終焉

 

 ぎりぎりと、頭の中の歯車が軋む。ぎりぎり、ぎりぎり。五月蠅くて堪らない。五月蠅い、五月蠅いよ。止めてよ、耳障りだ。
 頭を掻き毟り、違和感と焦燥感を掻き消す。何だろう、今日はとても不愉快だ。こんなに気分が悪いなんて、病気にでもなってしまったのかな。
 拙いなあ。ただでさえ僕は無能な屑なのに、これじゃあ皆の足を引っ張ってしまうよ。
 身体を寝台から起こして立ち上がる。少しふらつく。やっぱり病気かも知れない。どうしよう、こんな時に彼が居てくれたら――ああ、彼は今居ないんだった。淋しいなあ。傍に居てくれたら、それだけで安心出来るのに。


 とりあえず、着替えなきゃ。
 着替えて、仕事をしなくちゃね。僕なんかに出来ることなんて高が知れているけど、それでも遣れることはあるから遣らなきゃ。じゃないと彼に申し訳ないよ。今も何処かで頑張っている彼にね。
 だからいつものように、スーツを着て――あれ? スーツが無い。可笑しいなあ、スーツが無いよ。いつも此処に有るのに、つなぎ服しかないや。


 ――あれ? 何で、彼の愛用していた、つなぎ服があるの?


 あれ? あれ? 可笑しいなあ、昨日まで無かったよね。あれ? 昨日まで此処には確かに、確かにスーツがあって、僕はそれを着て――着て、何をしていたんだっけ?
 どんな仕事をしていたんだっけ? 接待? あれ? 何かの書類に判子を押していたんだっけ? あれ? あれ?
 それともパソコンに文章を打ち込んでいたんだっけ? あれ? 僕は――僕は何をしていたんだっけ?
 可笑しい。思い出せない。何も思い出せない。頭の違和感が増す。がんがんと鐘を叩くような音が聞こえる。がんがん、ぐわんぐわん、がんがんがん。五月蠅い、五月蠅いよ。五月蠅い。静かにしてよ。
 眩暈がする。吐き気がする。全身が酷く寒い。身体の震えが止まらない。気持ち悪い。気持ち悪い。立っていられない、気持ち悪い。
 何で、可笑しい。何で、こんな、可笑しいよ。何でこんなに恐ろしいんだろう。何が恐ろしいんだろう。判らない、判らないけど堪らなく怖い。凄く怖い、怖いよ。助けて左右田君。助けてよ。


 いや、今彼は居ないんだ。自分で、自分で何とかしなくちゃ。何とか、何とかしなくちゃならないんだ。
 早く、早く洗面所に行こう。顔を洗えば、少しはこの気分も増しになるかも知れない。早く、早く、早く――あれ、あれ?
 怖い。洗面所に行くのが怖い。可笑しいなあ、何でだろう。足が竦んで動かない。洗面所なんて、歯ブラシとコップと、櫛と鏡があるくらいじゃないか。何でこんなに怖いんだろう。
 行きたくない。行きたくない。でも、行かなきゃいけない気がする。顔も洗わなきゃ――いや、そんなことどうでも良いんだ。兎に角、行かなきゃならないんだ。
 でも、足が、足が動かない。何で今日の僕は、こんなにも可笑しいんだろう?
 昨日、日向君とお喋りをして、凄く楽しかったのに。何で、いきなりこんな、気持ち悪い。気持ち悪いよ。耳の奥で虫が、蟲が、がさがさがさがさ動いているようで気持ち悪い。気持ち悪くて五月蠅い。皮膚の下に蚯蚓が這い摺っている気がする。びりびりとした不快な感覚がする。
 ああ、今日の僕は可笑しい。体調が優れないんだ、駄目だ。皆に申し訳ないけど、今日は休ませて貰わなきゃ。こんな状態じゃ仕事は無理だよ、逆に迷惑を掛けちゃう。蟲が五月蠅い。何か言っている。五月蠅い。
 さあ。そうと決まれば顔を洗って、それから皆に連絡して、それからもう一度寝て――。


 あれ? 左右田君?
 左右田君、そんなところに居たの? 帰って来たなら来たって、早く僕のところに来てくれれば良いのに。意地悪だなあ。僕がどれだけ淋しい想いをしていたと思ってるの?
 ねえ、左右田君。どうして返事してくれないの? 何で笑っているの? 左右田君?
 ねえ、ねえ。何で無視するの? こっちに来てよ、僕のこと抱き締めてよ。また一緒に暮らそうよ。僕は君が居なきゃ何も出来ない、無価値無意味なゴミ屑なんだよ。ねえ。
 あれ? 何で壁が。左右田君、壁があるんだけど。何これ? 見えない壁ってやつなの? 意地悪するのは止めてよ、笑ってないでさ。ねえ、左右田君ってば。
 左右田君? ねえ、お願いだからさ。僕の動き、真似しないでよ。止めてよ、何だか怖いよ。ほら、泣きそうになってる。左右田君も嫌なら止めなよ。ねえ。
 お願いだから。左右田君、お願いだから。この壁を退かせてよ。君も僕に会いたいんでしょ? ねえ、なら外してよ。そして抱き締めてよ。ぎゅっと、窒息するくらいにさ。
 左右田君――左右田君?
 ――あっ。


 左右田君。
 左右田君、お願い。
 お願い、嫌だ、認めたくない、知りたくない、こんな――違う、これは夢だ。夢だ、覚めろ、醒めろ。さめて、おねがいだから。おねがいだから――あ。
 ああ。ああぁぁ、ああああああああああああああああああああああああああああああああ――ああ、そう、か。
 そうだったの、か。僕は、僕じゃなくて、俺――。




――――




 とても静かだ。静かだ。何の音も聞こえない。とても静かだ。
 やっと俺は、彼奴と一緒になれるんだ。
 今までごめんな、気付かなくて。気付いてやれていたら、こんなことにはならなかったかも知れないのに。助けられたかも知れないのに。ごめんな、狛枝。
 ごめんな。


 ゆらゆらと、揺れている。
 ゆらゆら、ゆらゆら、静かに揺れている。鈍い光を放ちながら、ゆらゆらと目の前で揺れている。


 ――同じ物を探すのにな、手間取ったんだ。
   でも見付からなかったんだ、この世界では。どうせなら同じ方法で、と思ったのによお。
   だから自作してやったんだぜ、同じ形のやつをさ。凄えだろ。
 ――そうだね、君はやっぱり凄いよ。
   流石、超高校級のメカニックだっただけあるよね。加工もお手の物なんて。
 ――そうだろ? もっと褒めても良いんだぜ?
 ――あははっ、左右田君ってば調子に乗り過ぎだよ。
   また西園寺さんに「うざい」って言われちゃうよ?
 ――う、うっせうっせ! 余計なお世話だっつうの!
 ――あはっ。でも僕は、そんな左右田君が好きだよ。
 ――けけけっ、んなこと判っ――わ、判ってるっつうの!
 ――あれ、照れてるの? 可愛いね。食べちゃいたいよ。
 ――へ、変なこと言うなっつうの!
   だあああっ、もう! 折角今からっていう状態なのに、気分が台無しじゃねえか!
 ――あはは、ごめんね。
   やっぱり僕って駄目な奴だよね。雰囲気を打ち壊しちゃうなんて、最低最悪だよ。
 ――そ、其処まで気にすることねえだろ。
   俺はその、お前とならどんな雰囲気でも、幸せだし。
 ――あはっ。嬉しいなあ、左右田君にそんなことを言って貰えるなんて。
   今死んでも、僕は悔い無く逝けそうだよ。
 ――そう、か。良かったな。
 ――うん、良かったよ。君と一緒だから、尚更嬉しいな。
 ――おう、俺もだ。すっげえ嬉しい。
 ――ねえ、左右田君。
 ――何だよ、狛枝。
 ――もしさ。もし僕が真実を言っていたら、どうしていた?
 ――そりゃあ勿論、お前の為に出来る限りのことをしてやってたぜ。
   絶対に助けた。助けたぜ、俺は。
 ――そっ、か。ごめんね、言わなくて。
 ――いや、もう良いって。過ぎちまったことは仕方ねえしさ。
   だからさ、これからは未来っつうの? それを目指していこうぜ。
 ――そう、だね。そうだよね、希望は前に進むものだもんね。
 ――そうそう、希望は前に進むんだよ。
   なあ、狛枝。
 ――何? 左右田君。
 ――手、握ってくれねえかな。
 ――手?
 ――ほら、今まで手繋いだことってあんま無かったし。今くらい、良いだろ?
 ――そういえばそうだったね。
   でもそれって、左右田君が恥ずかしいって拒絶したから、しなかっただけだよね。
 ――か、過去をほじくり返すんじゃねえ!
   と、兎に角! 俺は今、お前と手を繋いでいたいの!
 ――あははっ、左右田君は我儘だなあ。
   でも、そんなところが好きだよ。
 ――うっせうっせ! この誑し!
 ――ごめんごめん。
   あっ。
 ――んだよ、早くしろよ。
 ――いや、これどうしようかなって。
 ――ああ、口に銜えとけば良いじゃねえか。
 ――無理だよ、流石に。重たいし。
 ――ええ、じゃあ一瞬しか手ぇ繋げねえのかよ。最悪。
 ――僕は、一瞬でも嬉しいよ。左右田君と繋がれるなら。
 ――けっ、天然誑しめ。俺だって、一瞬でも嬉しいっつうの!
 ――あははっ。
   左右田君。
 ――な、何だよ。
 ――手、繋ごうか。
 ――おう。
 ――左右田君、大好きだよ。愛してる。この先もずっと、永遠に。
 ――俺だって狛枝のこと大好きだし、死んでもずっと愛してるからな。
 ――うん、ありがとう。
 ――こっちこそ、ありがとうな。
 ――じゃあ。
 ――ああ。
 ――またね、和一君。
 ――またな、凪斗。




――――




 俺は、どうしたら良かったんだろう。
 どうしたら、左右田を助けられたんだろう。
 どうしていたら、左右田を死なさずに済んだんだろう。


 床一面にばら撒かれた、割れた鏡の破片。
 明かりの灯っていない部屋の真ん中で、左右田は自分の手を握って、眠るように息絶えていた。
 一目見ただけで、蘇生は無理だと判ったよ。だって胸に、金属製の槍が深々と突き刺さっていたんだから。
 誰かが殺したのかと思ったけど、槍の持ち手に縄が付いていて――俺はプログラム内で狛枝がやらかした、あの自殺を思い出したんだ。
 そして天井を見たら、案の定梁があって、一部分の埃だけが無くなっていて――ああ、自殺したのか――なんて、他人事のように認識して、俺は涙すらも出なかった。
 助けられなかった。
 俺は無力だった。
 左右田の為だと、狛枝の為だとやってきたことは――無駄だったのか?
 いや、無駄じゃない。無駄どころか、この結末へ誘導してしまっていたのではないか?
 つまり、左右田が死んだのは――俺の、所為?
 俺の所為だ。俺が余計なことをしなければ、左右田を「狛枝凪斗」の儘にしていれば、もっと上手く関わっていれば――左右田は、死ななかったんだ。
 死ななかったんだ。俺が何もしなければ。
 ごめん。
 ごめん。左右田、ごめん。狛枝、ごめん。左右田を死なせてしまった。俺の所為だ、俺が、俺が悪いんだ。
 俺が、悪いんだ。
 だから、誰か責めてくれよ。俺が悪いんだって、俺が左右田を殺したんだって。
 そんなに優しくしないでくれよ。「日向は悪くない」とか「仕方なかった」とか「これで良かったんだ」とか、そんな言葉聞きたくない。そんな嘘や言い訳、聞きたくない。
 聞きたくない。そんな甘言、聞きたくない。責めてくれ、俺の所為だと罵ってくれ。思い知らせてくれ。なあ。
 友人一人も救えなくて、一体何が希望なんだよ。なあ、俺は何なんだ? 俺は、俺は結局――詰まらない人間だったのか?
 誰か教えてくれよ。俺には――「日向創」には判らない。俺じゃない「彼奴」なら判ったのか?
 彼奴なら、左右田を救えたのか? あらゆる才能を持った彼奴だったなら、左右田を救えていたのか?
 狛枝も、狛枝も救えていたのか?
 俺は何なんだ?
 俺は、日向創は、何なんだ?
 俺は、おれは――なんなのだろうか。


 なあ。左右田、狛枝。俺って何なんだろうな。どうしていれば、俺はお前等を助けられたんだろうな。
 皆は「左右田も狛枝も幸せだった」なんて言ってるけど、本当にそうだったのか? 俺にはさ、そう思えないんだよ。
 なあ、教えてくれよ。お前等は最期、どんな気持ちで死んだんだよ。
 狛枝。お前はプログラムで、現実で、左右田の中の「狛枝凪斗」として死んで、どんな気持ちだったんだよ。
 左右田。人格を殺して、肉体も殺して、どんな気持ちだったんだよ。
 俺には一生、判らないよ。

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