デスクワークをする私の隣で、津軽さんは腰掛けた椅子を左右に揺らしている。
何を話すでもない。
手持ち無沙汰なら帰ればいいのにとは思うけど、私も口に出すことなく黙々と手を動かす。
まだそう遅い時間ではないというのに、今夜は珍しくほとんどの職員が退庁していて。
いつになく、静かな夜だった。
「俺さ」
しんとしていた空間に、落ち着いた声が浮かび上がる。
「はい」
手を止めることなく応じる。
「誕生日なんだよね」
「はい」
「今日」
「…はい?」
「今日。誕生日なの」
顔を上げる。
津軽さんの目はこちらを向いてはいなかった。
「それ本当ですか?」
「なに疑ってんのよ」
「ものすごく唐突だったので」
「ほんと」
「本当に?」
「ほんとだってば」
整った横顔を凝視する。
津軽さんは、言葉とは反対にどこか他人事のような目で遠くを見ていた。
「…いいんですか? 彼女と過ごさなくて」
「彼女いるって言ったっけ?」
「いえ、聞いてませんけど」
「いない。今はね」
「そうですか」
「ねえ、誕生日おめでとうって言わないの?」
「言ってほしいんですか?」
「別に」
「何ですかそれ」
「普通言うじゃない、誕生日だって聞かされたら」
「私じゃなくても言ってくれる女性はたくさんいるじゃないですか」
「いないよ。女の子には嘘の誕生日教えてるから」
「はあ。左様ですか」
なぜ嘘を───と思うよりも先に嬉しさを感じたのは、私が津軽さんを男性として意識しているから。
もちろん知られるわけにはいかない。
だから、平静を装う。
「でもウサちゃんは特別。俺をお祝いしてくれていいよ」
「誕生日おめでとうございます」
「心が込もってないなー」
津軽さんは小さく笑った。
「津軽さんのことだから冗談かと」
「えー。本気で疑ってるの?」
まったくもう、と津軽さんは仕方なさそうに上着の内ポケットに手を入れた。
財布から免許証を取り出し、私へ差し出す。
「…本当ですね」
10月27日、だった。
「でしょ」
免許証を返す。
津軽さんと目が合った。
「心を込めてお祝いする気になった?」
「まあ多少」
「誕生日ってさ、一年に一度じゃない」
「誕生日ですからね」
「だからウサちゃんと過ごすのもいいかなって思って」
「…ソレハドウモ」
「あ、可愛くない」
「どう可愛くいろって言うんですかこの流れで」
「さあ」
「今日が誕生日だって言わなくたって、デートする相手ならたくさんいますよね?」
「うん」
「何も残業中の私じゃなくても」
「だからー、さっき言ったじゃん。一年に一度きりなんだから、普通の日とは違うんだって」
わかんない子だね、とため息を吐かれる。
「何か食べに連れてってよ」
「何かとは?」
「ウサちゃんが決めて。俺の誕生日なんだから、ウサちゃんがエスコートして」
「じゃあラーメンでいいですかね」
「色気ないね」
「欲しいんですか色気」
「んー、わかんない」
津軽さんは首の後ろで手を組み、再び遠くへ目をやった。
「何でもいいから早く終わらせてくれるー?」
「はいはい…」
私は手元へ視線を戻した。
再び静かになる公安課。
ペンと紙が擦れる音と、揺れる椅子の僅かな音だけが空気を揺らす。
津軽さんは本当に私と過ごすつもりのようだ。
彼の考えていることなんて分かりようもないけど、誕生日だからといって何かがあるわけではきっと無い。
私と過ごす気分の日がたまたま今日だっただけ。
この人の気まぐれを喜んではいけない。
───自分の気持ちのままに浮かれることが出来たら、きっと幸せだったんだろうけど。
(…………)
矛盾する女心を上手く振り切ることができず、ちらりと隣を見やる。
遠くを見ていたはずの津軽さんが私を見ていた。
意図せず視線が混じり合い、息が止まる。
津軽さんは私を見つめたままゆっくりと口角を上げた。
自分の心臓の音には気付かなかったふりをして、微笑みから顔を背けた。
「…誕生日おめでとうございます」
書面の無機質な字を見ながら言ったせいか、ことさら可愛げのない声が出た。
可愛いく思われたいのかと問われたところで、素直に頷くわけにもいかないけれど。
「ありがと」
それでも、返ってきた声は思ったよりずっと柔らかくて。
そっぽを向いた心の表面を撫でられたような心地がした。
それきり津軽さんは黙り、話しかけてくることはなかった。
会話などまるで無かったかのような静寂。
けれど空気は少しだけ変わって、何も無かった私たちの隙間には何かが流れていた。
それはとても淡くて、どちらかが立ち上がったら消えてしまうもので。
…掴むことは、きっと叶わない。
この僅かな温度を覚えておきたい。
一年に一度きりの日だと、彼が言うのなら。
儚くも柔らかなこの時間を、忘れたくないと思った。