ある日の昼休み。
津軽さんと私は庁内の食堂の喧騒に包まれていた。
津軽班へ配属され早数ヶ月、いつからか津軽さんからお昼に誘われることが増えた。
外に出ることもあるけれど、忙しい今週はこれが二度目の食堂ランチだ。
「月曜もそれ食べてなかったっけ」
津軽さんの目線の先には私のエビピラフ。
「ここの結構好きなんですよね」
コンソメスープを飲みつつ答える。
「へえ。俺も今度頼んでみよっかな」
津軽さんはスーツのポケットからスマホを取り出しながら言った。
LIDEのようだ。
画面をタップし、少し考える様子を見せる。
そしてお箸を咥えたまま返事を打ち始めた。
「津軽さん…行儀悪いですよ」
「んー?」
相手はきっと女性なんだろう。
この人はモテる。
廊下では毎日のように女性職員をはべらせているし、並んで警察庁を出ていく姿もよく見るし。
とにかく非常にモテる人だ。
そして目の前でプライベートのスマホをいじる津軽さんの姿は、私にあることを思い出させた。
(そういえば…)
まだ津軽班に配属されたばかりの頃、津軽さんの鎖骨に見つけたキスマーク。
見える位置に残されたそれは遊び相手につけられたもので、彼はそういったことを全く厭わない様子だった。
(あの時はとんでもない班長だと思ったな…)
印象は今も変わってはいないけど。
そんなことを考えていると、視線は必然的に津軽さんの鎖骨に吸い寄せられる。
今もあるんだろうか。
シャツの下に、キスマークが。
(って、ストップ!! 考えるな私!!)
ぶんぶんと頭を振った。
あの頃と今は違う。
私はすでに津軽さんを男性として見ていて、だからそんなことは考えたくないし───考えない方がいい。
(成就の見込みは薄い恋だけどね…)
諦めてるわけじゃない。
けれど相手は百戦錬磨、海千山千のらりくらりのイケメン上司。
しかも銀室は恋愛禁止。
見当たらない勝算を歯痒く思いながら、スプーンを噛んだ。
「どしたの? 美味しくない?」
すでにスマホをしまっていた津軽さんがこちらを見ていた。
「マイ七味貸してあげよっか」
「大丈夫です。七味ならここにもありますし」
「俺の七味のほうが美味しいって」
「ああっ!!」
エビピラフに津軽さんの七味がかけられる。
ドバドバと。
「ほら、いい感じになった」
「ああ…私のエビピラフ…」
「不満そうに見てたじゃん」
「ピラフには満足してますよ!」
「じゃあ何が気に入らないのよ」
「何もないですよ…」
真っ赤に染まったピラフを力無くスプーンで掬う。
津軽さんの視線を感じた。
「ああ、もしかしてキスマークこと思い出した?」
口に入れたばかりのエビが飛び出した。
(なっ何でバレて!?)
「ウサちゃん、食べ物で遊んじゃだめだよ」
「誰のせいだと!?」
「キスマークね。そんなこともあったね〜」
自分のことだというのに涼しげに言う津軽さん。
どうしたらいいかわからないまま彼を見ると、妖しい笑みを返された。
「ウサちゃんもつけて良いんだよ?」
とんとんと指で首を叩く津軽さん。
「結構です!」
私はピラフを乱暴に掬って口に入れた。
辛くてゴフッとむせた。
「そ。ならいいけど」
津軽さんが味噌汁をすする。
私もピラフを食べる。
二人で、しばらく無言で食事をしていると。
「無いよ」
「はい?」
サラダの小鉢を空にした私は顔を上げた。
「キスマーク。もう誰にもつけさせてないから」
津軽さんは私と目を合わせないで、七味で真っ赤なトンカツを食べている。
(つけさせてない、って)
現在進行形。
それはつまり。
(やることはやっていると…)
跡は残さなくとも、女性たちとの付き合いは変わっていないということ。
(そんなのわかってるよ!)
(わかってるから、わざわざ聞きたくない…)
「あれ、なんか怒ってる?」
「いいえ」
「怒ってるじゃん」
「いいえ。無です、無」
「何で?」
「何で??」
「妬かないの?」
「何で私が妬くって思うんですか」
もちろんモヤモヤはしている。
顔に出さないよう努めながら、グラスの水を口に含んだ。
「ウサちゃんは俺のことが好きだから」
水を噴いた。
「きたなっ!」
「誰が誰をっ…!!」
慌てておしぼりで口を拭く。
思いがけず真剣なトーンで言われ、いつものように流せなかった。
「だって気になるでしょ? 俺が誰と会ってるか」
「なりません! 私には関係ないことですから!」
「ほんとに? ほんとにそう思ってる?」
「思ってます!!」
「…ふーん」
汚したテーブルを拭きながら答える。
「じゃあ、俺は気になるって言ったら?」
少し低くなった声が降ってくる。
「え?」
顔を上げると、津軽さんが私を見ていた。
含まれている感情が判別できない、あの視線だ。
「ウサちゃんの男関係が気になるって言ったら、ウサちゃんも俺のプライベート気になる?」
「何ですかそれ…」
「俺は知りたいって思ってるよ。ウサちゃんが、休みの日に誰とデートしてるのか」
視線を交わらせたまま、真顔で言われる。
落ち着きをなくし始める私の心。
「そ、それはなぜ…」
「上司としては把握しておかないとね」
ニコリと笑う、いつもの津軽さんだった。
「……プライベートは教えません!!」
「いいじゃん、教え合いっこしようよ」
「聞きたくありません」
「頑固だね〜」
「だいたい聞いたってまともに教えてくれないのわかってますから」
「教えてあげるって言ってるのに」
「信じませんよ」
「もったいなくない? お互いを深く知るチャンスなのに」
「遠慮しときます」
「あっそ」
ふっと視線を外される。
私も津軽さんを見るのを止め、ピラフを口へ運ぶと。
「…気になるんだっつの」
津軽さんがぽつりと零した。
「え、何ですか?」
彼は答えることなく視線を落とした。
眼差しに帯びる憂いを追うように、長い睫毛が揺れる。
「何も。ウサちゃんには、俺のこともっと知って欲しかったなって思っただけ」
沈黙。
そんなことを言われると───そんな顔をされると、聞かないと悪いような気がしてくるのは人間の性なのか。
あるいは、恋する女は判断力が鈍っているのか。
…今はたぶん後者だ。
「じゃ、じゃあそんなに聞いてほしいなら一つだけ聞きますけど!」
スプーンを握る手に知らず力が入る。
「津軽さんは今、本命とかは…いたりとか」
威勢よく口を開いたものの、若干尻すぼみになる私の言葉。
津軽さんは視線を持ち上げた。
「気になる?」
じっと見てくる。
「も、もしかしたら」
津軽さんの口角が上がる。
形の良い唇が、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「ヒ・ミ・ツ」
楽しそうな笑顔だった。
やられた、と思った。
「───やっぱり気になりません!!」
(本当にこの人はっ……!!)
「素直になりなって。俺のこと気になってしょうがないんでしょ?」
やはり津軽さんはいつまで経っても津軽さんだ。
ニヤニヤと笑いながら、行儀悪くお箸で私を指してくる。
「ウサちゃんったら本当に俺が大好きなんだから」
そして、しっかりと引っ掛かる私も私で。
憤りと恥ずかしさで頬が熱くなる。
(私のバカッ……!!!)
時を経て自分の気持ちは変わったけど、それでも変わらない二人の関係性。
どうにもこうにも賑やかで、成就の見込みが薄い恋だろうとも、心地は決して悪くない───
と、思いたい。
とにかくこれが津軽さんと私だ。
振り回される私と、肝心なことは何も言わない津軽さんだ。
(ああ〜〜〜もうっ!!)
「ウサちゃん、顔赤い。ピラフみたい」
笑いを含んだ声は無視して。
津軽さんのマイ七味で真っ赤になったエビピラフを、同じくらい赤い顔で掻き込んだのだった。