空気が少しずつざわめき始める時間。カーテンの隙間から柔らかな、しかし鈍く刺すような光が射し込む頃、ナマエはぼんやりと意識を取り戻し始めた。寝起きの微睡みにまだ沈んでいたい心地で、ふわふわ漂っているような感覚だけがそこにある。
 うっすらと目を開けると、楽がすぐ目の前で眠っている。ぼんやりとした頭で、今日も楽さんはかっこいいな、などと思いながら、再び重い瞼を下ろした。もう少し、眠っていたい。
 そっと意識の糸を手繰り寄せはじめたナマエは、遠くで何かが鳴っているような感覚を掴んだ。聞き覚えのある音と、それに合わせて細かく振動するような音。ナマエの意識の裏に浮かんだのは、手によく馴染む四角い板状のものだった。
 電話、鳴ってる――ナマエは目を閉じたまま、手探りでサイドテーブルの上の携帯電話を捜索する。指先が硬質なそれに触れ、そこから細やかな震えが伝わって来ると、ナマエはそれを手に取って耳許へ寄せた。
 親指を画面に滑らせるのが、着信への応答の合図だ。何てことのない自然な動作ゆえに、ナマエは画面の表示を確認しなかった。
 確認しなかったのが、いけなかった。

「……もしもし」
「もしも、え、ナマエさん?」
「へ……」

 馴染みのある声。直に聞くことも、テレビを介して聞くこともある、アルトな声質。
 九条天。TRIGGERのセンター。ナマエの恋人である楽の、仕事仲間であり良き友人でもある。
 彼の連絡先自体はナマエも知っているし、彼から連絡をもらうこともなくはないのだが。朝もまだ早い時間に、なぜ彼から。
 ナマエは恐る恐る、耳許に当てた携帯を離して画面を注視した。ナマエの携帯は、通話中に耳許から離れるとバックライトが点灯する仕様で、ナマエの動作の通りに画面を明るくしてみせた。
 通話中の画面、相手の登録名は『天』。ナマエの頭は、それだけで瞬間的に覚醒する。ナマエが自分の携帯に登録していた彼の名前は、『九条くん』のはずだ。というかそもそも、機種は自分のものと同じだが、携帯に付けている保護カバーが自分のそれとは色が違う。よくよく見てみれば、自分の携帯はサイドテーブルの上に置きっ放しだ。

「っあ、ま、ままま間違えた……!」
「は?」

 電話の向こうから、状況についていけてなさそうな天の声が聞こえる。
 間違えた。楽の携帯電話を取ってしまった。寝ぼけていたせいにしようにも恥ずかしい。途端にナマエの顔には熱が集まってきて、焦って携帯を取り落としそうになる。
 朝からやらかしたとか、着信音が同じだと紛らわしいだとか、様々な思いがナマエの中を駆け巡るが、とりあえず天からの電話に応答しなくては。

「ご、ごめんね九条くん、間違えて出ちゃっただけで、い、今代わるから……!」
「……普通間違える? まあいいよ。楽に代わって」
「うっ……は、はい……」

 普通間違えるか、ナマエも自分自身に対して本当にそう思う。他人に指摘されるとますます恥ずかしくなって、顔の赤みが引くには時間がかかりそうだ。
 ナマエは耳から携帯を離すと、隣で眠っている楽の身体を遠慮がちに揺さぶった。眉間に皺を寄せたあと、楽はゆっくりと伏せられていた瞼を上げる。

「楽さん、楽さん、起きてください」
「ん……、おはよ、ナマエ」
「九条くんから電話なんです、楽さん」
「天から? ……あとで折り返す」
「つ、繋がってるんです……」
「繋がってる? ていうかナマエ、顔赤くねえか?」
「大丈夫です……」

 状況が読めていない楽に、ナマエは携帯を手渡す。楽がそのままそれを耳に当て、天と話し始めた。恐らくは仕事のことだろう。横で聞きながら、ナマエは顔から火が出そうだった。

「は? ナマエに?」

 突然楽が声を上げたものだから、ナマエはびっくりして思わず楽を見る。楽もナマエのことを見ながら、天と話を続けた。
 九条くん、楽さんに一体何を。ナマエの頭の中はそれでいっぱいだ。何だろう、これは。処刑を待つ囚人の気持ちか。大袈裟なことはナマエが一番よく分かっている。

「……分かった。じゃあ後でな」

 楽が通話を終了する。何となく怪訝そうな顔をしている気がするのは気のせいだろうか。

「天が、『朝からごちそうさま。程々に』だと。何の話だ?」
「そ、それは……」

 ナマエの脳裏に、天のあの何とも言えない笑みが浮かぶ。面白がっている時の顔だ。
 というか、電話が繋がりっぱなしだったということは、楽を起こしているところも天には丸聞こえだったのではないか――思い至ってしまったことに、ナマエは再び赤面した。恥ずかしい。これはあまりにも恥ずかしい。恥の上塗りである。

「やっぱりナマエ、顔赤くねえか? 大丈夫か?」
「だ、大丈夫……じゃないかもしれなくて穴があったら入りたいです……」

 楽は頭上にクエスチョンマークを浮かべる。これは、どこから説明したらいいだろうか。説明したら呆れられそうで、居た堪れない気持ちだ。
 結局朝食の時に事の顛末を話して、楽に笑われながら頭を撫でられたり「かわいい」なんて言葉を頂戴したりはするのだが、それはまた別の話である。

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