「SurnameFirstnameちゃん、ね」
「はい! よろしくお願いします!」
目の前に座る男性へ敬礼する。
私はこの上官の専属補佐官になることが決まった。
ここは、教官室奥にある彼の個室だ。
「津軽班班長、津軽高臣です。よろしく」
津軽警視───津軽教官は微笑みを浮かべた。
その顔は驚くほど整っていて、およそ警察には似合わない艶やかな魅力を放っている。
(モデルみたいな美形…)
堅い警察のイメージとは結びつかないものの、きっちりと着た教官服はとても良く似合っている。
公安学校の広告塔か何かなのでは…と思わずにはいられない出で立ちだった。
(怖そうな人じゃなくてよかったな。加賀教官の迫力はすごかったし)
入校式の壇上での加賀教官を思い出す。
目の前の津軽教官は、彼とはまるで印象が違った。
(…ううん、教官方がどんなふうでも関係ない)
私は思考を止め、心の中で首を振った。
(精一杯補佐しながら、たくさん学ばせてもらおう!)
改めて気合いをみなぎらせる。
立派な刑事になれるよう、この新設の公安学校でしっかりと研鑽を積みたい。
第一期生としても恥じない結果を残さなければと思う。
「にしても首席入学ってすごいねー。優秀なんだ」
(うっ…)
津軽教官は私の身上書からチラリと視線を上げて言った。
何と答えたらいいかわからず目を逸らす。
私は首席入校生、らしい。
(それ上司の嘘なんですが…!)
「ま、何でもいいや」
津軽教官は書類をデスクに置いた。
腕を組んでイスの背もたれに体重を預け、ニコリと笑う。
「女の子は大歓迎だよ」
「…、というのは?」
「男の補佐官に張り付かれるなんてイヤじゃん。ただでさえ教官なんてメンドくさいのにさ」
「はあ」
「だからよかった。Firstnameちゃんで」
柔らかな笑みを湛えて私を見上げてくる。
じっと見つめられると、その深い色の瞳に魅入ってしまいそうだ。
「それは…ありがとうございます」
「どういたしまして」
美しい顔によく似合う、美しい微笑を向けられる。
(いや、ここお礼言うとこ…なの?)
津軽教官とは今日が初対面で、これが初めてのコミュニケーション。
だからなのか何なのか、会話の調子が上手く掴めない。
「ってことで、午後に交渉術の講義があるから相手役よろしくね」
「交渉術ですか」
「そ」
(津軽教官はネゴシエーターなのか…)
「俺の専門はね、ハニトラ」
私の考えを読んだように教官は笑みを深めた。
柔らかくも艶やかに、女性の目を奪う表情だ。
「ハニトラ」
「必要な情報を抜き取るため、あるいは協力者を得るために有効な手段」
津軽教官が立ち上がる。
ゆっくりとデスクを回り、私の正面に立った。
身長差のために自然と見上げることになる。
(背高い…。顔だけじゃなくてスタイルもいいんだな)
芸能人顔負けの上官をまじまじと見ていると。
「不安なら予習しよっか」
「予習?」
「専属補佐官の特権」
津軽教官の手が私の髪に触れる。
「もちろん、ハニトラは対象が男か女かでやり方は違うけど」
サイドの髪を掬い、慈しむように梳いてくる。
「君も男側のテクニックを知っておく必要がある。敵のハニトラに嵌められないためにね」
そっと、髪を耳にかけられた。
「こうした方が可愛いよ」
「は、はあ…どうも」
生返事をすると、津軽教官の指先が絶妙なタッチで耳たぶを撫でた。
「……っ」
肩が揺れ、思わず一歩下がる。
津軽教官はふっと笑い、空いた距離を埋めるように踏み出した。
反射的に後ずさってしまう。
「そんなに警戒しないでよ」
苦笑いを浮かべる津軽教官。
「す、すみません」
(急に耳たぶ触られたら誰だって驚くし!)
彼の手がもう一度伸びてくる。
私の髪に指を差し込みながら、やんわりと首筋を引き寄せて。
抱きしめるように顔を近づけ、鼻先を髪に埋めた。
「…いい匂い」
耳の近くで囁かれて心臓が跳ね上がる。
「君の香り、好きかも」
教官の親指が耳たぶをくすぐる。
優しい手つきに合わせるように、声音も甘い。
(こ…)
(これがエキスパートのハニトラ!!)
ごくりと息を呑んだ。
慣れない刺激に再度体を引けば、やはりごく自然にその距離が詰められて。
「こーら。逃げないの」
吐息混じりで耳に吹き込まれ、ゾクゾクと肌が粟立った。
(ちょっとこれは刺激が強すぎでは…!?)
畳み掛けてくる津軽教官。
また無意識に後ずさってしまったようで、膝の裏が革張りのソファに当たった。
(…!)
少し揺れた体を、津軽教官に軽く押される。
私は背中からソファに倒れ込んだ。
起き上がろうと肘をつくより先に、津軽教官がソファの背もたれに手をかける。
(……!!)
天井の照明が大きな体に隠されれば、視界が津軽教官でいっぱいになった。
熱を帯びた男の人の瞳。
湿度のある眼差しが絡みついて体が動かない。
逃げ道を塞がれているわけじゃないのに、まるでその視線だけで拘束されたようだった。
津軽教官の膝がソファに、手が私の顔の横にゆっくりと置かれる。
完全に組み敷かれた。
「Firstname…」
女の芯を揺さぶるような、低くて甘い声。
「ちょ、ちょっと…」
顔が近づいてくる。
視界が、頭の中が津軽教官で占められる。
「やめ…!」
ぎゅっと目を閉じ、私は叫んだ。
「やめてください教官!!」
額に衝撃を感じると同時に、津軽教官が仰け反った。
「ぐおっ!!」
「…え?」
続いて聞こえた、ドスンという鈍い音。
床を見ると、尻餅をついた津軽さんが両手で額を押さえていた。
「って〜…」
「津軽さん!?」
津軽さんだった。
教官服ではなく、スーツを着た我が班長だった。
「…夢!?」
夢だった。
(なんだ夢か…。いや、そりゃそうだ)
(って、津軽さんに頭突きしてしまった!!)
津軽さんは額に手をやったままフラフラと立ち上がった。
「すみません! 大丈夫ですか」
「…この石ウサギ」
「いたっ」
ビシッとデコピンされる。
「寝坊ウサギ」
「いたっ」
2発、本気のやつをお見舞いされた。
「いつまで経っても仮眠室から戻ってこないから来てみれば。勤務中なのに、アラームかけないわけ?」
「!? す、すみません!!ちゃんとかけていたはずなんですが! 」
あるまじき失態に頭を下げる。
まさかと思いスマホを確認したが、アラームはちゃんと設定されていた。
起きられずに寝続けていたらしい。
「ていうか、教官って誰」
「はい?」
「俺を誰と間違えたの。もしかして、誠二くん?」
津軽さんの目がスッと細くなる。
「いや…違いますけど」
「じゃあ誰」
「それは…」
(津軽さんなんて言えない!)
言ったら、絶対面倒くさくなる。
「誠二教官に襲われでもした?」
「ご、後藤さんじゃありませんって」
(襲われたのは本当だけど!)
津軽教官に。
思わず自分の体を両腕で抱くと、 津軽さんの眉がぴくりと動いた。
「…誰。相手」
声が一段低くなる。
「ゆ…夢の話ですから」
「誰に襲われたのかって聞いてんの」
端正な顔から表情が消え、伝わる威圧感に生唾を飲む。
気圧され、津軽さんです、と答えそうになったけど。
(ダメだ、言ったら確実に面倒な展開が待っている…)
開きかけた口を閉じる。
すでに十分面倒くさい展開にはなっているけども。
「欲求不満? 俺じゃ物足りないってこと」
「はっ!? そんな話をしてるんじゃ…」
ない、けど。
(え、そうなの? こんな夢を見るなんて実は欲求不満…?)
いやいやそんなことはない、私は津軽さんに十分満たされて───
(いやいやいやいや今はそこじゃない!)
とっ散らかり始める思考と状況。
必死に頭を回転させるが、この困難な局面を脱する術が思い浮かばない。
(危機的状況の切り抜け方は公安学校で教わったのに!)
(これも夢だったらどんなにか…!!)
自分の未熟さを痛感しながらも、そんなのはもちろん願うだけ無駄で。
「Firstnameちゃんの浮気者」
どうにもこうにも収拾がつかない、深夜の仮眠室。
現実に戻ってきた後も、私たちの攻防はいつまでも続いたのだった───