左右田が目を覚ました時、最初に目に映ったものは眼前に迫る田中の顔だった。一気に覚醒した左右田は己の本能と殺意に従い、何の躊躇いもなく強烈な頭突きを放つ。

「ぐ、ぐぉぉぉっ」

 かなり痛かったのか、田中は呻き声を上げながら額を押さえて蹲った。左右田はそんな田中を穢らわしいものを見るような目で一瞥し、きょろきょろと辺りを見回す。見回した瞬間首に何かが貼り付いている感じがし、ナイフで出来た傷口に絆創膏か何かが貼られているのだと気付いたが、左右田にとってそんなことは今どうでも良いので違和感を無視した。
 其処は見知らぬ部屋だった。左右田が今寝ている寝台も見覚えがないし、机も椅子も棚も全く見たことがない。外の様子を見ようにも、真っ黒なカーテンで隠されている所為で見えない。閉め切られた部屋の唯一の明かりは、天井に吊されたでかい蛍光灯だけである。
 とりあえず逃げようと思った左右田は立ち上がろうとしたが、後ろ手に手錠、足にも枷がされていて、おまけに手錠や枷から伸びた鎖が寝台に括り付けられていて逃げられなかった。手錠と枷が直接肌に当たって傷が付かないようにタオルを挟んでいる田中の優しさは評価するべきだろうか。

「田中、此処は何処だ」

 逃走を諦めた左右田は、未だに呻く田中に話し掛ける。すると田中はすくっと立ち上がり、大胆不敵に笑ってみせた。

「此処は俺様の住処。いや、俺様達の愛の巣だ。嬉しいだろう左右田、この覇王たる俺様が態々手ずから迎えに来てやったのだからな!」

 さあ喜べと言わんばかりの物言いに、左右田は完全にぶち切れた。ぶち切れ過ぎて逆に冷静になるくらい切れた。

「は? 意味判んねぇから死ねよ糞ストーカー」
「えっ」

 予想を裏切る返答に、田中は酷く動揺した。
 左右田は確かに臆病者である。臆病者ではあるが、田中に対しては別だった。学園時代からストーカーの如く――いやストーカーだった田中に対し、左右田は容赦というものを完全に捨てたのである。
 大好きなソニアが田中に惚れていたこともあり、左右田は田中が憎くて憎くて仕方が無かった。その上に、その憎くて堪らない田中からの陰湿なストーカー行為。容赦を捨てない方が人として可笑しいだろう。
 因みに左右田がどのようなストーカー行為に遭っていたかというと、SAN値ががりがり削られる内容を書き連ねた名状し難い冒涜的な恋文が十枚以上入った封筒を毎日押し付けられたり、何処で撮ったのか判らない左右田の着替え写真を押し付けられたり、世にも恐ろしい呪術的道具を押し付けられたり、部屋に押し掛けて来られて強姦されかけたり――とまぁ色々である。
 兎に角。左右田は臆病ではあるが、この経緯により田中に対してだけは臆病者の殻をぶち破り、過剰なくらい攻撃するようになったのだ。人とは自らの危機により成長し、変化するものである。素晴らしいことだ。

「何なの? そんなに俺が嫌いなの? こんな陰湿な嫌がらせ受けるようなこと、俺した?」
「い、嫌がらせでは」
「嫌がらせじゃねぇか。ナイフで脅して首絞めて、拉致した挙句に拘束してさぁ」
「ちがっ、違うのだ左右田。俺様は貴様を愛するが故に」
「愛? これが愛? こんなのが愛なら俺もお前を愛してやるよ。ナイフで脅して首絞めて、拘束してからぶっ殺してやる」
「ご、ごめんなさい」

 怒涛のように捲し立てた左右田に対し、田中は身を小さくして謝る。しかしその謝罪が左右田の癇に障った。

「謝るくらいなら遣るなよ。つうかあれだろ、とりあえず謝っときゃ良いだろっていう姑息な考えだろ。その場凌ぎだろ、なぁ」
「ち、違います」
「違うなら遣るなよ。つうか解放しろ解放。俺は帰る」
「それは無理だ」

 先程からおどおどびくびくしていたのにも拘わらず、左右田の要求に対して田中は即答で斬り捨てた。左右田の眉間に皺が寄る。

「は? 何で」
「貴様は俺様に選ばれし悠久の時を共に生きる伴侶だからだ」

 左右田の頬がぴくりと跳ねる。

「は? 何だそれ、勝手に決めんなよ。俺はそんなものお断りだ」
「貴様に決定権は無い」

 ぶちりと嫌な音を立て、左右田の理性が切れた。

「は――ははっ、あはははははっ! 何なのお前、何なの! 狂ってる! マジ狂ってるわお前! 気持ち悪い! 死ね! 死ねよ田中ぁっ!」
「お、落ち着け、よーしよし」

 気が触れ掛けている左右田の頭を、ごつごつとした田中の手が優しく撫でる。田中のそれは猛獣をも虜にする愛撫なのだが、ぶち切れている左右田に通じる訳もなく――。

「死ねぇっ!」

 左右田は本物の猛獣宛らに猛り、田中の手に思い切り噛み付いた。鋭く尖った左右田の歯が、田中の手の肉に深々と突き刺さる。
 田中は激痛に顔を歪めた。しかし左右田を振り払うこともせず、噛ませたままじっと堪えた。
 傷口から血が溢れ出し、左右田の唇から顎を伝って寝台に血が滴り落ちる。生々しい鉄の味を舌で感じ、左右田は少しだけ冷静になった。
 ――拘束されて身動きが取れない圧倒的に不利な状態で、圧倒的に有利な状態の田中に反抗的な態度を取るのは拙いのではなかろうか。
 ――今の田中は此方に危害を加えてくるつもりはないようだが、今後どうなるかなど判らない。
 ――ならば今の内に田中の心を掌握し、完全に服従させ、思い通りにコントロール出来るようにした方が安全且つ平和的ではないか。
 と、左右田は上記のことを一瞬で閃いた。ややサイコパスな発想である。

「――んっ」

 左右田は鼻から抜けるような声を漏らし、ゆっくりと牙を肉から引き抜いた。そして血を啜るように傷口へ舌を這わせる。田中の身体がびくりと跳ねた。

「そ、左右田?」

 田中の顔が紅潮している。此奴傷口舐められて興奮してんのか気持ち悪い――と思いながら左右田は見せ付けるように田中の手を舐め続けた。
 傷口に舌を捩じ込んだり、偶に労るように優しく舐める。正に飴と鞭、天国と地獄を交互に見せられ、田中は辛抱堪らんと言わんばかりに左右田を押し倒し――。

「待て」

 甘く囁くように告げられた左右田の言葉に、田中はぴたりと動きを止めた。止まっていなければ田中の唇は左右田の唇に触れていただろう、というくらい二人の顔の距離はとても近い。

「よしよし、良い子だ田中。ちゃんと待てが出来たな」

 左右田は己の鼻と田中の鼻を触れ合わせ、田中の目を見詰め、犬を褒めるかのように田中を褒めた。ぐっと息を呑む田中に対し、左右田の唇が緩く弧を描く。

「田中ぁっ。俺のこと、好き?」
「好きだ」

 即答だった。田中の呼気が左右田の唇に触れる。その生温い感触に左右田が不快そうに眉をひくつかせるも、田中は全く気付かなかった。
 目の前に愛しい左右田が居る、少し顔を動かせば接吻出来る――そんな状況にあり、些末な事柄に気付けるような余裕が無いのだ。
 そんな田中に気付いた左右田は、今が好機とばかりに口角を吊り上げて問い掛ける。

「好きならさ、俺の言うことを聞けるよな?」
「ああ。聞ける範囲なら」

 聞ける範囲――そう答えた田中に笑いかけながら、左右田は目を細めて思考を巡らせる。
 ――今すぐ解放しろと言いたいところだが、今は無理だ。先程の雰囲気からして、解放しろと言っても聞くことは先ずない。寧ろ脱出の意志が強いと判断され、更なる拘束を強いられる可能性が非常に高い。そうなってしまっては優位に立つことが非常に困難となるだろう。
 ――更に相手は常識が通じない狂人だ。聞ける範囲とやらがどの程度か全く判らないし、聞けない範囲――つまり地雷も判らない。何も判らない以上、あまり冒険すべきではない。あくまでも慎重に少しずつ、安全を確かめる為に石橋を叩きながら渡るように、焦らずにゆっくりと確実に田中の「聞ける範囲」を探り当て、地雷を踏み抜かないようにしなければならない。
 ――そう、踏み抜かなければ良いのだ。そうすれば田中は――。

「じゃあさ――」

 田中は――。

「拘束するなら首輪だけにして欲しいな。これじゃあお前のこと触れないし」

 ――俺の玩具だ。




――――




 というようなことが遭ってから早一ヶ月。順調に田中が左右田好みに躾られていく一方で、世間は行方不明になった若き超高校級のメカニックの安否について面白可笑しく騒いでいた。
 今日も報道番組の司会者や存在価値の判らない専門家が、兵器を造らせる為に何処かの国が攫っただの、超高性能機器を造らせて他国に売り捌く為に某国が連れて行っただの、挙句の果てには宇宙人が優れた技師を得る為に拉致しただのととんでもないことをほざいている。
 此奴等は本当に馬鹿だな――左右田は心の中で呆れ、田中に用意させた緑茶を啜った。緑茶を飲み下し、ほうと息を吐きながら馬鹿共が映っているテレビのチャンネルを変える。
 短い間しか輝けない線香花火のような新人お笑い芸人達が、少しでも長く芸能界を生き残ろうと足掻いて藻掻いて喚いている番組に変わり、左右田は柔らかく微笑む。馬鹿の癖に賢い振りをしている奴等より、必死に馬鹿を演じて居場所を確保しようとしている奴等の方が余程好ましいからだ。

「食事が出来た――いや、出来ました」

 左右田がお笑い番組を見て笑っていると、恐る恐るといった様子で田中が声を掛けてきた。それを聞いた左右田は、首輪の鎖が絡まらないようにしながらソファーから立ち上がり、料理が並べられたテーブルの席へ淑やかに座る。田中も静々と左右田の真向かいにある椅子に腰を下ろした。
 野菜炒め、コンソメスープ、一口大に切り分けられたステーキ、そして作り置きしていたポテトサラダを見遣り、左右田は礼儀正しく両手を合わせてから戴きますと一言発し、愛用の箸を使って料理に手を付け始める。
 しかし田中は料理に手を付けず、恐々と左右田の様子を窺っていた。そんな田中に、左右田はにっこりと微笑みながら言葉を投げ掛ける。

「美味いよ」

 たった一言。たった一言で田中は明るさを取り戻し、戴きますと元気良く声を上げてから料理を食べ始めた。
 田中は単純である。単純で、愚直で、一途で、傲慢で、謙虚で――実に愚かで愛おしい。
 左右田はハムスターのように肉を頬張る田中を見詰めながら口元を緩め、一ヶ月そこらで絆されつつある自身を胸裏で嗤った。
 三年間も苦しめられ、そして拉致監禁までされているというのにも拘わらず、田中のことを好ましく思い始めている自身を。
 玩具程度にしか見ていなかった監禁生活初日の頃は、褒めるなんて偶に気が向いた時くらいにしかしなかった。最初は鞭9:飴1くらいの比率だったのだ。それが今では鞭8:飴2に成り下がっている。
 まさかこんな変態野郎相手に絆される日が来ようとは――。
 意外と自分も単純な人間であると痛感し、絶対に鞭1:飴9にだけはならないでくれよ――と未来の自分に頼みながら、左右田は無言でごくりとスープを飲み込んだ。

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