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「僕の心配をしてくれるのは凄く嬉しいし光栄なんだけどさ、今の左右田君の方が大変だと思うんだよね」

 大変というのは、記憶喪失のことだろうか。確かに問題の有る無しで言うなれば問題有りだが、不思議なくらい俺の心は落ち着いている。
 最初は困惑もしたが、無いものは無いのだから仕方ないだろうと割り切ってしまえばどうということはない。過去よりも今、今が大事なのだ。

「記憶喪失のことなら大丈夫ですよ。無くなってしまったものは仕方ないですし、それにその内思い出すかも知れませんし」
「左右田君、記憶が無くなって随分図太くなったね」
「そうなんですか?」

 そう尋ねてみると、狛枝は複雑な表情を浮かべて頷いた。図太いと表現されたのは少し遺憾だが、以前の俺を知っている人間が言うのだからそうなのだろう。
 ということは、以前の俺は繊細で人間不信を拗らせた面倒臭い人間だったということなのか。実に面倒臭い。しかし同時に興味深くもある。今の俺とはまた違う以前の俺が、一体どんな人間であったのかが。

「狛枝さん」
「ん? 何かな」
「もし良ければ俺がどんな人間だったか、色々教えてくれませんか」

 ただの興味本位で言っただけなのだが、狛枝は目を輝かせて俺の手を握り、愛おしい宝物を手遊びするように撫でてきた。少しぞわっとする。

「勿論だよ左右田君。僕の所為で君は記憶を失ってしまったんだから、僕は全身全霊を懸けて君に償いをしなきゃならないんだ。君の為なら僕は命を捧げるよ」
「其処までしなくて良いです」
「あはっ、記憶を失っていても左右田君の突っ込みは健在だね!」

 突っ込みを入れたつもりは無いのだが、狛枝がそう言って喜んでいるので、よく判らないがそういうことなのだろう。
 ん? ということは、以前の俺は繊細で人間不信を拗らせた突っ込み野郎――何だ此奴は、本当に繊細なのか。人間不信なのか。益々俺という人間が判らなくなってきた。繊細で人間不信なのに、他人に突っ込みを入れられる度胸は有るのか。
 人格は一言で言い表せないくらい複雑怪奇なものだとは思うが、此処まで方向性が可笑しいと解離性同一性障害を疑わざるを得ない。

「よく判らないですが、兎に角宜しくお願いします」
「此方こそ宜しくね、左右田君」

 微笑みながら俺の手を撫でる狛枝に少し妙なものを覚えたが、俺はそれを気付かなかったことにして狛枝の手を握り返してみた。




――――




 狛枝と会話している間に議論は終わったようで、結論から話すと現状維持だそうだ。もう一回山から落とすとか、頭を鈍器で殴ってみるとか、電気ショックを与えてみるという恐ろしい案も出ていたようなので、現状維持という結論が出て本当に良かったと思う。
 因みに現状維持というのは、保健委員の案だそうだ。物理的ショックは絶対に駄目、思い出せるように少しずつ精神的に干渉していくのが良い。今までの出来事を話したり、今まで遣っていたことを遣らせてみたり、今まで通りに接したり、色んな場所に連れて行く方が良いと言ったらしい。
 流石保健委員だ、安心安全人命第一。恐ろしい案を出した人間達とは違うのだ。


 という訳で現状維持を通告された俺は今、狛枝と一緒に行動している。
 何がという訳なのか俺にも判らないが、いつの間にかそういうことになっていた。狛枝曰く、償いがしたいから傍に居るのだそうだ。俺は彼から以前の俺について話を聞きたかっただけなのだが。
 確かにまだ体調は万全ではないし、未知の島を一人で散策して迷子になるのも困る。なので狛枝が傍に居ることは安全ではあるが――。

「左右田君、此処が電気屋だよ。左右田君は電気屋が大好きで、色んな電化製品を解体したり組み立てたりしていたんだ」

 狛枝は俺の手を握ったまま説明をし、にっこりと意味深長な笑みを浮かべた。じっとりと湿気を含み始めた手に、得体の知れない何かを感じる。
 確かに狛枝と共に行動することは安全だ。迷子にならないし、万が一俺の体調が崩れても助けを呼んでくれるだろう。しかし、全く安心は出来なかった。妙に距離が近いというか、馴れ馴れしいのとはまた違った親しみを感じるというか――兎に角、何かと接触してきて安心出来ない。動悸がする。
 気にし過ぎなのかも知れないが、何か妙なものを感じる。健全な男子高校生が手と手を握り合って行動するのが普通なのか、そういった記憶が無い今の俺には判らない。判らないが、何か可笑しい気がする。
 しかし同級生達は手を握り合う俺達を見ても、揶揄ったり侮蔑したりすることはない。ということは普通なのだろうか。よく判らない。

「どう? 何か感じない?」

 ぎゅっと俺の手を握りながら、狛枝が尋ねてきた。一瞬何のことか判らなかったが、電気屋について聞いているのだと理解した。

「いえ、特に」
「駄目かぁ」

 そう言って笑う狛枝が少し寂しそうに見えたのは、気の所為だろうか。しかし今、それを指摘する程の余裕が俺には無い。俺の手を握っている狛枝の手が気になって仕方ないのだ。
 俺の手は傷だらけの火傷だらけだというのに、この男の手は綺麗だ。まるで女の手のように細く、しかし男らしく硬い。冷たそうに見える白い手は意外にも俺より熱く、俺の手に熱が移り掛けている。そんな狛枝の手に手を握られていると、どうも胸の辺りに違和感を覚えるのだ。

「大丈夫? 気分でも悪いのかな」

 俺の異変に気付いたのか、狛枝が心配そうに俺の顔色を窺ってきた。狛枝の顔が目の前まで迫り、俺の目をじっと見詰めている。色素の薄い灰色の虹彩と、自前にしては長い睫毛、男にしては綺麗な顔が目の前にある。

「――狛枝さんって、綺麗な顔ですね」

 自分で言っておきながら何だが、何故そんなことを言ってしまったのか自分でも判らない。目の前にあったからつい感想を漏らしてしまったのか、それとも――いや、そんなことある筈ないか。

「あはっ、綺麗だなんてそんな。嬉しいなあ、今まで左右田君に言って貰ったことが無かったから」

 今まで言って貰ったことが無かった?
 男同士なのだから、そのようなことを言う方が可笑しいのではないだろうか。俺が覚えている常識には、男に対して男が綺麗と形容することは滅多に無い筈。そして綺麗と言われて喜ぶ男は――判らない、矢張り嬉しいものなのだろうか。

「――あっ、左右田君の顔も綺麗だと思うよ。僕は好き、大好きだよ」

 好きと言われて妙なむず痒さを覚えるも、俺はそれを無視して愛想笑いをすることにした。するとそれをどう解釈したのか、狛枝は自身の羽織っているパーカーのポケットから手鏡を取り出し、何故かそれを俺に差し出してきた。

「左右田君、まだ自分の顔見て無かったよね。良かったら見て欲しいな」

 そう言われ、俺は未だに自分の顔というものを見ていなかったことに気付く。起きてから今まで周りの空気に流されるまま動いてきたので、自分の顔を知るということすら忘れていたのだ。
 忘れていたことを思い出したら、段々気になってくるもので。俺は手鏡を受け取り、自分の顔を見て――硬直した。
 何だこの凶悪な面は。
 皮膚を容易く引き裂いてしまいそうな鋭い牙。遠くからでも見て判る程に派手な躑躅色の頭髪に、同じ色の瞳。人を睨み殺しそうな凶悪な目付き。しかも真っ黒で長い、無駄に量の多い睫毛の所為で目付きの悪さが強調されていて――どう見ても悪魔そのものじゃないのか、これは。

「な、何というか、個性的な顔ですね」
「そうだね。でも、僕は好きだよ」

 好き――狛枝にそう言われる度、耳が擽ったくなる。何なんだ一体、判らない。
 よく判らない感覚に困惑していると、突然狛枝が覗き込むように俺の顔に自分の顔を近付けてきた。先程より近い。少しでも動けば唇と唇が触れてしまいそうな程に。何故か俺は、生唾を飲んだ。

「――そういえば、昨日からコンタクトレンズ付けっぱなしだよね」

 ――えっ?
 予想もしなかった狛枝の発言に、俺は首を傾げることしか出来なかった。

「ほら、左右田の目。こんな虹彩の人なんて居ないでしょ。髪も染めてあるし、目も色付きのコンタクトレンズなんだよ」
「あ、ああ、そうなんですか。てっきり自前かと」

 俺は未だに近い狛枝の顔から逃げるように首を捻り、愛想笑いをしながら狛枝の眼前に手鏡を突き出した。離れてくれという意味を込めて壁を作ったつもりだったのだが、狛枝は意にも介さず俺から手鏡を取り上げ、ずいと更に近付いてきた。
 数粍先に狛枝が居る。最早息すらも出来ない。酷く動悸がする。視界が安定しない。
 このまま俺は、キスでもされてしまうのか?

「――コンタクトレンズ、取った方が良いよ」

 それだけ言うと狛枝はすっと俺から離れ、考えの読めない笑みを浮かべて俺の手を握った。
 この男が何をしたいのか全く判らない。行動が読めない。一体何がしたいのだ。まだ動悸がする。少し苦しい。一体何なのだ。

「左右田君のコテージに眼鏡があるから、今から取りに行こう。コンタクトレンズの付けっぱなしは目に良くないよ」

 そう言って狛枝は俺の手を引いて歩き出した。道が判らない俺はそれに従うしかなく、温和しくその手を握り返してみる。狛枝の手は矢張り熱かった。




――――




 俺のコテージとやらには直ぐ着いた。狛枝は慣れた様子で中に入り、迷わず箪笥の引き出しを開けて眼鏡を取り出した。何故俺のコテージなのに、狛枝は物の有る場所を知っているのだろうか。ううん、謎である。

「はい、眼鏡だよ」

 狛枝に対する疑問に頭を捻っていると、彼は俺に眼鏡を手渡してきた。黒縁眼鏡とはまた地味な。派手な見た目の癖に。そう思いながら眼鏡を弄り――ふと、大事なことに気付いてしまった。

「狛枝さん」
「どうしたの?」
「コンタクトレンズ、取れないです」
「――えっ?」

 そう、コンタクトレンズの取り方が判らないのだ。第一、目の中に物を入れるなんて恐ろしい。そしてそれを取り出すのも恐ろしい! 以前の俺は何て恐ろしいことを平然とやってのけたのだ! 恐ろしい、容姿に違わぬ悪魔の如き人間よ。
 あまりの恐怖に身震いをすると、狛枝がにっこり笑って俺の頭を撫でた。

「大丈夫、なら僕が取ってあげるよ」

 待っててね――と言って狛枝は洗面所へ行ってしまった。水音が聞こえるので、手を洗っているのだろう。俺のコンタクトレンズを取る為に――ん?
 狛枝が俺のコンタクトレンズを取る? つまり狛枝の指が俺の眼球に触れ、コンタクトレンズを摘んで眼球から引き剥がす――ああ駄目だ、想像しただけで眩暈が。
 狛枝が嫌という訳ではない。他人に取って貰うというのが恐ろしいのだ。加減を間違えられて眼球を突かれたらどうしようか、爪が刺さったらどうしようかと、悪いことばかりが脳裏を過ぎる。
 しかし自分で取るのも恐ろしい。いっそこのままに――。

「手も洗ったし、早速取ろうか」

 このままにしようかと思った矢先、狛枝が洗面所から戻ってきた。ああ、逃げてしまいたい。

「立ったままじゃ遣り難いし、ベッドに座ってくれる?」

 にこにこと人好きのする笑顔で言われてしまっては、今更嫌だと言い難い。それに狛枝は俺の目を想って取ってくれようとしている訳だし、このまま放置すれば拙いのは記憶喪失な俺でも判るので――仕方ない、覚悟を決めよう。
 俺は狛枝にばれないように小さく深呼吸をし、促された通りにベッドへ腰掛けた。俺の隣に狛枝が座り、此方へ両手を伸ばしてくる。

「目、開けててね」

 真剣な表情の狛枝に一瞬どきりとしたが、気の迷いだと自己完結させて頷く。覚悟を決めて目を見開くと、瞼が閉じないように片手の指で軽く押さえられた。
 瞼を押さえている方とは逆の手の、親指と人差し指が近付いてくるのが見える。怖い。とても怖い。このまま指が突き刺さるのではないのか?

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