんだよなあと思います。気に病む事ないよキリトくん、こいつキリトくんが自分のことで苦しんでると思ったら嬉しくて仕方ないやつだからね。
あとヴァサゴの愛は何回死んでもずっと続くしこいつ思ってた以上に一途なのでほんと好きです。困る。
キリトくんずっと愛し続けてくれるってだけでもう私にとっては特別な存在なんですけど。

+++

以下近況報告

あけましておめでとうございます!
昨年は愛黒剣20万ヒットやらリメイク祭りやら色々お世話になりました。
今年も楽しくキリトくんを愛でていきたいと思います。
SAO最新刊出るたびにヴァサゴ出るかどうか怯える生活そろそろやめたい。
早く息の根を止めてほしい。ヴァサゴアンダーワールドで死んだ方が私幸せだったんじゃないか?いや生きててくれて嬉しいけどやめてほしい
出るなら前もって言ってほしい5年ぐらい熟成させないと読めないので

はい。
改めまして今年もよろしくお願いします!!!!!!!

+

更新日:2022.01.07

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