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 目が覚めた時、俺は全身を苛む痛みによって直ぐには動けなかった。筋肉痛の痛みでは無い、これは打撲による痛みだ。頭部もずきずきと痛む。それでも俺は痛む身体に鞭を打ち、ゆっくりと起き上がってみた。
 辺りを見渡してみる。全体的に白く、医療器具などが設置されている部屋で、俺は病院服らしき物を着て寝台の上に居る。俺の身体や頭には大袈裟なくらい包帯が巻かれていて、正直邪魔で仕方ない。
 どうやら此処は病院で、俺は何らかの事故に遭って搬送されたのだろう。事故に遭った覚えは無いが、恐らく事故の後遺症だろう。
 とりあえず看護師でも呼んで起きたことを知らせるか――と思って寝台付近を探してみたが、ナースコールらしきものは見当たらない。どうしたものか。歩けないことは無いが、身体中が痛いので出来ることなら動きたくない。それに自分で思っている以上の深刻なダメージを受けている可能性もあるので、無闇に行動するのは非常に良くない。
 以上のことから俺は再び寝ることにした。起きていても出来ることは無いし、それなら安静にしている方が有意義であると判断したからである。
 早速布団を捲り上げ、横になろう――としたのだが、ナイスタイミングというか、女性の看護師が扉を開いて部屋に入ってきた。看護師は俺を見て一瞬驚いたが、直ぐに嬉しそうな顔をして此方へ寄ってきた。

「よ、良かったですぅっ。大丈夫ですかぁっ? 何処か痛いところとか、違和感の有るところはないですかぁっ?」

 何とも間延びした質問をする人だなと思いつつ、俺は自分の身体状態を伝えることにした。看護師相手に嘘を吐いても何の意味も無い。それどころか、嘘を吐いたことで誤った治療を受ける羽目になるかも知れないのだ。それだけは避けたい。

「全身が痛くて頭も痛いですが、動けない程では無いですよ」

 そう言ってにこりと笑うと、看護師はきょとんとして俺を見詰めた。

「は、はえぇっ? あの、何で敬語なんですかぁっ?」

 俺は対応を間違ってしまったのだろうか。看護師は怯える小動物のように震えている。
 しかし、初対面の相手に敬語を使うのは当然のことではないか。行き成り馴れ馴れしく話し掛けるなんて、失礼過ぎて俺には出来ない。

「何故と言われましても、初めて会った方に敬語を使うのは常識でしょう」

 そう、俺は正しい。俺は正しいのだ。だから看護師にそう答えたのだが――何故か看護師は顔面蒼白になり、酸欠になっている金魚のように口を開閉させ、ああだのううだのと言葉にならない声を漏らしている。一体どうしたのだろうか。

「大丈夫ですか?」

 あまりにも看護師の様子が可笑しいので声を掛けてみたのだが、看護師は只管に震えて泣きそうになっている。
 どうしたら良いのだろうか――と思った矢先、再び部屋の扉が開いた。男が二人立っている。彼等は看護師の様子が可笑しいことに気付き、直ぐ様駆け寄ってきた。

「どうしたんだ、大丈夫か?」

 頭頂部に妙な癖毛を生やした男が、看護師の肩を揺すって呼び掛けている。その様子を一瞥し、もう一人の白い髪を生やした男が俺に話し掛けてきた。白髪の男は、何故か泣いている。

「大丈夫? 僕の所為で、ごめんね」

 そう言って白髪の男は神に懺悔をする罪人のような恭しさで跪き、俺の左手を軽く握って泣きながら頭を下げた。突然のことに驚いたが、この男が俺に何かしたらしいことは判った。この怪我も恐らくこの男の所為なのだろう。
 しかし、特に怒りは湧いてこなかった。怒りたくても覚えていないので、怒りようがないのである。それに初対面の人間に行き成り怒りをぶつけられる程、俺は感情的に行動する人間ではないつもりだ。
 なので俺は、俺の手を握っている彼の手に右手を添え、出来るだけ優しい声音で話し掛けてみた。怒っていない旨を伝える為に。

「大丈夫ですから泣かないでください。俺は怒っていませんので。それにそれだけ反省なされているのですから、俺が怒る必要も無いでしょう」

 こう言ってあげれば彼も安心だろう――と思っていたのだが、白髪の男は顔面蒼白で俺を凝視し、口を固く閉じて震えている。発汗も凄く、俺の手を握っている彼の手がじんわりと濡れてきた。突然どうしたのだ。さっきの看護師といい、理解出来ない。
 気になってちらりと看護師の方を見てみると、看護師と癖毛の男が俺を見詰めていた。癖毛の男も顔色が悪い。先程まで健康的な色だったのに。そう思っていると、癖毛の男が重たそうにゆっくりと口を開いた。

「俺のこと、知ってるか?」

 癖毛の男はそう言って、俺のことをじっと見据えている。よく判らないが、とても重要な質問をされていることだけは理解出来る。
 なので俺は、正直に答えることにした。

「いいえ」

 正直に答えた刹那、癖毛の男は更に顔色を悪くし、口元を手で押さえて戦慄いた。指の隙間からは、鳥の悲鳴にも似た微かな吐息が漏れている。
 何故そのような反応をするのだろうか。もしかして有名人なのだろうか。なら申し訳無いことを言ってしまった、プライドも嘸傷付いたことだろう。そう思って謝罪しようとしたのだが、今まで捨てられた子犬のように震えていた看護師が、怖々と尋ねてきた。

「あのぉっ、御名前を教えて頂けませんかぁっ?」

 名前? 今更何を聞いているのだろう。俺は保険証をいつも持ち歩いているので、それを見れば判る筈だ。ああ、もしかして本人確認というやつなのだろうか。それなら納得は出来る。納得した俺は自分の名前を言おうと口を開き――あれ?


 俺の名前は、一体何という名前だった?


 いや、名前だけではない。誕生日は? 好きな物は? 家族構成及び家族の名前は? 何処に住んでいる?
 何一つ思い出せない。今までどうやって生きてきたのかも、今まで何をしてきたのかも、何一つ思い出せない。判らない、自分が何者であったのかが。

「――判らない、です」

 信じ難い事実に困惑しながらも答えると、看護師は奇妙で間抜けな悲鳴を上げて泣き始めてしまった。




――――




 どうやら俺こと左右田和一は、記憶喪失というものを実体験してしまっているようだ。
 看護師だと思っていた女性は保健委員で、しかも俺の同級生らしい。癖毛の男も白髪の男も同級生で、俺と親しい仲だったとか。
 そんな白髪の男と昨日山へ行った時、白髪の男が足を踏み外して落ちそうになったのを俺が助け、代わりに落ちて怪我をしてしまったらしい。だから白髪の男は、俺に罪悪感を覚えているのだと言う。
 そして病院だと思っていた場所は確かに病院だったのだが、医師の居ない無人病院で、そんなとんでもない病院が建っているのがジャバウォック島という南国の島で――その島に俺を含む十六人の学生が交流を深める為、学級目標というものに取り組みながら長期の修学旅行をしていると言う。
 しかし、その学級目標というのが御遊びのようなもので、おまけに教員は兎の縫いぐるみ。しかもこの巫山戯た修学旅行は希望ヶ峰学園という凄い学園の行事で、俺はその学園に超高校級のメカニックとして入学してきた人間らしい。
 この時点で俺は此奴等が共謀して俺を騙そうとしていると判断し、如何にしてこの島から逃げ果せるかを考えていたのだが――癖毛の男が直してみろと言って差し出してきた壊れた時計を、何故かいとも容易く直せてしまったので、自分が機械関係に強いことだけは理解出来た。
 しかし、超高校級のメカニックという御大層で怪しい響きの称号を信じた訳ではない。荒唐無稽な情報を鵜呑みにする程、俺は馬鹿でもなければ純粋無垢でもないからだ。記憶は確かに無くなったが、それは全てではない。林檎が何であるかも知っているし、言葉の意味も理解して喋ることが出来る。完全に記憶が無くなった訳ではないのだから。
 確かに、此奴等は嘘を言っているようには見えない。皆良い人間に見える。百歩譲って少しは信じてやることも出来る筈なのだが――それでも俺は信じることが出来ない。性根が疑り深いのか、どうも信じられないのだ。
 信じられないものを無理矢理信じなくても良いと思うのだが、それも何故か難しい。俺という人間がどういう生き方をしてきたのか判らないが、とても面倒臭い人間だったことだけは身に沁みて判った。
 扨、簡単に現状と感想を纏めてはみたが――これから俺はどうするべきなのだろうか。

「もう一度同じショックを与えてみるのはどうでしょう! ジャパニーズ漫画でよくある治療法ですよ!」
「そ、そんなこと駄目ですよぉっ! こ、今回は偶々比較的軽傷でしたけどぉっ、次は骨折するかも知れませんしぃっ。し、死んじゃうかも知れませぇんっ!」
「左右田おにぃなら大丈夫じゃないの? 殺しても死ななさそうだし」
「確かに! 和一ちゃんなら爆発に巻き込まれても、鼓膜を痛めるだけでぴんぴんしてそうっす!」
「ピンポイントな喩えだね、まあ何となく判るけどさ」
「んふふふっ。皆甘いよ、甘過ぎるよ! 記憶喪失には熱くて濃厚なキッスが一番なんだって! という訳で左右田君、今夜僕と」
「それ以上は言わせないぞ!」
「キオクソウシツって何だ? 食えるのか?」
「無ッ、食い物ではないぞ!」
「記憶喪失というのは、アストラル体と肉体の不具合によって起こる超魔術的障害のことだ」
「おい貴様、嘘を吹き込むな」
「あちしの魔法でも治せそうにないでちゅ」
「どんまいだ、と思うよ」
「ったく、記憶喪失くらいで騒ぎやがって。俺の組にも何人か記憶が飛んだ奴が居るんだ、珍しいことじゃねえだろ」
「坊ちゃん、それとこれとは違う気がします」

 動けるならとホテルのレストランに連れて来られて同級生達と顔合わせをし、先程軽く自己紹介をして貰ったのは良いが――誰が誰だか直ぐに覚えられず、誰の発言なのか全く判らない。とりあえず皆が俺のことで議論しているのは判った。大半は巫山戯ているようにしか見えないが。

「そ、左右田君、大丈夫?」

 椅子に深く腰を下ろしながら皆の話し合いを観察していると、白髪の男が話し掛けてきた。確か名前は――。

「コマイヌアギトさん、でしたっけ」
「コマエダナギトだよ。狛犬の狛に、木の枝の枝、朝凪夕凪の凪、、北斗七星の斗だよ」

 狛枝凪斗という男は、俺が素っ頓狂な間違いをしても怒らず、笑いながら名前を教えてくれた。
 俺に対して罪悪感があるからだろうか、それとも元々優しく大らかな人間なのだろうか。今はまだ情報が少なく過ぎて判断し難いが、少なくとも俺に対して危害を加えてやろうという悪意は感じられない。完全には信じられないが、悪い奴ではないと判断しておこう。

「そうでした、すみません」
「いや、良いんだよ。直ぐには覚えられないだろうし。それに僕なんかのゴミカスみたいな名前なんて、覚えなくても良いんだよ」

 そう言って狛枝は笑ったが、俺はどうにも納得出来ない。なので反論することにした。

「ゴミカスみたいな名前と貴方は仰いますが、それは親が付けてくれた大切な名前でしょう。それをゴミカスだと貶すのは可笑しいです」

 びしっと狛枝に言ってやると、狛枝は豆鉄砲を食らった鳩のような顔をし、慌てて謝り始めた。

「そんなつもりじゃなかったんだけど、不快にさせたならごめんね」
「いえ、俺は別に不快にはなっていません。ただ同意出来なかったので」
「そう、だよね。親がくれた名前なんだから、僕が貶しちゃ駄目だよね」
「そうですよ、これからは誇って生きてください。良い名前なんですから」
「うん」

 どうやら狛枝も判ってくれたようだ。矢張り間違った考え方は直さなければな。
 しかし、狛枝は何故自分のことをあんなに貶すのだろう。過去に何か遭ったのだろうか。過去を失ってしまった俺には判らないが、狛枝が酷い目に遭ってきたであろうことは何となく判った。

「狛枝さん、辛いことがあるのでしたら仰ってくださいね」

 何が出来るか判らないが、多少は力になれるかも知れないと思って言ったのだが、狛枝は困ったように笑って自身の頬を掻いていた。

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