「ってことで、続きはモモが帰ってきたら一緒に話すから。それまでにこれ読んでおいてね」

「わかりました」



上司の手元を覗き込みながら頷く。

次の潜入捜査に関わる資料だ。



公安刑事として津軽班に配属されたばかりの自分には現場経験は数えるほどしかない。


しかし新人だからといって上司や先輩の足を引っ張るわけにはいかないし、失敗は許されない。


今はまだ多くのことが手探りだけど、こうして与えられる任務を一つ一つ確実に成功させるのだと、気を引き締める。



津軽班長はファイルを閉じ、はい、と私へ差し出した。



受け取りながら顔を上げると、私の視線は彼の襟元にぶつかる。


私も小柄な方ではないけれど、それでも津軽さんとはだいぶ身長差があった。



(そういえば警察庁で初めて会った時も、最初に目に入ったのはネクタイだったっけ)



開いたシャツの襟と、ゆるく締められた緑のネクタイ。


そこから覗く鎖骨。



初めて会った日から変わらない、いつも通りのスタイル───だけど、今日の私はそこにいつもとは違う色を見つけた。



鎖骨のあたり、シャツで隠れるか隠れないかの所に痣があった。


角度によっては多分見えない、絶妙な位置だ。



思わず凝視した。



(え)

(ちょっと…それ)



そこにあるべきでは無い色だった。



どう見ても、それはアレだった。



(キ、キスマーク…)



信じ難いが間違いない。場所的に。



(そんな見える所につけるとかどーゆー神経!?)



「ウサちゃんのエッチ」

「!?」



上から降ってきた言葉に顔を弾かれる。


腕を組んだ上司がニヤニヤと私を見ていた。




「俺の肌をそんな目で見るなんてやらしー」

「そんなんじゃありません! ていうかそんな目ってどんな目ですか!」

「釘付けになってたじゃん」

「いや、だって!」



津軽さんの鎖骨に視線を落とす。


そこにあるアレに。



「ん?」

「い…いえ。何でもありません」

「え、何?」

「すみません。気にしないでください」

「ちょっとー、そういうの気になるんだけど」

「自分のデスクに戻ります!」

「ウサちゃん」



ぽん、と肩に手が置かれる。



「遠慮しないで。言いたいことがあるなら言ってごらん」

「…何もないです」

「さっきから俺のことすごく気にしてるじゃない」

「してません!」

「上司に嘘はだめだよ」



肩に置かれた津軽さんの手がなめらかに動く。


サイドの髪を一房掬われ、まるで愛おしむかのように撫でられた。



「教えてほしいな、ウサちゃんが考えてること。君はまだ津軽班に来たばかりだし、俺たちが打ち解けるためにもさ」

「で、でも」

「上司が良いって言ってるんだから」

「いや…さすがに…」

「あ、もしかして悪口?」

「悪口ってわけじゃないですけど」

「じゃあ言えるよね」

「………」

「ウサ」



柔らかいけれど有無を言わせない津軽さんの声。


いくら何でもこんなことは言うべきではないだろうが、かといってこの上司を振り切ることも出来ない。



私は躊躇いに蓋をすることを選び、意を決した。



「では。お言葉ですが」



咳払いをひとつする。


津軽さんは視線で促した。



「その、そういったものを人目に触れさせるのは社会人としてあまり好ましくないと思われるかと」

「そういったもの?」



津軽さんは首を傾げた。


そのせいでキスマークが露わになる。



なぜか焦る私。



「ですから、それです」

「それって何よ?」



津軽さんは見当がつかないという風な顔をした。



「だからっ…」



私は近くに人がいないことを確かめてから、キスマーク!と声を落として言った。



目を合わせ、沈黙すること数秒。



津軽さんは噴き出した。



「それ上司に言うか!?」



あっはっはっとお腹を抱えて爆笑する。



あまりにも大きな声で笑うので、離れた所から職員たちの視線を感じた。



「つ、津軽さんが言っていいって言ったんじゃないですか!!」



(っていうか笑うとこ!?)



「信じらんねー」



津軽さんはそれはそれは楽しそうに笑っている。



何が面白いのかわからなくて、でもバツが悪くて顔が熱くなった。



「…スミマセンデシタ」



目尻の涙を拭った津軽さんは、棒読みで言う私の頭を撫でた。



「だめだよ、簡単に乗せられたら。公安刑事なんだから」

「え?」



津軽さんがニヤリと笑う。



その言葉と表情の意味は───



(この人わざと言わせた!?)



どうやら私は引っかけられたようだ。


恥ずかしいやら情けないやらで頬の熱さが増す。



言葉が出てこず口をパクパクさせていると、津軽さんは腕を組んで間近のデスクに寄りかかった。



「女の子がつけたがるんだよね」

「…は?」


「そんなトコつけたら見えちゃうよって言ったんだけど、やめてくれなくてさー」



やれやれ、みたいな感じで言う津軽さん。


しかし困ってるようには全く見えなかった。



日常茶飯事だと言わんばかりだ。



「………」

「あれ、もしかして引いてる?」

「……少し」

「そ。ま、いいけど」



津軽さんはそう言うと、何かに気付いた様子でスマホを取り出した。


仕事用ではない、プライベートの方だ。



「あ。噂をすればだ」



スマホを震わせたのはLIDEだったらしい。


すぐに返事を打ち始めた。



(…いや、別にいいんだよ)

(どう遊ぼうと個人の自由だし)



大人だから。



(でも上司の女性関係なんて知りたくないんですけど!?)



できることなら尊敬できる上司のもとで働きたい。


仕事とプライベートは別だと、わかってはいるつもりだけど───



「あれ、ウサちゃんまだいたの? もう戻っていいよ」



顔を上げた津軽さんが、今気付いたような表情で私を見た。



口元が引き攣った。



「……失礼します!」



私は勢いよく身を翻して自分のデスクへと戻った。



(キスマークを平然と晒すなんてどうかしてる)

(普通しないでしょ!)



いや、津軽さんは普通ではない。


だいぶおかしな人だというのは、この短い付き合いの中でもわかっていたことだ。



(…にしたってユルすぎ…)



普通じゃないけど、これがうちの班長の普通なのだ───と言い聞かせる。



「はぁぁぁ……」





何だかどっと疲れた津軽班の新人は、大きなため息を吐いたのだった。



























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