落ち着いた照明が灯る瀟洒なバー。
綺麗な色合いのカクテルを前にした私は、そのグラスの細い脚に指をかけたまま落ち着けずにいた。
「飲まないの?」
隣にはこういう場所がとても似合う男性。
美しい横顔にかかる長い睫毛の影が、クラクラするほどの色気を醸し出している。
「いえ、いただきます…けど」
「けど?」
「どうして私は連れて来られたんでしょうか」
ここは都心のホテルの最上階。
馴染みのない場所に落ち着けないのは確かだけど、心が波立つ理由は、隣りにいるのが津軽課長だからだ。
「どうしてだと思う?」
津軽さんはゆっくりとその唇を弧にした。
昼間のオフィスで見るものとは違う、妖艶さを湛えた微笑み。
一度目を合わせてしまえば逸らすことができず、目眩がしそうだった。
「わからないから聞いているんです」
呑まれてはいけないと自分を奮い立たせる。
津軽さんはグラスを手にした。
「特別な用はないよ」
照明を弾いて輝くアルコールが彼の口に含まれ、くっきりした喉仏が上下する。
お酒を飲んでいるだけなのに恐ろしく絵になると思った。
「ただ、二人きりで会いたかった。そう言っても信じない?」
心臓が音を立てる。
(平常心、平常心…)
平静を保たなければいけない。
予期せぬ誘いだったけれど、聞きたかったことを聞ける絶好の機会なのだから。
「あの、津軽さん。つかぬことを伺いますが」
「うん?」
「先月…10月31日の夜。津軽さんはどこにいましたか」
「10月31日?」
瞬きを返される。
「家にいたと思うけど」
私は言葉を続ける。
「仮装パーティーとか行きませんでしたか」
「仮装パーティー?」
何それ、と首を傾げられた。
「ヴァンパイアの格好…してませんでしたか」
「ヴァンパイア?? してないけど」
「本当ですか?」
「うん」
「…そうですか」
変わらない津軽さんの表情。
嘘を吐いているようには見えない。
───見えないから、複雑な気持ちになった。
(…なんて答えてほしかったんだろ、私)
夢じゃなかったらと、期待していたわけでもあるまいし。
グラスに絡めたままの指に力が入る。
沈んだ心を隠し、綺麗な色のカクテルを喉に流し込んだ。
見た目通りの甘さが無意味に感じられて、違うものを頼めばよかったと思った。
「うーそ」
ゆるい声が耳に飛び込む。
反射的に隣を見ると、津軽さんが頬杖をついて私を見ていた。
「俺、その日は家にいなかったよ」
「え…」
「どこにいたか知りたい?」
心臓が跳ね、潤したばかりの喉が渇く。
私は恐る恐る頷いた。
津軽さんが肩を寄せてくる。
手を添えて、そっと私に耳打ちした。
「Firstnameちゃんのナカ」
吹き込まれた吐息が鼓膜を揺らす。
「っ!!」
その声と息の感触、そして言葉に、全身の細胞がひっくり返るような感覚を覚えた。
「良い夜だったよね。すっごく」
「や…や、やっぱり! 夢じゃなかった…!」
「夢にするには勿体なさすぎじゃない?」
やっぱり現実だった。
ハロウィンのあの日、私は津軽さんと一夜を共にしてしまったのだ。
おかしな点は多々あるけど、あれは現実だったのだ。
(津軽さんとあんなこと…っ)
頬に血が集まるのを感じる。
激しいセックスだった。
あんな快感は味わったことがなかったし、されるがままに乱れてしまった自分も信じられない。
そして同時に、胸が痛んだ。
(…まだ好きって言ってないのに…)
スカートをぎゅっと握る。
好きな人と一つになれた喜びと、一つになっただけという事実の切なさに襲われる。
何に期待していたんだと自問する頭に、どう転んでも乱れる感情がついていかなくて。
知りたかったことなのに、知ったら知ったでどうすればいいのかわからない。
「Firstnameちゃんのこと、いいなってずっと思ってた」
降ってくる津軽さんの声。
ゆっくりと顔を上げると、優しい目にぶつかる。
「Firstnameちゃんは? 俺のことどう思ってる?」
優しいけれど──妖しく、余裕を感じさせる瞳。
「わ…私は」
心臓がドキドキと脈打ち、手のひらが汗ばむ。
「私は…」
言葉がそれ以上出てこない。
言いたいのに、出てこない。
スカートを握りしめる手に一回り大きな手が重なった。
「下の部屋、取ってある」
交差する眼差し。
「確かめ合おうよ。お互いの気持ちを」
津軽さんのもう片方の手が伸び、その冷たい指先が赤いままの頬に触れる。
視線を外すことができない。
声も出ない。
指先が頬を撫で、顎を辿り、首へと下りて。
あの夜に噛まれたところで、ぴたりと止まった。
「きっとまた…良い夜になるよ」
絡み合う視線が熱を帯びていく。
美しい弧を描いた唇からは、やはり───
尖った歯が、覗いていた。