10月27日。
この日が近づくごとに濃くなっていく血の匂いは、幾度となく俺の呼吸を止めようとした。
どんなに月日が流れたってあの事件は消えないし、偶然生き残ったという事実も変わらない。
過去が無くなることはない。
でも、苦しみに呑み込まれそうになる日々は終わった。
俺はもう血溜まりの中にはいない。
消えることのない傷痕がそれでも薄くなっていくように、耐え難かった苦痛は優しい時間に溶かされていった。
その手を取るには時間がかかったけれど、ずっとFirstnameが傍にいてくれたから、俺は前を見て生きることができるようになった。
「わ!なんか懐かしいですね」
高層階への直通エレベーターを降りれば、眼前に広がるのは東京の夜景。
大都会の夜に負けないくらい目を輝かせるFirstnameに口元が緩む。
「ね。久しぶりだね」
瀟洒なワンピースを揺らすFirstnameはあの頃より少し大人っぽくなったけど、はしゃぐ姿はあどけない。
今日、俺の誕生日に訪れたのは二人で初めてデートをした展望レストランだ。
あの日以来足を運んでいなかったのでかなり久しぶりの再訪になる。
レセプションの案内で窓際のテーブルについた。
「予約してくれたコースにはシャンパンがついてるんだっけ?」
「はい。ワインの方がよかったですか?」
「んーん、シャンパンでいいよ。ワインは欲しくなったら頼も」
シャンパンで乾杯をして、他愛もない話に花を咲かせる。
運ばれてきた料理を前にいただきますと二人で言い合い、いつものようにお互いのものを少しずつ交換して楽しんだ。
「んー!美味しい!」
「美味しいねー」
心底美味しそうに料理を頬張るFirstname。
その幸せそうな顔を見ているとこっちまで嬉しくなる。
「Firstnameちゃんは全然変わらないね」
「え?」
「ここで初めてデートした時も美味しい美味しいってガツガツ食べてた」
「ガツガツ…してました?」
「うん」
「いくら私でも初デートでがっついたりはしないかと」
「よーく覚えてるよ。美味しそうに食べる子だなー、って印象的だったもん」
Firstnameは俺の言葉に恥ずかしそうに視線を逸らす。
何十回見たって飽きない、可愛い姿だ。
「ほんと、変わってない」
「…すいませんね」
「え? 褒めてるんだけど」
Firstnameと出逢ってからの日々はどれも忘れがたいものばかりだけど、やっぱり初めてデートをした頃のことはよく覚えている。
あの頃の俺はこの子と付き合うことはできないと思っていた。
それでもFirstnameと過ごす時間は何よりも楽しくて、この手を取ってしまえたらどんなに良いだろうと何度も思った。
けどFirstnameを大事に思う気持ちが大きくなればなるほど、俺の未来に巻き込んではいけないという思いは強くなって。
守りたかったから突き放したのに、追いかけてきて怒って泣いたこの子を、俺は拒絶することができなかった。
あれから何度も季節が巡った今───
こんなにも穏やかな日々を過ごせていることを、嬉しく思う。
「ほんと綺麗ですよね」
食後酒を楽しみながら、会話の切れ間に夜景を見下ろすFirstname。
以前言っていたように警察庁から見えるものとは確かに違って見える。
けど俺は夜景よりも、夜景に見入るFirstnameの横顔の方が好きだ。
「Firstnameちゃんの方が綺麗だと思うよ」
うっ、と照れたFirstnameはこっちを向いてくれなくなった。
掛け値なしの言葉だったけど、窓の外よりも俺を見て欲しいからいつも通り茶化してやることにする。
「綺麗になった、かなー、正確には。俺のおかげ?」
「…何言ってるんですか」
窓から目を離したFirstnameはほんのり頬を染めたままグラスに口をつけた。
「だって俺といて幸せでしょ?」
Firstnameはちらっと俺を見て、それからはにかむように笑った。
「はい。幸せです。とっても」
いかにもFirstnameらしい表情だと思う。
たまらなく愛おしい、俺の大好きなFirstnameだ。
自分の口元にも自然と笑みが浮かんだ。
「Firstnameちゃん。俺と出逢ってくれてありがとう」
Firstnameのこの笑顔を、ずっと見ていたい。
一番近くで守りたい。
「来年の今日も再来年の今日も一緒にいてくれる?」
「もちろんです!二人で過ごしましょう」
Firstnameの言葉に目を細めた。
俺はジャケットの内ポケットに入れていたものを取り出した。
小さなその箱を開いて、テーブルに置く。
「Firstname。結婚しよう」
Firstnameの動きが止まる。
驚きで見開かれた目が、信じられない様子で俺と指輪を交互に見た。
「…今日…」
「うん。そうだね」
驚くのも当然だと思う。
けどこの日を選んだ意味を伝えたくて、Firstnameの目を真っすぐに見た。
「俺にとって今日は死ぬまで忘れられない日だけど」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それよりも、俺が死ぬまでFirstnameが傍にいてくれることの方が大事だから」
大きな瞳が揺れて、潤んでいく。
「だから、Firstname。俺と家族になって」
Firstnameは目を伏せた。
沈黙が降りる。
永遠にも感じられた静寂のあと、目に涙を溜めたFirstnameは俺を見て言った。
「はい。よろしくお願いします」
雫がひとつ、頬を伝って落ちた。
その姿に、今すぐFirstnameを抱き締めたい衝動に駆られる。
抱き締めて、好きだと言って、キスしたい。
でもぐっと我慢して、俺はケースから指輪を取り出した。
「左手出して」
涙を拭ったFirstnameが左手を差し出す。
「…なに震えてるの」
「だ、だって…」
震えるFirstnameの手をしっかり掴んで、薬指に指輪を通す。
灯りを受けた緑色の石がきらきらと輝いた。
再び目を潤ませながらも嬉しそうに指輪に見入るFirstnameを見て、全身から力が抜けた。
「あー、緊張したー」
「え? 全然そんな風に見えなかったんですけど」
「するに決まってるでしょ。プロポーズなんてしたことないんだから」
「したことあったら嫌ですね…」
「Firstnameちゃんだけだから喜びなって」
「喜んでますよ!」
「ちょっと足りないんじゃない? 鼻水垂らしてないしさ」
「垂らしませんよ鼻水なんて!」
「えー、いつも俺の服につけるじゃん」
涙の跡が残る顔で、いつもの調子で騒ぎ始めるFirstname。
ここが高級レストランだということも忘れて、二人で大きな声で笑った。
「ねえ、誕生日おめでとうって言って」
俺の言葉にまた驚いた様子を見せたFirstnameは、でもやっぱり嬉しそうに笑った。
「誕生日おめでとうございます。高臣さん」
Firstnameが今まで一度も口にしたことのなかった言葉が、温度を持って胸に広がっていく。
「ありがとう。Firstname」
過去は変わらない。
痕が消えて無くなることはない。
でも、Firstnameさえ傍にいてくれれば俺は大丈夫だ。
これからも続いていく日々を思って目を閉じる。
幸せだ、と思った。