田中眼蛇夢は急いでいた。仕事場から直接近所のスーパーに寄り、夕方からの半額シール祭りにて奥様連中と食品を奪い合い、激闘の末に勝ち取った大量の肉と野菜が入ったビニール袋を一つずつ両手に下げ、全力疾走で自宅に向かっている。擦れ違う人々が不審者を見るような目で田中を見ているが、田中は気付く暇も余裕も無かった。
 一人暮らしだったならこんなに急ぐことはなかっただろう。しかし彼は一人暮らしではない。とある男と同棲しているのだ。厳密には同棲とは言い難い経緯によって一緒に暮らしているのだが。
 田中はぜいぜいと息を切らせながらマンションに入り、固く閉ざされた自動ドアに暗証番号を入力して中に入る。そしてエントランスからエレベーターに乗り込み、六階のボタンを押した。
 ごうんごうんという音を鳴らしながらエレベーターが上昇する。六階に着くまで田中は背中を壁に凭れ掛け、深呼吸をして呼吸を整えた。
 六階に着く。まだ呼吸は荒い。しかし田中に残された時間はもう残されていない。ふらつく身体に鞭を打ち、彼はエレベーターから転がるように飛び出た。
 田中は早歩きで六〇六号室に向かいながら右手で持っていた袋を左手に持たせ、空いた右手でズボンのポケットから鍵を取り出した。
 固く閉ざされた扉の前に立ち、鍵を鍵穴に差し込む。鍵をくるりと回せば、がちゃりという金属音を響かせて容易く解錠された。
 鍵を再びポケットに入れ、田中は恐る恐る取っ手を握った。ゆっくりと取っ手を回し、扉を引く。きぃっという微かな摩擦音を鳴らしながら扉は開かれた。
 家の中は真っ暗だった。田中は行儀悪く足を使って靴を脱ぎ、真っ暗な家の中へ入っていく。オートロック式の扉ががちゃりと閉まり、辺りは漆黒の闇に包まれた。何も見えない。
 田中は手探りで電灯のスイッチを探す。住み慣れた家なので直ぐに見付け出し、スイッチを入れた。途端に部屋は明るくなり、全てが露になる。
 そう、全てが。

「――っひ、ひゃああああああああっ!」

 暗さに慣れる前だったので光で目が眩むことはなかった田中だったが、直ぐ傍にあるソファーに腕と足を組んで傲岸不遜に自分を睨み付けている男――左右田和一が居ることに気付き、素っ頓狂な悲鳴を上げて床に尻餅を搗いた。
 戦利品が詰まったビニール袋が落ち、中身が床に撒き散らされる。幸い肉はパック詰めにされているものなので、猟奇的大惨事だけは免れた。
 そんな田中と肉や野菜を目だけで交互に見遣り、左右田がはぁ――と大袈裟に溜息を吐いてみせた。その振動で厳めしい首輪から垂れている鎖が揺れる。

「何やってんだよグズ」

 田中を見下しながら左右田が呟く。肝が冷える程に冷たく低い声で罵倒を浴びせられた田中は、身体をびくりと震わせて頭を垂れた。

「ご、ごめんなさい」
「謝れば良いと思ってんの? 正座しろ正座」

 追い討ちを掛けられて田中は押し黙り、言われた通りに正座をした。左右田はそんな田中を一瞥し、首輪の鎖をちゃらちゃらと手遊びする。

「大体さぁ、帰ってくるの遅過ぎなんだよ。何なの? 俺のことどうでも良いの?」
「そんなことはない!」

 どうでも良い筈がない。何故なら田中にとって左右田は、とても大切な存在だからである。だからこそその発言は許せなかった、聞き流せなかったのだ。
 しかし左右田はじっとりとした目で田中を睨み、右側の口角だけを吊り上げて鼻で笑う。苛立たしげに手遊びしていた鎖を思い切り引っ張るも、鎖の先が壁に固定されていて抜けることはなかった。

「じゃあ何で遅くなったんだよ」
「い、今飼育している魔獣が、急に体調を崩して」
「ああはいはい魔獣魔獣、動物ね動物。お前好きだもんな動物。ブリーダーだもんな、仕事だもんなぁ」

 馬鹿にしたような言い草だが、左右田の声に感情は一切込められていない。
 完全に切れている――そう察した田中は、一切反論することなく首肯する。それが気に食わなかったのか、左右田は無表情で田中を睨め付けた。
 左右田は凶悪犯とも揶揄される相貌をしているので、無表情だと更に迫力が増す。田中はその迫力に気圧され、涙腺から涙がじわりと滲み出てきた。

「動物優先なの? 何なの? 職場には同僚が居るだろ? 其奴等に任せろよ。俺の飼育怠るとか何なの? 死にたいの?」
「お、怠っているつもりは――」
「は? 現に怠りやがりましたよね? 一時間二十五分三十七秒遅れたよな、帰宅。馬鹿なの? 死ぬの? 死ね、殺す」
「ごめんなさい」

 田中は左右田の暴言を甘んじて受けている。逃げることも、暴力に訴えて黙らせることもしない。するつもりなど毛頭無い。する資格が彼には無いのだ。
 何故なら田中は――。

「何なの? 遣る気あんの? 自分勝手に俺の将来滅茶苦茶にして――拉致監禁しといてさぁ」

 田中は完全に加害者で、左右田は立派な被害者だからである。




――――




 それは三年間、密かにしめやかに育まれてきた恋心だった。
 希望ヶ峰学園に入学した時、田中は左右田を一目見て心を奪われたのである。
 肉食獣を彷彿させる鋭利な牙に、見た相手を射殺すような凶悪な双眸。肉体労働によって鍛えられた無駄の無い精悍な肉体と、折られた袖から覗く傷だらけの両腕。不自然過ぎて逆に自然なショッキングピンクの髪と瞳。全てが愛おしくて堪らなかった。
 交流を深める内に、左右田の中身にも心を奪われた。臆病な性格の割に言いたいことは言ってくる矛盾した度胸の良さ。派手な外見からは想像出来ないメカニックとしての豊富な知識と聡明さ。軽薄な態度の合間に見せる、仄暗い闇を孕んだ表情。全てが田中を惑わし、狂わせ、魅力した。
 しかしお互い男同士。自分は一向に構わないが、同性愛というハードルの高い茨道を、左右田が共に歩んでくれる訳がない――と田中は思っていた。何故なら左右田はソニア・ネヴァーマインドという女性に惹かれていたからである。
 叶わぬ恋なら忘れてしまった方が楽だ。諦めよう――そう思い続けて三年。田中の左右田に対する想いは日増しに燃え上がり、滾り、幾ら消火弾を投げ込んでも消えることなく身も心も焼き尽くした。
 思考も道徳も――常識も。




 希望ヶ峰学園の卒業式の後、左右田は明日から行くことになる職場に想いを馳せながら自宅に向かっていた。
 小さい頃からの夢であるロケット製作、それに携わる大企業から「是非来て欲しい」と言われ、試験も面接も免除で採用されたのだ。超高校級のメカニックだからという理由で。
 流石は希望ヶ峰学園。入学すれば将来の成功は約束されたようなものと謳われているだけのことはある――などと心中で茶化しながら歩いていると、ふと背後に気配を感じた。振り返ってみても誰も居ない。
 ――可笑しい、何か嫌な予感がする。
 左右田は臆病というだけあり、危機察知能力に長けていた。この場から逃げるように早足で道を歩き始める。
 不幸なことに今歩いている道は人気が無く、コンビニすらない閑静な住宅地だ。何か遭って助けを呼んでも今の御時世、触らぬ神に祟り無しで見て見ぬ振りをされるかも知れない。
 そして何か事件が起こってマスコミのインタビューが来たら、此処の住人達は「悲鳴が聞こえた」とか「争うような音が聞こえた」とか言って、通報も何もしなかった癖に「被害者の方に御冥福を御祈りします」なんてほざくのだ。
 左右田は其処まで想像し、想像通りになるとは限らないのに此処の住人達へ理不尽な怒りを募らせ、舌打ちをしながら地を蹴るように道を歩く。
 近道だからと思ってこの道を選んだのが間違いだった。失敗した、畜生。早く。速く。早く人気の有るところへ――。
 しかし、もう直ぐ人気の有る通りに着くと思った刹那、左右田は後ろから何者かに身体を抱き竦められてしまった。
 突然過ぎて声も出ないなんて、これじゃあ悲鳴が聞こえたなんて証言も出ないな――と悔しさを覚えていると、左右田は自分の首に冷たい何かが押し当てられたことを感じた。
 かなり嫌な予感がする――そんな左右田の予感は大正解だった。

「首を斬られたくないなら動くな」

 背後から男性特有の低い声で脅迫され、左右田は自分の首に押し当てられているものがナイフなのだと悟る。
 あっ、これ死んだわ――左右田は早々に自身の命を諦めた。
 人気の無い場所で、自分を抱き竦められるくらいの大柄な男に、ナイフを首に押し当てられている。
 どう考えても詰んでいる。どう足掻いても絶望。詰んだ出れない帰れない。親父、母さん、ごめん。俺、帰れない。
 頭の中がぐしゃぐしゃになって気を失い掛けた時、左右田の鼻を異臭が撫でた。獣臭い。何処かで嗅いだことのある不快な臭いだ。獣の臭い――そういえばさっきの声、何処かで聞いたことが――あっ。

「田中?」

 左右田が名前を呼ぶと、背後の男がびくりと震えた。震えた衝撃で左右田の首にナイフの先端が少し刺さり、ぴりっとした小さな痛みが左右田の身に疾る。
 刺さった部位から生温かい液体が垂れるのを感じ、ああ血が出た――と左右田は他人事のように思った。と同時に切れた。

「おい田中ぁ、テメェ何してんだ。あ?」

 左右田はナイフを握っている田中の手首を鷲掴みにした。地の底から響くような凄みのある声で唸り、田中の手首を粉砕せんと渾身の力を込めて握り締める。
 ぎしぎしと軋む己の手首に危機感を覚えた田中は、慌てて空いているもう片方の腕を左右田の首に絡ませて力を込めた。ぎゅっと首が絞まり、左右田は呼吸が出来なくなる。それでも手首を離さず握り締めて砕こうと力を込め続ける左右田に、田中は恐怖を抱いた。
 しかしそれも数分間だけのことで、血管も気管も絞められ続けた左右田は、呆気なく白目を剥いて気を失った。
 力無くぐったりと身を任せてくる左右田を支えながら、田中は先程まで左右田が握り締めていた自身の手首を見遣る。真っ青になっている手首を見て、田中の顔も真っ青になった。
 暫く青くなった手首を見ていた田中だったが、ふと我に返ってナイフを懐に収め、きょろきょろと辺りを見渡し、少し屈んで左右田の背中と膝裏に手を回して抱き上げた。所謂横抱き、お姫様抱っこである。
 左右田を抱き上げた田中は至極満足そうに微笑み、颯爽と歩き始めた。人気の無い路地裏に向かって。
 そして二人の姿は闇の中へと掻き消えた。

[ 255/256 ]

[*戻る] [進む#]
[目次]
[栞を挟む]


戻る


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -