俺様は全力で走り、テスト用紙を踏み締めながら階段を駆け上がった。そして最上階まで行き、屋上への扉に手を掛ける。
 開かない。何度も取っ手を回すが、鍵が閉まっていて開かない。今まで見て回った教室には、鍵など掛かっていなかったのに。
 ――矢張り此処に、左右田が居るのか?

「――左右田、左右田よ。居るなら返事をしろ! そしてこの忌々しき封印を解き放ち、俺様の下へ来るが良い!」

 吼えるように呼び掛け、思い切り力を込めて扉を何度も叩いた。しかし、返事もなければ扉も開かない。
 ――居ないのか? いや、もう此処しかないのだ。此処に居る筈なのだ!

「左右田っ、左右田ぁっ! 俺様の言霊に応答しろ! 左右――うわっ!」

 扉をぶち壊そうと突進した刹那、いとも容易く扉が開き――俺様は倒れ込みそうになりながら、屋上へと足を踏み入れた。
 何とか踏ん張って体勢を整え、屋上を見渡す。空から雪のようにはらはらと紙が――恐らくテスト用紙が――無尽蔵に舞い落ちてきて、屋上の床も紙だらけだ。


 そして屋上の隅に――降り注ぐ月光に照らされながら、人が立っていた。
 何本もの黒い槍に全身を貫かれ、無理矢理立たされている――左右田和一が。
 左右田は真っ黒な学生服を身に纏い、黒縁眼鏡を掛けている。肩くらいの長さに切られた黒髪で、目が隠れる程に前髪も長く――今まで見たことのない、地味で暗い姿だった。

「――そ、左右田?」

 俺様が呼び掛けても、左右田は目を瞑ったままで、口を噤んで身動ぎもしない。
 まさか――死んでいるのか?
 いや、そんな筈がない。本当に死んでいるのなら、この世界自体が存在しない筈だ。

「左右田? 生きているのだろう?」

 声を掛けながら、左右田に近付いた。ぐしゃりぐしゃりと紙を踏み締め、俺様は左右田の直ぐ傍に歩み寄る。
 近くで見ると、左右田の様子がよく判った。
 月明かりの所為なのか、生きた人間とは思えないくらい青白い肌をしている。
 槍が生えているところからは黒い液体――明るい場所なら赤く見えたであろう液体――が垂れ流され、屋上の床や紙を黒く染めていた。歩み寄った所為で、俺様の靴にもその液体が付着する。
 粘着質で腥い、左右田の血液が。

「――そ、左右田?」

 口の端から血を垂らし、呼吸すらもしていない左右田の頬に手を這わせる。冷たい。まるで死体のようだ。

「左右田、生きているのだろう? 狸寝入りは止せ。俺様にその手は通じんぞ」

 少しでも温度を上げようと、左右田の身体を擦ってみた。けれど身体は冷たいままで、擦る度に傷口から血が溢れ出る。
 何で、何故目を覚ましてくれないのだ。

「――そ、左右田。起きるのだ、此処は幻の世界なのだ。貴様は生きている、貴様の肉体は今も生きているのだ。早く起きろ、ソニアも日向も待っているぞ」

 左右田を縫い付けている、忌々しい槍に手を伸ばす。これさえ抜けば、もしかしたら起きるかも知れないと思ったからだ。
 槍を握り締め、力を込めて引っ張った。だが、全く動こうとしない。これだけ力を込めているというのに、微動だにしない。
 何故だ――と呟いた時、俺様は気付いた。
 気付いてしまった。
 槍は黒などではなかった。小さな黒い字でびっしりと、何かが書き込まれていたから――黒く見えていただけだったのだ。
 それらは全て悪意に満ちていて、読むことすら躊躇う程の狂気に満ちた――罵詈雑言だった。


 ――根暗の引き籠もりが。
 ――機械しか友達が居ない癖に。
 ――カンニングを強要しやがって。
 ――誰も信じられない臆病者。
 ――自分を偽ってばかりだな。
 ――死ねよ。
 ――誰かに利用されるだけの存在。
 ――絶望しろ。
 ――お前なんて要らない。
 ――消えてしまえ。

「何だ、この――悍ましき呪詛は」

 俺様は震えた。未だ嘗て見たこともない、どす黒くて醜い悪意に――恐怖したのだ。
 この槍はきっと、左右田に深く深く突き刺さった、左右田を傷付けた人間の悪意だ。悪意の塊だ。
 それが何本も何十本も突き刺さり、左右田を此処に――この地獄に、縛り付けているのか。

「――左右田、目を覚ませ。貴様はこのような地獄に、居座って良い人間ではない」

 槍の隙間に手を伸ばし、左右田の身体を抱き締めた。相変わらず身体は死体のように冷たい。じわじわと、左右田の血が俺様の服を侵食していく。

「貴様がこれほどまでの闇を抱えていたとは、気付きもしなかった。すまない、気付いてやれなくて」

 労るように、あやすように、左右田の背中を優しく叩いた。

「もう良いのだ。もう、苦しまなくて良いのだ。俺様が傍に居る。槍を抜いてやる。もう槍に貫かれぬよう、俺様が守ってやる」

 ぎゅっと、力一杯に抱き締める。

「だから――起きてくれ、気付いてくれ。まだ『生きている』と、まだ『生きても良い』のだと気付いてくれ。皆、貴様を待っているのだぞ」

 頼む、頼むから起きてくれ。
 俺様はお前を、助けなければならないのだ。お前を死なせた、この俺様が。
 だから、だから――。


 ぴしりと、槍に罅が入った。
 一本だけではない。全ての槍に、小さな亀裂が走ったのだ。
 もしかして――。

「左右田、起きたのか? 左右田!」
「――五月蠅いなあ、ハムスターちゃんは」

 静かにしてくれよ――と言って、左右田はずっと閉じていた瞼と口を開いた。
 幻聴や幻視ではないことを確かめる為、左右田の顔を覗き込む。漆黒の瞳が此方を見詰め、鮫のような歯が口から見て取れた。
 嗚呼、確かに起きている。

「そ、左右田っ――左右田ぁっ!」

 俺様は歓喜のあまり、左右田を押し潰す勢いで抱き締めてしまった。左右田は呻き、離れろと言わんばかりに身動いだ。

「苦しい、退け」
「あ、ああ、すまん」

 慌てて離れると、左右田は小さく溜め息を吐き、俺様のことを睨むように見据える。

「何で起こした」

 まるで起こして欲しくなかったかのような左右田の言い方に、俺様は困却した。
 何で? 何故左右田は、そのようなことを言うのだ。

「何で、とは」
「俺は此処で、ずっと寝ていたいのだよ」

 いつもと少し違う口調でそう言い、左右田は俯いた。自分の身体から流れ出ている血を見て、はあ――と息を吐いている。
 ずっと寝ていたいだと? こんな――こんな地獄で?

「貴様は、このような場所に居るべきではない。此処は地獄だ、貴様はまだ――まだ、生きているのだぞ! 地獄へ堕ちるには、まだ早い!」

 怒鳴り付けるように訴えると、左右田は顔を上げて俺様を見詰め――歪な笑みを浮かべた。
 ぞわりと、背筋に不快な悪寒が疾る。

「地獄ぅっ? あははっ、丁度良いじゃあないか。僕みたいな絶望的に絶望している絶望野郎は――生きたまま、地獄へ堕ちるのがお似合いだよ!」

 そう言い切った瞬間、左右田はからからと哄笑した。絶句する俺様を余所に、狂ったように笑い続けて――ぴたりと笑いを止め、俺様を睨め付ける。

「その様子だと、何も思い出していないようだな。すると――他の奴等もか? 嗚呼、何て絶望的なのだろう! 私だけが絶望を思い出し、こうして今も絶望に絶望しているのか!」

 何て絶望的悲劇なんだ――と左右田は嗤い、俺様をずっと凝視している。
 今まで対峙してきたどの魔獣よりも野性的で、人間の知性を兼ね備えた――狂人の眼で。

「嗚呼、本当に残念です。何度も何度も御足労戴いたにも拘わらず――左右田和一は、絶望になってしまっていたのです! 何という悲劇なのでしょうか!」

 からからと、げらげらと、壊れた機械のように左右田が嗤っている。愉快そうに、絶望に満ちた表情で。

「可哀想な田中君。こうしてやって来たのに、全てが無駄骨になるなんて! 絶望的だね!」
「――無駄骨? 何をほざいている」

 俺様の発言により、左右田の嗤いがぴたりと止まった。何を言っているのだと言わんばかりに、俺様のことを睨んでいる。

「は? 無駄骨でしょ。僕は絶望しているんだよ? まさか田中君、この僕を起こすつもりじゃないよね?」
「その通りだ」

 ぴくりと、左右田の頬が引き攣った。

「は、はは――ははははっ! 馬鹿かお前、絶望を叩き起こしてどうするのだ。寧ろ殺すべきじゃあないのかね」

 そう言って左右田は、苛立った様子で舌打ちをした。
 ――矢張り可笑しい。何もかもが、可笑しい。
 もしかしたら左右田は――。

「――絶望し切っては、いないようだな」

 ふっと笑いながら俺様が呟くと、左右田はまた舌打ちをした。

「ずっと此処に居る? 地獄へ堕ちるべき? 貴様が絶望というのなら、絶望を広げる為にさっさと起きるのではないのか? おまけに、自分を殺すべきなどと言うとは――左右田よ、貴様の真意を問う」

 演技には見えなかった。
 なので恐らく、絶望しているのは事実なのだろう。
 だが、完全には絶望していない筈だ。それを証拠に、奴の眼は――まだ、完全に狂ってはいない。
 左右田の答えを待つ為、俺様は沈黙し続ける。左右田は暫く無言で俺様を睨め付けていたが――観念したのか、降参という風に自由な両手首を挙げた。

「ああもう、これだから田中眼蛇夢は嫌いです。いや――大嫌いだ! 学園の頃から嫌いだ、絶望してからも嫌いだ! 修学旅行中も嫌いだった!」

 不満を爆発させるように、左右田が勇ましく吼える。

「そうだよ、俺は完全に堕ちてはいない。けど堕ちそうなのだよ! 絶望したくてしたくて仕方がない! 起きたらきっと、俺は――俺は、皆に迷惑、掛けちまう。だから起きたく、ねえんだよぉっ。死なせて、くれよぉっ」

 いつもの口調に戻ったかと思うと、左右田はぼろぼろと涙を零して鼻を啜り出した。その様子は正しく、俺様の知っている左右田そのもので――。

「――阿呆か貴様」

 つい、本音が出てしまった。
 いや、この際ぶち撒けてしまおう。この馬鹿には、本音をぶつけた方が早そうだ。

「皆に迷惑? 笑止! 貴様如き雑種風情が掛ける迷惑など、大したことはない。絶望して暴れようが、絶望を振り撒こうが、この俺様が完膚無きまでに捩じ伏せてくれるわ!」

 高らかにそう宣言してやると、左右田はぽかんと口を開け――次の瞬間には吹き出し、けらけらと笑い出した。

「ははっ、あはははははっ! 言ったな? 言ったな田中ぁっ! 嗚呼、やっぱりお前は最高だ。最高に絶望的な大馬鹿野郎だ! でも――お前と一緒なら、何とかなる気がしてきたわ」

 申し訳なさそうに眉を顰めて、涙を流しながら左右田は笑っていた。あの時と同じ表情で笑うものだから、俺様の胸が締め付けられる。

「――何とかなる気ではない。何とかなるのだ」

 胸の苦しさを誤魔化すように、不機嫌さを剥き出しにして述べてやれば、左右田は苦笑いを浮かべて、ごめんごめん――と謝った。

「ふっ、判れば良い。さあ往くぞ、皆が待つ現世へ」

 そっと手を伸ばし、左右田の身体を抱き締める。もう身体は冷たくなかった。
 ぴしりぴしりと、槍の亀裂が広がっていく。俺様が強く抱き締める度に、罅は段々大きくなっていった。そして――。

「――田中、有り難うな」

 槍は、全て砕け散った。

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