ある日、彼は蛹になった。
 いつものように朝御飯を食べ、いつものように学校の授業を受けて。
 いつものように昼御飯を食べ、いつものように午後の授業を終えて。
 いつものように放課後を一緒に過ごして、過ごして――。
 突然、彼は蛹になってしまった。


 僕の目の前に居る彼は、純白の繭に包まれて眠っている。きっと彼は繭を破り、羽化するその日を夢に見ながら眠っているんだろう。
 繭を撫でてみる。滑らかな触り心地で硬く冷たい質感だ。この中で眠っている彼はきっと安らかに眠っていることだろう。
 嗚呼、彼はいつ羽化するのだろうか。揚羽蝶の蛹は二週間くらいで羽化するらしいのに、彼は未だに羽化する気配が見られない。もう一ヶ月も経つというのに。
 もしかして病気に罹ってしまっているんだろうか。だから羽化出来ないでいるんだろうか。
 どうしよう。僕が何とかしないと。彼を助けないと。じゃないと彼は、いつまでも蛹のままだ。蛹のまま、ずっと、ずっと、永遠に――。
 そうだ、こういうことに関して詳しいであろう彼に聞こう。大丈夫、彼は超高校級の飼育委員だ。きっと蛹についても詳しい筈だ。羽化のさせ方も知っているに違いない。
 待っていてね、直ぐに僕が助けてみせるから。




――――




 駄目だった。
 駄目だった。駄目だった。
 彼は知らなかった、蛹についても羽化のさせ方も。超高校級の飼育委員なのに知らないなんて。
 彼は僕に意味の判らないことを言ってきただけだった。現実を見ろとか、いつまで夢幻に囚われているのだとか。彼は何が言いたかったのだろう。僕はいつだって現実を見ている、蛹になった君だけを見ているよ。
 だから早く、僕に羽化した姿を見せて欲しいな。
 羽化した君は綺麗なんだろうね。だって蝶は皆綺麗じゃないか。楽しみだな、早く会いたいよ。
 嗚呼、次は誰に聞こうか。超高校級の保健委員である彼女なら、病気について詳しいかな。彼女ならきっと君を羽化させられる筈だ。




――――




 また駄目だった。
 何故? 何故? 何故なんだ? どうして、どうして?
 彼女も彼と同じことを言ってきた。現実を見てください、と。僕はいつだって現実を見ている。なのにどうして彼も彼女もそんなことを言うの?
 どうして彼も彼女も、君のことを死んだなんて言うの?
 君はこうして此処に、僕の目の前に居るのに。繭に包まれて蛹になった君は、ちゃんと此処に存在しているのに。なのに誰も信じてくれない。
 ねぇ、君はいつになったら羽化するんだい? いつになったら君は繭を裂いて身体を引き摺り出し、幾重にも折り畳まれた極彩色の美しい翅を緩やかに広げ、微笑みながら僕に手を差し伸べてくれるんだい?
 早く羽化してくれないと、僕はもう堪えられないよ。寂しいよ。君と一緒に笑ったり遊んだり出来ない日々は、とても辛くて苦しくて寂しいんだ。
 どうすれば良い? どうすれば君は僕を――僕を許してくれるんだい?
 怒っているんでしょう? 僕が、あんな――だから君は、君は蛹になったんでしょう?
 僕の所為だ。僕の所為で、僕が居なければ――。
 嗚呼、お願いします幸運の神様。これから先、一生不運に見舞われても良いから。だから彼を羽化させてください。彼に懺悔する機会を、贖罪する機会をください。
 僕の全てを捧げますから――。


 ――ぴしり。
 あれ、亀裂が。
 ――ぴしり。
 嗚呼、神様は本当に居たのか。
 ――めきり、めきり。
 僕の幸運も、捨てたものじゃないね。
 ――ずるり。
 おはよう、左右田君。
 ――おはよう、狛枝。


 蛹から羽化した彼の背中には、白く輝く蝶の翅が二対生えていた。




――――




 狛枝凪斗が行方不明になった。
 あの事故から少し可笑しくなっては居たが――まさか左右田の墓を暴いて遺骨を盗み、行方を眩ますとは思わなかった。元々可笑しい奴だっただけに、其処まで予想は出来なかったのだ。
 罪悪感を感じていたのだろうか。車に轢かれそうになった狛枝を助け、代わりに轢かれて死んだ左右田に対して。だからいつまでも左右田の死を受け入れられず、このような奇行に走ったのか。
 それとも左右田に対する執着があったのだろうか。狛枝にとって左右田は、唯一親友と呼べる存在だったから。だから左右田を自分の傍に置きたいが為に墓を暴き、遺骨を持ち出して逃げたのか。
 狛枝の心情が判る訳ではないが、恐らくはそんなところだろう。狂人ではあったが、狛枝も一応は人間だ。左右田が蛹になっただの、羽化のさせ方を教えろだの、狂気染みた妄想に囚われてはいたが。
 大切な人が死んだことを受け入れられない、しかもそれが自分の所為だったら尚更受け入れられないだろう。狂ってしまうのも無理はない。元々頭の可笑しい奴だったが故に、それが更に加速してしまったのだろう。
 しかし、左右田の遺骨を盗んで失踪するとは。狛枝は一体何を考えているのだろうか。友人の一人は狛枝が完全にいかれたと嘆いているが――俺様はどうにもそう思えない。発狂した末の行動だとは思えないのだ。
 確かに狛枝は狂人だ。昔の言動も、事故から今までの言動も、全て常人とは全く違う。だが奴には奴なりの信念があり、それに基づいて行動している筈なのだ。常人に理解されないだけで。
 だからこそ、穏便に済ませたい。他者に理解して貰えない苦しみは判っているつもりだ。それに狛枝は一応、友人と呼べる存在だからな。早く見付けて薄暗い妄想から解き放ってやらねば、左右田にも申し訳無い。
 未だに警察は狛枝の行方を捜せていないらしいが、どうせ人死に以外では危機感を覚えない連中のことだ。真面目に捜索活動などしていないのだろう。此処に捜査の手が及んでいないのが何よりの証拠だ。
 狛枝の両親が所有していた別荘である。手入れを一切されずに放置されてきたのか、最早廃虚と呼ぶに相応しい有り様だが、雨風を充分凌げるくらいには家屋の原形を留めている。
 扉は開くだろうか。鍵が掛かっているのなら、無理矢理にでも押し入る必要があるな。そう思いながら取っ手を掴み、ゆっくり捻ると――がちゃりと扉は容易く開き、廃虚は俺様を迎え入れた。まさか開いているとは。不用心な。
 埃臭く薄暗いが、俺様の第六感が囁いている。最近人が居たらしき形跡があると。靴棚には埃が積もっているにも拘わらず、床にはあまり埃が無く、斑になっている箇所が幾つかある。恐らく何度かこの廊下を行き来したからだろう。
 それに臭気に敏感な俺様の配下、破壊神暗黒四天王達が教えてくれている。人の臭いがすると。だが現在この廃虚に狛枝が居るかどうかまでは判らない。奴は昔から気配が希薄で、最近更に薄くなった感があるしな。
 おまけに奴も馬鹿ではない。もし居るなら俺様達が来たことに気付いたことだろう。何処かに息を潜め、隠れているやも知れん。
 まあ何処に隠れていようが近くに行けば、破壊神暗黒四天王の鋭敏な嗅覚によって暴かれるのは確定しているがな。
 扨、いつまでも玄関で立ち止まっている訳にもいくまい。俺様は足音を出来るだけ忍ばせながら廊下を歩いた。しかしそれでもこの傷んだ床板は、ぎしぎしと不愉快な声を上げる。
 これでは居場所が直ぐに判ってしまうな。だがそれは相手も同じ。奴がもし逃げ出そうと動いたなら、床板の軋む音で判る。覇王たるこの俺様からは逃れられんぞ、狛枝よ。
 日常では訪れることがまず無いであろう廃虚に足を踏み入れた所為か、己の気分が少し高揚していることに気付く。こういう時こそ落ち着かねばならないというのに。
 冷静さを取り戻す為に深呼吸を数回し、ぎしりと床板を軋ませながら廃虚を探索して回る。台所らしきところは使った気配が無い。電気もガスも止まっているのだろうから、弁当を買って食べていたのだろうか。ゴミは見当たらない。コンビニかスーパーで捨てていたのだろうか。
 風呂、トイレ、居間。此処も使われた形跡が無い。水が出ないのだから当たり前か。一階も二階も見て回ったが、人が居た形跡も気配も何も無い。
 可笑しい。確かに床には誰かが歩き回った形跡があるというのに。一体何処へ――む? 破壊神暗黒四天王が反応している。これは本棚ではないか。
 ふむ、これはもしや――そう思いながら本棚を横に押しやると、何と裏に扉が隠されていた。
 この中に狛枝が? いや、中に居るなら本棚で隠せる筈が無い。だが恐らく、この中に何らかの手掛かりが有るに違いない。俺様は警戒しつつも、その扉をゆっくりと開いた。


 窓の無い真っ暗な部屋の中央には、繭が二つ在った。


 純白の巨大な二つの繭が、部屋中の壁に糸を張り巡らせて床に鎮座している。その内の一つは天を仰ぐように殻を裂き、何も無い――何も居ない中身を晒している。
 中身は確かに空なのだが、胡乱で、不明瞭で、薄気味悪く、言いようの無い不安感を俺様に覚えさせた。
 ――こんなにも大きい繭、在る筈が無い。
 あらゆる生き物に精通してきたが、こんなもの聞いたことも見たことも無い。存在する筈が無いのだ。このような、まるで――。
 まるで狛枝の妄想が具現化したような繭など――。


 ぎしり、と天井から音がした。
 何かが蠢く音だ。かさりかさり、と薄翅を擦り合わせるような音も聞こえる。
 何かが居る。
 何の気配も臭気も無い、何かがこの部屋に居る。天井に、俺様の頭上に。
 此処から一刻も早く逃げろ――俺様の本能が喧しいくらいに叫んでいる。危険だと、逃げろと破壊神暗黒四天王も騒いでいる。
 なのに俺様の足は動かなかった。動けなかった。何故なら俺様は、見てしまったから。天井に居る何かを。
 嘗ての友人を。

「――そ、左右田」

 からからに渇いた俺様の喉から、友人の名前が漏れ出る。天井に張り付いている、死んだ筈の友人は微笑んだ。

「おはよう、田中」

 そう呟いた友人の背には、白い光を放つ蝶の翅が二対生えていた。




――――




 田中眼蛇夢が狛枝凪斗の後を追うように行方不明になってから一週間、人の気配も生物の気配もしない廃墟の中――その一室で何かが蠢いていた。
 蠢いているのは二つの繭、穢れを知らない純白の繭。そんな二つの隣には殻の裂けた繭が、空っぽな中身を外界に晒している。
 ぎしり、と部屋の天井が軋んだ。
 重力も力学も無視して天井に座り込んでいる何かが、白い蝶の翅をゆらゆらと揺らしながら二つの繭を見守っている。
 いや、待っているのだ。羽化するその瞬間を。繭を破り、己の眼前に二人が現れるその時を。


 ――ぴしり。ぴしり。


 二つの繭に亀裂が疾る。それを見て、何かは口角を吊り上げた。新しい仲間の誕生に喜んでいるのか、ただの生理現象なのか――それは誰にも判らない。
 人の形をしているだけでその何かは、明らかに人ではない雰囲気を漂わせているからだ。


 ――めきり。めきり。


 二つの繭がほぼ同時に割れる。裂け目からは白く輝く蝶の翅がずるりと這い出し、そして――人の形をしたものが這い出てきた。
 二人と呼ぶべきか二つと呼ぶべきか判らない人の形をしたそれ等に、天井にへばり付いているものが声を掛ける。

「おはよう――狛枝、田中」

 それはゆらゆらと翅を揺らしながら、感情が一切感じられない瞳を細め、薄く――薄く嗤っていた。

[ 246/256 ]

[*戻る] [進む#]
[目次]
[栞を挟む]


戻る


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -