不確定な匣
人間一人が寝ることの出来る、縦長の木箱。その中に僕は、ふわふわの綿を敷き詰める。
中に入れても傷まないように、中に入れても壊れないように。優しく優しく丁寧に、綿を隙間無く敷き詰めていく。
綿を敷き詰め終わった僕は、彼を持ち上げて箱の中に寝かせた。目を瞑ったまま、身動ぎもしない彼。まるで死んでいるみたいだ。
そっと彼の両手を持ち上げ、胸の前で指を組ませる。ああ、本当の御葬式みたいだね。
眠っている彼の周りに、用意していた花を隙間無く詰める。菊、百合、蘭、カーネーション、グラジオラス、そして――彼の髪色によく似た躑躅の花を、彼の両頬に添えた。
みっしりと、彼と花が詰まった木箱。様々な花に囲まれた彼は、いつもの彼より華やかで――死体のように、美しい。
死は美を永遠にするって誰かが言っていたような気がするけど、あれは本当のことだったのかも知れない。
だって彼は今、こんなにも美しい姿で眠っているんだもの。
床に置いていた木箱の蓋を持ち上げ、ゆっくりと彼の上に被せる。彼の顔が見えなくなってしまうのは残念だけど、ちゃんと箱に詰めないといけないからね。
じゃないと彼が、安心してゆっくり眠れないだろうし。僕も心配で眠れなくなる。
おやすみ――そう言って僕は蓋を閉め、彼が入った木箱をあやすように撫でた。
――――
目を覚ますと俺は、真っ暗で狭い空間の中に居た。
暗いのも狭いのも、大の苦手なのだが。しかもこの空間、噎せ返りそうな程の甘ったるい匂いがする。
手探りで周囲を触ってみる。どうやら俺の周りには、大量の花があるようだ。
多分一種類だけじゃない、何種類かの花がある。感触が一つ一つ違うから、多分そうだろう。
ところで、此処は何処だろうか。何故俺は胸の前で手を組み、花が大量に詰められた、暗くて狭い空間に居るのだろうか。
俺は手を組んで寝るような癖は無い。第一に、さっきまで俺は自分の部屋で寝ていた筈だ。
なのに何故俺は、こんな訳の判らない場所で寝ているのだろうか。
ううん――判らない。判らないが、とりあえずこの状況を打開する為にも、俺の周辺を調べる必要があるな。
そっと目の前の壁を撫でてみる。硬い、感触的に木製だろうか。
こんこんと叩いてみる。音が軽い。どうやらこの壁は薄いようだ。
ぐっと押してみる。動かない。何かが邪魔をしているのだろうか。
壁は薄いようなので、蹴り破るか殴り壊すか出来そうなのだが――この中が狭過ぎて、思うように動けない。
万事休すか――いや、まだ望みを捨ててはならない。諦めるのは足掻いてからだ。
「おい、誰か居ないか?」
外に誰か居ないかと思い、大きな声を上げてみる。空間内に俺の声が反響して耳が痛い。
しかも外には誰も居ないようで、何の反応も返ってこない。どうやら俺の行動は、自分の鼓膜を攻撃するという自滅で終わってしまったようだ。
周りに人が居ない、つまり助けは期待出来ない。ということは、俺の取れる行動は一つ――暴れることだけか。
周りの花を押し潰しながら、俺は無理矢理身を捩って壁に蹴りを入れた。がつんと五月蠅い音が鼓膜を震わせ、びりびりと脳が痺れる。
だが俺は諦めない。何度も何度も、五月蠅い音を我慢しながら壁を蹴り、そして殴った。
正直手も足も痛かったが、この理不尽な状況下から脱却する為ならば、このくらいの痛みは我慢出来る。
いや寧ろ、痛みがある方が増しだ。まだ自分は生きているのだと実感出来るから。
俺だって馬鹿じゃない。何となく、自分の置かれている状況を理解している。嫌というくらいに理解している。
自分が今、棺桶の中に入っている――ということをな。
何で寝ている間に入れられたのか、何処の何奴が入れたのか、今は何時なのか、何もかも判らない。
判らないが、とりあえず此処から出ないと気分が悪い。死体扱いされるなんて、気持ち良い筈が無い。腹立たしい、犯人を見付けて殴ってやる。
だから早く、早く此処から――。
「――あれ? もう起きたの?」
棺桶の外から、声がした。
聞き覚えのある、脳髄に絡み付くような声。この声の主は、俺の記憶には一人しか存在しない。
「ちょっと待ってね。今、蓋を開けるから」
がちゃがちゃと――恐らく鍵を外しているのだろう――音を立てた後、俺の目の前にあった壁が動いた。壁の隙間から光が差し、眩しくて思わず目を瞑る。
暫くして明るさに慣れた頃、ゆっくりと瞼を開ければ――。
「――おはよう、左右田君」
飄々たる態度で微笑む狛枝が、俺の目と鼻の先に存在していた。
あまりにも近過ぎて、少しでも身動げば唇と唇が触れてしまいそうになる。下手に動けない。当たる。
「お――おはよう、じゃねえよ。お前か、俺を棺桶に入れたのは」
「うん」
狛枝は誤魔化すことを一切せず、清々しい程に潔く自分が犯人であることを認めた。
あまりにも素直に認めるものだから、先程まで抱いていた怒りが萎み、犯人を殴ってやろう――と思っていた先程の自分が、何だか馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「あ、ああ――そう、お前か」
「うん、僕だよ」
何が面白いのか、狛枝はずっとにこにこ笑っている。少しだけ鬱陶しい。
「そうか。ところで、何で俺を棺桶に入れたんだ?」
俺がそう尋ねると、狛枝は一層笑みを深くして、恍惚とした様子で語り始めた。
「絶対に亡くしたくない、喪いたくない大切なものは、大事に大事に箱へ詰めて、ずっと保管しておくべきなんだ。だから僕は左右田君を箱に詰めて、ずっと大切にしようと思ったんだ」
「は、はあ」
何だかよく判らない発想だが、とりあえず相槌を打っておく。
それに気を良くしたのか、狛枝は更に生き生きと言葉を紡ぎ始めた。
「箱の中に入れてしまえば、中身は見なければ判らない。中身が変わっていないと思えば変わっていないし、中身が変わったと思えば変わるんだ。だから箱に左右田君を閉じ込めて、僕が箱の中身は『左右田和一』だと信じ続ければ、箱の中の左右田君はずっと『左右田和一』のままで居られるんだよ。それに生も死も、箱の中では両方存在するんだ。左右田君は『生きている左右田和一』と『死んでいる左右田和一』の矛盾を抱えたまま、生死を超越した存在になるんだよ。正に神の領域、僕の愛する左右田君に相応しい領域じゃないか」
ああ――うん、馬鹿だ。
頭の良い馬鹿だ此奴。
「言いたいことは判った。判ったけど、納得も同意も賛成もしない」
「どうして?」
本当に判らないのか、狛枝は首を傾げて俺を見詰めている。
馬鹿だ、やっぱり馬鹿だ。
「どうしてって、聞くまでも無いだろ。つまり観測者の居ない空間に、誰も居ないところに俺を閉じ込めるってことだろ。一人ぼっちとか嫌に決まってんだろ、馬鹿」
「どうして? 左右田君は、生死を超えた存在になれるんだよ」
「それは、お前にとってはだろ。俺という観測者が俺を観測している限り、生死を超えた存在にはならねえよ。そして俺という観測者が居なくなるということは、つまり――俺が死んだってことになるから、やっぱりどう足掻いても俺は生死を超えられない。こんなことをしても時間の無駄だぜ」
自分でも何を言っているのか判らないが、とりあえず思ったことの半分だけを述べてみる。
すると案の定というか、狛枝は面白くないと言わんばかりの顔をした。
「そんなの詭弁だよ」
「お前もだろ」
透かさず突っ込みを入れてやると、狛枝は益々面白くないと言うように眉を顰める。
「僕にとっては神に等しい存在になるんだから良いじゃない」
「良くねえよ、お前って結構自分勝手だな」
「だって、左右田君には永遠に『左右田和一』のままで居て欲しいんだもの。僕の傍から居なくなったり、死んだりして欲しくない。だから箱に詰めて――永遠に不確定な『左右田和一』になって欲しかったんだ」
そう言って悲しそうに笑う狛枝を見て、俺は態と大きな溜め息を吐いてやった。
「お前の想いは痛い程に判った。判ったけど、やっぱり納得も同意も賛成もしてやらねえ」
「どうして?」
「納得して同意して賛成しちまったら、俺もお前を箱に詰めなきゃならなくなる――あっ」
しまった――慌てて口を噤むも、何もかもが遅かった。絶対に言うまいと思っていた半分が、つい。つい。
先程まであんなに詰まらなさそうにしていた狛枝が、欲しいものを漸く手に入れた子供のように目を輝かせ、俺のことを凝視している。
ああ、しまった。本当にしまった。
「あはっ――そうか、左右田君も僕のことを愛してくれていたんだね」
「あ、愛してねえよ。ただちょっと、ほんのちょっとだけ好きなだけで」
「素直じゃないなあ。まあ、其処が左右田君の魅力でもあるんだけどね。そんなツンデレ具合に僕の心が鷲掴みにされたと言っても過言ではないし、本当に左右田君は小悪魔みたいだよね」
聞いてもいないことをべらべら口走る狛枝に、俺は段々頭が痛くなってきた。
というか、此奴の荒い息が顔に当たって擽ったい。いつまでこの距離を保ってんだよ。離れろ。近い、主に顔が近い。
「も、もう良いから。お前の心を鷲掴みにしたのは判ったから、離れろ。好い加減、棺桶から出たいし」
狛枝の肩を押して、退けるように促す――が、動かない。狛枝が退こうとしない。
「おい、退けって」
べしりと肩を叩いても、狛枝は陶酔した表情で俺を見詰め――愛でるように優しく、俺の頬を撫でた。
何故だろう、とても嫌な予感がする。
「左右田君。外国の御伽噺にさ、死んだ姫に王子がキスをすると、生き返るって話があるよね」
ああ――此奴が何をしようとしているのか、何がしたいのか、手に取るように判ってしまった。
「そんな話はありません」
「あるよね」
「ありません」
「あるよね」
「――あ、あるけどさ」
「じゃあキスして良いよね」
やっぱりな、判ってた。
「何が『じゃあ』だよ、俺は生きてるっつうの。死んでねえよ」
「それは違うよ。観測者が左右田君しか居ない箱の中に居た左右田君は、僕視点だと生きているのか死んでいるのか判らない状態なんだ」
「いや、生きてるから。動いてるから」
「動く死体かも知れないじゃない」
「えっ、ゾンビ? 俺ゾンビなの? 生ける屍なの?」
「その可能性もあるんだ、不確定だから。だからキスすることによって、生を確定させるんだよ」
「何だよその超理論、全く理解出来ねえ」
「理解するんじゃないよ、感じるんだ」
意味不明だよ馬鹿――そう噛み付いてやろうとしたら、逆に噛み付かれてしまった。
物理的に、俺の唇を。
あまりにも突然過ぎて反応出来ずにいると、狛枝がしつこく俺の唇を啄み始めた。一回で良いだろ、調子に乗るな。
段々腹が立ってきたので、狛枝の頭を平手で叩いてやった。
「痛いよ左右田君」
「うっせ。一回で良いだろ、一回で」
「ごめんね、つい。でもこれで、左右田君が生きていることは確定したよ」
最初から生きてるっつうの――そう突っ込んでやろうかと思ったが、狛枝が心底嬉しそうに笑うものだから、水を差すのも悪いかなと思い、何も言えなくなってしまった。
「あはっ。今度こそ、おはよう左右田君」
「ああ――はいはい、おはよう狛枝」
改めて挨拶してくる狛枝へ適当に返事をし、周りに詰められた色取々の花を撒き散らしながら、俺は棺桶から起き上がった。
[ 220/256 ][*戻る] [進む#]
[目次]
[栞を挟む]
戻る