燃ゆる季節に佇んだまま見送った言葉


 わたしの高校生活が終わってしまう。そんな実感が湧いたのは、卒業式の前日になってからだった。音ノ木坂学院を卒業する、そのことに、誰一人いない夕焼け色の教室の中で、わたしは今更気がついた。気がついたときには何もかももう遅い、というのは人生の中でままあることだけれど、まさか学び舎を出ることを実感するまでにこんなに時間を要するとは思ってもいなかった。
 卒業式の予行練習を終えて、はじめて「ああ、わたし卒業するんだ」と思った。それで、ついにお別れの日がきてしまうんだ――と気がつく。どうせ最後になってしまうのだと、毎日口の中でこっそり転がしていた名前をわたしの外へ放り出してみた。

「絵里ちゃん」

 言い終わって三秒待ってみても、当然返ってくる声などない。けれどそれで良かった。あの子に向かって言ってみる勇気なんて持ち合わせていなかったから。
 結局最後まで呼べなかったな。ずっと見ていたあの子のことを下の名前で呼べるような、そんな関係を望んでいた。絵里ちゃんと呼んだら、「何?」と返ってくるような、違和感のない関係がほしかった。それを実現するために何かをしたわけではないし、ただ数回話をしただけなのだが、どことなく残念だった。

「呼んだかしら?」
「……! あ、絢瀬さん……」

 絵里ちゃんはわたしをその瞳で捉えて、にっと笑っている。慌てて立ち上がった勢いで倒れた椅子を、わたしはがちがちに緊張しながら直した。

「下の名前では呼んでくれないのかしら。寂しいわね」

 絵里ちゃんが流れるような動作で椅子を引き、わたしの目の前に座る。にこっと笑う絵里ちゃんは夕陽を受けて輝いていて、まぶしい。金の髪が絵里ちゃんの動きに合わせて揺れるのを見ていた。

「い、いまの、聞いてた……よね……?」
「あら、ダメだった?」
「そうじゃ、ないんだけど……」

 恥ずかしい。わたしなんかが絵里ちゃんを馴れ馴れしく呼ぶなんて、許されない気がしていたから。だって絵里ちゃんは、きらきらのスクールアイドルだ。授業中の絵里ちゃんも大好きだったけれど、ステージの上の絵里ちゃんもとても好きだった。
 ステージで笑う絵里ちゃんは、わたしには到底表せないくらいに眩しく輝いていた。はじめてアイドルの絵里ちゃんを見たとき、これが絵里ちゃんの世界なんだと思った。そこにわたしなんかが入り込めるわけがない。だからこっそり、絵里ちゃんを見ていた。

「私はね」
「うん……?」
「あなたとも仲良くなっておきたかったなあって、そう、思っているの」
「えっ……」
「いつも見ていてくれたわよね。ステージに上がって、あなたがどこにいるのか探すのが、密かに楽しみだったの」
「………」

 言いながら、絵里ちゃんは懐かしむような顔をしている。絵里ちゃんの記憶の中にわたしがいる、それはとても恐れ多いことだ。

「だから今日、どうしても言おうと思っていたんだけど……」
「うん……」
「今までありがとう。あなたの応援は、間違いなく私の力になっていたわ」
「えっと……」

 わたしも、言わなくちゃ。絵里ちゃんのステージ、いつも楽しみにしていました。絵里ちゃんが頑張っているのを見て、わたしも頑張ろうって思えました。絵里ちゃんって、一度呼んでみたかったです。――言わなくちゃ。
 言わなくちゃ、と思うほど、喉がセメントで固まったみたいに硬くなって声が出ない。きっと明日の絵里ちゃんは、わたしなんかに構ってくれる暇はない。だから今言わないといけないのに。

「……えっ、と……あのね……」
「ええ」
「……卒業、しても、元気でね」

 違う、言いたいことはそうじゃない。元気でね、とも思うけれど、もっと感謝を伝えたいのに。

「……あなたもね」
「………」
「それじゃあ、明日の準備がまだ残っているから行くわね。また明日会いましょう」
「う、うん……」

 じゃあね、とわたしが手を振ったときには、もう絵里ちゃんは教室を後にしていた。
 結局、言えなかった。最後の最後まで、わたしは絵里ちゃんから色々なものをもらったというのに、その感謝さえ伝えられない。自分が情けなくて、少し、泣きそうだ。
 夕焼けが照りつける教室で、もう一度ひとりきりになったわたし。まるで燃えているように橙に染まった空間で、絵里ちゃんを見送るしかできなかったわたし。言いたいことを飲み込んで、その言葉たちが胸につっかえて苦しくなるわたし。
 絵里ちゃんを追いかけて、今からでも伝えようと思ったけれど、絵里ちゃんは忙しいからきっと迷惑になる。そんな風に何でも足踏みをしてしまう自分が、わたしは嫌で仕方がない。チャンスは今日しかないのに、わたしはそれに飛びつけないでいるのだ。
 別れの季節。何もせず突っ立ったままで、わたしは最後の日を迎えようとしている。届かないと知っていながら、心の中でだけ、絵里ちゃんへ語りかけている。そんなわたしが滑稽だなあと思っていたら、とうとう夕焼けが薄れ始めて、教室の隅に暗闇が現れはじめた。
 ――明日は、卒業式。


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