距離感

 

 僕が一歩近付けば、君は一歩下がる。
 僕が二歩近付けば、君は二歩下がる。
 僕が君に近付こうとしても、一生その距離は縮まらないだろうね。臆病な君はずっと逃げ続け、僕との距離を一定に保とうとするから。
 だけど、その距離感が心地良い。ずっと逃げてくれるから、僕はとても安心して君に近付ける。僕が近付いたら君は逃げるから、僕の才能に殺されることはない。
 だから心地良い、この距離感が。決して喪うことのない、このぎりぎりの距離感が。そして君が愛おしい。そんな距離を保ちながら、僕の近くに居てくれる君が。
 だけど、そんな気持ちは抱いちゃいけない。僕が君を好きになってしまったら、君は死んでしまうかも知れないから。
 だから、好きになっちゃ駄目なんだ。大好きで大事な君を喪ってしまったら、僕はもう生きていられない――なんて、こんなことを考えている時点でもう駄目かも知れないね。うん、やっぱり君が好きだ。好きなんだよ。あはっ、手遅れだね。
 ああ、それでね、お願いがあるんだ。僕は君のように人との距離を一定に保つなんて上手く出来ないから、気が付いたら直ぐ傍に寄っていってしまう。近付き過ぎてしまう。そして――殺してしまう。僕の才能が、僕が好きになった人を殺してしまうんだ。
 だからね――。

「――だからね、君には全力で僕から逃げて欲しいんだ。逃げても僕は君を追い掛けるから、ずっとずっと追い掛けるから。人との距離感が判らない僕に代わって、君が距離を保ってくれないかな」

 そう言って純粋な笑みを浮かべる狛枝凪斗に、君と言われた男――左右田和一は酷く困惑した。




 左右田は確かに臆病である。得体の知れぬ魑魅魍魎の類も苦手でであり、何を考えているのかも解らない奇人変人の類も苦手だ。
 そう、奇人変人の類もである。端から見れば左右田自身もその奇人変人の枠に加わっているのだが――左右田本人にその自覚は無いが――狛枝はそれを更に上回る、自他共に認める奇人変人なのだ。
 口を開けば希望に対する異常なまでの愛を語り、身体を動かせば超高校級への常軌を逸する執着心を撒き散らし、絶望に対して潔癖症を思わせる程の憎悪を溢れさせる。
 そんな一般人とは掛け離れた思考回路と行動理念を持った奇人変人の中の奇人変人である狛枝を、自分は普通だと思っている臆病な左右田が果して受け入れられるのだろうか?


 答えは否であり――そして可でもある。


 左右田は確かに臆病である。狛枝のような奇人変人に恐怖し、出来れば近付きたくないと願うくらいには臆病である。
 しかし、左右田は臆病過ぎた。それも、他人からの自分に対するに嫌悪に対して。
 喩え相手が何千何万と人を殺してきた最低最悪の殺人鬼であっても、人を騙して生き血を啜るような悍ましい化物であっても、自分の命すらゴミと言い切って希望を盲信する狂人であっても――左右田和一は他者に嫌われたくなかったのだ。
 嫌われたくない、拒絶されたくない――裏切られたくない。それは人間が誰しも持ち合わせている感情ではあるが、左右田はその感情が異常に強かった。
 最早左右田にとって「嫌われる」「拒絶される」「裏切られる」という行為は、生命を脅かす危機的状況に等しい絶望であり、如何なる手段を用いてでも回避しなければ精神的に壊れてしまう――という強迫観念すら抱いている始末である。
 何故そのような強迫観念が植え付けられたのか。それは彼がとある事件によって絶望を味わったからだ。事件の内容については割愛するが、それによって左右田は以下の非情な現実を学んだのである。
 ――他人はいつか、自分を裏切る。
 ――信じていた分、裏切られると絶望感が大きい。
 ――裏切られることは、とても恐ろしくて寂しい。
 結果――裏切られる辛さを痛感した彼は、その絶望を己の肝に銘じ、二度と同じ目に遭わないように、他者と絶妙な距離感を保ちながら何にも執着せず、軽薄に生きてきたのだ。
 誰からも好かれ過ぎず、嫌われない。相手を好きにならない、嫌いにもならない――誰にも信じられず、誰も信じない。そんな寂しくて優しい、生温くも心地良い距離感を。


 そんな彼は狛枝凪斗の語った、盲目的な愛の告白にも似た戯言を聞かされ――酷く、酷く困惑した。
 出来ればあまり深く関わり合いたくない相手が、自分に対して並々ならぬ好意を抱いていること。
 そんな相手が自分との距離を一定に保って欲しいなどという、奇怪な願いを申し出てきたこと。
 そして――どうしてそんなことを自分に言ってしまうのだという、怒りにも似た悲しみによって左右田和一は困惑していた。
 左右田は知りたくなどなかったのだ、狛枝の想いなど。自分に好意を抱いていることなど。今まで通り何も知らずに狛枝に怯えては逃げ、それでも嫌われたくないから傍に居る――そんな関係をずっと保っていたかったのだ。
 そうでなければ左右田は、狛枝を好きに――信じてしまいそうになってしまう。彼なら自分を裏切ったりしないのではないかと期待してしまう。近付きたくなってしまう。
 超高校級に対して異常な愛と希望を抱く奇人だからこそ、自分を――超高校級のメカニックである自分を、絶対に裏切らないのではないかと錯覚してしまう。
 今までずっと渇望していた。欲しくない振りをしていた。もう二度と痛い目を見たくないからと殻に隠り、仮面を被って生きてきた。
 なのに。なのに、なのに――今更そんな、触れたくても触れない、触れれば死ぬなんて絶望的希望をちらつかせるなんて――。

「――お前って、結構残酷なんだな」

 そう吐き捨てた左右田は侮蔑を露に狛枝に睨み付け、口角を吊り上げながら声無く肩を震わせて嘲笑う。人に嫌われることを恐れる左右田が浮かべたとは思えない程に、その表情は相手に不快感を与える、とても厭らしいものであった。
 狛枝は左右田を苦しめたくて告白した訳ではない、左右田の過去を知らないのだ。左右田は誰にも話したことがない、知る筈がないのだ。そして左右田の心情など、他人に判る筈がない。
 だからこれは、ただの不条理なのだ。無知な子供を馬鹿と罵ることと同じくらい、不条理な行いなのである。
 それを理解した上で、左右田は狛枝に不条理を撃ち込んだ。子供染みている、それも理解している。理不尽だ、理解している。理解した上で行っている。何故なら――こうでもしないと、狛枝に対して執着してしまいそうだったからだ。
 執着などしたくない。距離を縮めたくなどない。信じたくなどない。故に左右田は執着してしまう前に自らの手で拒絶を示し、傷が浅い内に希望という名の絶望を断ち切ったのである。
 しかし――。

「――あはっ」

 狛枝凪斗は不条理を撃ち込まれても尚、嬉々として笑っていた。
「あは、あははははははははっ!」

 狂ったように――いや、狂い笑う狛枝を前にし、左右田は再び困惑する。そんな左右田を見て更に狛枝は笑みを深くし、愛おしむように熱の籠もった声音で囁いた。

「嗚呼――やっぱり僕は、左右田君が大好きだ。好きになったのが君で、本当に良かった」

 一歩、狛枝が左右田に近付く。接近してくる異物に生理的嫌悪を抱き、左右田は一歩下がった。しかし狛枝は再び一歩踏み出し、左右田へ近付いていく。それに気付いた左右田はもう一歩下がった。それを見て狛枝は溜息のような笑いを漏らし、左右田を見詰めて満面の笑みを浮かべる。

「ちゃんと僕から逃げてくれるんだね、嬉しいよ」

 心の底から嬉しそうに言う狛枝を見た左右田は、腹立たしいやら嘆かわしいやらで頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
 ――違う、そうじゃない。そうじゃないのだ。俺はお前に執着したくないから拒絶したのであって、お前の為に逃げた訳じゃないのだと。
 しかしその声は現実に発せられることもなく、左右田は声にならない唸り声を上げながら呆然とし、口を小さく開閉させている。
 そんな左右田を見て何を思ったのか、狛枝は緩慢な動作で左右田へ歩み寄り、未だに呆然として逃げる素振りも見せない左右田の身体を抱き締めた。抱き締められた瞬間、左右田の身体がびくりと震える。

「あはっ、捕まえちゃった」

 泥のように粘着く狛枝の声が耳元で聞こえ、左右田は反射的に狛枝を押し退けようと藻掻いた。しかし狛枝は愉快そうに口元を歪め、強く強く左右田を抱き竦める。

「駄目じゃないか、左右田君。こんな簡単に捕まっちゃあ」

 口では咎めているが、狛枝の表情は欲しい物を手に入れて喜ぶ子供のように無邪気で――無垢故の意図無き悪意が滲み出ていた。
 禍々しく、忌々しく、悍ましい。この世のものとは思えない、思いたくない程に恐ろしい。形容し難い恐怖そのものを具現化したかのような、歪で滑稽で純粋で美麗な化物。改めて狛枝凪斗が危険な人間であることを再認識し、逃れようとした左右田だったが――もう既に、何もかもが遅かったのだろう。
 臆病な左右田和一が狛枝凪斗という怪物に出会ってしまった時点で、こうなることはきっと既に決まっていたのだ。

「左右田君、大好きだよ」

 地の底から這い出てきたような違和感の塊が、左右田の鼓膜に不快な振動を与え、澱みない言語が脳へと伝わっていく。身体は恐怖に支配され、今すぐにでも狛枝を突き飛ばしてしまいそうだった。
 だが、突き飛ばせない。恐怖の余りに身体が動かなくなった訳ではない。脳が、感情が、執着が、希望が。そうすることを拒否していたのだ。
 怖い。恐い。怖い。だけど、もしかしたら――信じても良いのではないかと思ってしまう。
 だって、こんなに求められている。こんなにも、必要とされている。大好きだって言っている。未だ嘗て、こんなに近付いてきてくれる人間は居なかった。ならば、ならば自分は狛枝を――。

「――ねえ、左右田君。君は僕のこと、好き?」

 左右田の過去など知らない筈だ。左右田の想いなど判らない筈だ。なのに狛枝は、左右田の胸中を見透かしたかのような質問をし、見せ付けるように舌舐めずりをした。然も回答が判っていると言わんばかりに笑みながら。
 左右田は喉からひゅうという掠れた呼気を漏らし、眉を顰めながら目を細めて狛枝を睨め付ける。そうでもしなければ泣きそうだったからだ。この残酷な問い掛けに、それをした狛枝の無邪気さに。
 そして――触れたくても絶対に触れてはいけない絶望的希望と、これからずっと一定の距離を保っていかなければならないという己の未来を嘆いて。

「――やっぱりお前、残酷だよ」

 左右田は嗚咽混じりに吐き捨て、狛枝を乱暴に払い除ける。質問の答えになっていないにも拘らず、乱暴に振り払われたにも拘らず、狛枝は満足そうに微笑みながら左右田を見詰め、両想いだね――と唄うように囁いた。

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