口腔
「左右田君の歯って、まるで肉食動物のように鋭利だよね」
そう言いながら僕は左右田君の顔へ右手を伸ばし、そっと唇と唇の隙間へ親指を差し入れ――歯を隠している邪魔な上唇を押し上げてみる。
露わになる、鋭い犬歯。いや、犬歯だけじゃない。切歯も犬歯も小臼歯も鋭い。同じ人間のものとは思えない、尖りに尖った牙そのものだ。
大臼歯は、普通の人と同じみたいだけどね。
「いきなり何すんだよ、噛むぞ」
左右田君は眉を顰め、僕を睨んで威嚇する。
いや、威嚇しているつもりは無いのかも知れない。彼は顔が怖いから、僕がそう思い込んでしまっただけかも知れない。
「あははっ。噛むだなんて、そんな」
「本気だぞ」
どうやら冗談ではなく本気らしい。こんな歯で噛まれたら、きっと皮膚に穴が空くだろうね。
いや、それだけでは済まないかも知れない。肉を裂き、血管や神経を掻き切り、骨をも砕いて――指が喰い千切られてしまうかも知れない。
左右田君の顎がどれだけ力強いのか判らないけど、僕みたいに貧弱な人間の指くらいなら、いとも容易く切断出来てしまうだろうね。
ううん――でも、左右田君に喰い千切られるなら悪くない。
「良いよ、噛んでも」
左右田君の警戒心を解く為に莞爾としてみせて、僕は左右田君の口内に人差し指を突っ込んだ。
歯の先に指が触れたけど、皮膚が切れたり穴が空いたりはしなかった。ピラニアや鮫の歯みたいな鋭さは無いようだね。
「や――お前、何を――」
逃げようとする左右田君を、僕は思い切って押し倒してみる。不意打ちだったお蔭か、呆気ないくらい簡単に左右田君を押し倒せてしまった。
強かに床へ背中や頭を打ち付けたらしく、左右田君は身悶え、後頭部を両手で押さえながら僕を睨み付けている。
でも、涙目だから全然怖くない。うん、可愛い。可愛いね。
「ちょっとだけ、弄らせてね」
仰向けに倒れたままな左右田君の腹に座り、逃げられないように体重を掛ける。僕の重みの所為か、左右田君が小さく呻いた。
「ちょっとだけ、ねっ」
顔を引き攣らせて涙を流す左右田君の頬をあやすように撫で、僕は再び左右田君の口内に人差し指を入れた。
鋭利な歯に指を擦り付けながら、奥へ引っ込んでしまっている舌を突いてみる。瞬間、左右田君の身体が少しだけ跳ねた。
左右田君の潤んだ躑躅色の双眸が僕を捉え、何かを訴えている。
止めろ、かな? それとも――。
「――ふ、うぅっ」
擽るように指先で舌を撫でると、左右田君は眉に皺を寄せて、ぎゅっと固く目を瞑った。何かを堪えるように戦慄き、押し殺された喘ぎが口から漏れ出る。
「や――やめ、やめて」
さっき僕のことを噛むだなんて言っていたとは思えないくらい、左右田君は弱り切っていた。少しだけ口の中を触っただけなのに、どうしてかな。
もしかして、左右田君は口の中が弱いのかな?
「は、あぁっ――」
硬口蓋を引っ掻くように爪で擦ると、面白い程に左右田君は身を震わせ、目の端から涙を零して甘ったるい声を上げた。
やっぱり弱いんだね、口の中が。
「や、だっ、や――うぅっ」
歯肉や歯の形を確認するように撫でていく度に、左右田君は死にかけの魚みたいに小さく跳ね、声にならない声を漏らす。真っ赤になった顔が凄く厭らしくて、思わず生唾を飲んでしまった。
ああ、可愛い。つい、虐めたくなっちゃうくらいに。
「――そんなに嫌なら、噛んでしまえば良いじゃない」
僕の発した言葉に左右田君は肩を跳ねさせ、困惑した様子で僕を見詰める。
「噛まないの?」
笑いながらそう言って、僕は左右田君の舌を指先で撫でた。
唾液がさっきよりも出ているのか、舌は驚く程に滑り気を帯びている。
そして――熱い。吐息も舌も唾液も、左右田君の全てが熱かった。
「噛んでも良いんだよ」
切歯の裏側を指の腹で擽り、噛んでしまえと左右田君に促す。
でも彼は、僕の指を噛まない。何かを求めるような、問い掛けるような眼差しを、僕に寄越してくるだけだ。
ううん――。
「――噛まないってことは、嫌じゃないってことかな?」
僕がそう尋ねると、左右田君は身体を小さく震わせて、口内に溜まっていた唾液をごくりと飲み込んだ。
それに伴い、少しだけ口が閉じる。左右田君の鋭利な切歯が、少しだけ僕の指に食い込んだ。
だけどそれは、噛み切るには至らない甘噛みのようなもので――全く痛くない。寧ろ心地良い、痺れるような快感を僕に齎した。
「甘噛みじゃあ、噛むとは言えないよ」
そう言いながら微笑むと、左右田君は恐る恐る両手で僕の右手首を掴む。
とうとう引き剥がす気になったのかな――そう思って左右田君の動向を観察していると、彼は僕の手首を掴んだまま硬直してしまった。
「左右田君?」
呼び掛けても反応が無い。僕のことをじっと見据えながら、手首を固く握り締めている。
このままでは血流が止まってしまいそうだな――と他人事のようにそれを傍観していると、左右田君がゆっくりと口を動かし始めた。
歯先を軽く僕の指に突き立てて、齧り付くように何度も甘噛みを繰り返す。その絶妙な力加減で与えられる刺激に、僕は軽い興奮を覚えた。
そんな僕の表情を窺いながら、左右田君が僕の指に舌を絡める。滑らかな舌と唾液が、這い摺るように指へ纏わり付いてきた。熱く粘っこい感触が気持ち良い。
僕の指を愛撫する左右田君の顔は、とても淫らで艶やかだ。愛撫されているのは此方なのに、まるでされている側のような蕩けた表情で――ああ、厭らしい。
そして可愛らしい。可愛らしいよ、左右田君。
「左右田君、気持ち良いの?」
自由なままだった左手を、左右田君の口元へ伸ばした。口内へ親指を突っ込み、ゆっくりと抉じ開ける。
親指の腹が歯先に食い込んで、少しだけ痛い。やっぱり鋭利だね、左右田君の歯は。
「あ、あがっ――やめ、ろっ」
無理矢理開かせた所為か、左右田君が苦しそうに呻いている。
だけどそれも一瞬だけで、僕が少しだけ自由になった右手で舌を抓むと、左右田君は艶めかしい喘ぎ声を漏らした。
抓んだ指で捏ねるように、舌を優しく揉み拉く。こりこりとした感触や、滑る舌の粘膜を楽しむ為にじっくり撫で回していると、左右田君は握ったままだった僕の右手首を離し――そっと、手の甲を撫でてきた。
小刻みに震えている左右田君の手が、縋るように僕の手を撫でている。
枯れ果てそうなくらいに涙を流している彼の眼が、僕に何かを訴えている。
彼の眼が、もっとして――と、そう言っているように僕の眼には映った。
都合の良い勘違いかも知れない。左右田君は黙って、僕を見ているだけだから。
自分勝手な妄想かも知れない。左右田君は何も言わず、僕の手を撫でているだけだから。
でも、左右田君が僕を拒絶しないから。拒絶してくれないから――僕に勘違いをさせる、左右田君が悪いんだよ。
「――左右田君が、悪いんだよ」
自分自身へ、左右田君へ言い聞かせるように呟いた僕は、彼へ覆い被さるように身を屈めた。目と鼻の先に、耳まで紅潮した左右田君の顔が在る。
左右田君と目が合った。潤んだ彼の瞳が僕を見詰め、ゆらりと揺れ動く。
期待しているのかな? 怖がっているのかな? それとも――両方かな?
ああ、やっぱり左右田君は――可愛くて、そして厭らしい。
僕は左右田君の唇に舌を這わせ、焦らすようにゆっくりと、彼の口内へ舌を滑り込ませた。
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