人の名前というものは意識しなければ案外知り得る機会がない、と最近になってよく思う。芸能人ともなればそこら中でよく目にするけれど、ふつうの人は、学校や会社を出たら名前を晒して歩くなんてしないのだ。
 だから、芸能界に身を置く私の名はそれなりに知られているけれど、私が名前を知っている人というのは、仕事関係を抜きにしてしまえばそんなに多くない。それが、どんなによく顔を合わせる人であっても。

「あの」
「ん、どうしたの?」

 よくよく考えてみると、ほとんど毎日会っているその人の名前すら、単なる音の構成でしか知らなかった。彼女の名前を五十音表で示すことはできても、どういう字を書くのかは知らないのだ。なまえ――ツクモプロで彼女をそう呼ぶ人間のほとんどがそうだろう。彼女の友人の了さんは、どうだかわからないけれども。
 知り合ってけっこう経つというのに、今更そんなことを気にしていると彼女が知ったら、笑うだろうか。呼ぶのに支障はなかったから、こうして今日まできてしまった。

「……なまえさんって、どういう字を書くんですか」

 聞いてから、もっと予防線を張ってから聞けばよかったと後悔する。聞くタイミングを逃していてとか、前々から気になっていたんですけどとか、「今更」と言われてしまわないような言い訳を頭の中でこねくり回す。
 知らなくたって不都合のないことを聞く行為に、もしかしたら理由は要らないのかもしれないけれど。そう断言できないような微妙な距離感をあけて私たちは向き合っていた。
 喉元まで出かかっていた免罪符に被せるように、彼女が口を開く。言ってなかったっけ、そんなことを呟く唇を眺めて、答えを待った。聞いてませんよ。そもそもあなたの名前だって、了さんから聞いて知ったんですから。

「……なまえ」

 熟語を例に出して説明してくれたなまえさんは、こういう字、と携帯を差し出す。画面には、メモ帳アプリに打ち込まれたふたつの漢字が映っていた。なまえという、言葉通りの字。
 説明だけでも漢字はわかったのだけれど、文字で見てみると自分の中で曖昧な存在だった彼女が急に実体を帯びたような感覚がする。なまえさん、なまえさん。いつもと同じ発音、なのに感触が違って、不思議だ。

「なまえさん」
「うん」
「……きれいな、名前ですね」

 え、なんて気の抜けた声。名前を褒めたのであって、彼女を褒めたわけではないけれど。あなたの名前、好きです――なんて言ったら、妙な勘違いをされてしまうかもしれない。
 想像して笑いがこぼれそうになったとき、唐突に部屋の入口の扉が開いた。三分の一程度を開けたドアの隙間から、了さんが顔を覗かせている。

「巳波、そろそろ出るよ」
「わかりました。では、これから仕事なので」
「うん、頑張って。私もそろそろ帰ろ」

 バッグを手にしたなまえさんは素早く立ち上がって、じゃあね、と片手を振った。ああ待って、まだ私、お礼を言っていない。

「なまえさん、あの」
「うん?」
「教えてくださって、ありがとうございます」

 ものすごく些細なことだけれど、でもずっと知りたくて。どうやって切り出そうか、何を言ったら今更だと思われてしまわないか。考えていたすべてのことが、「どういたしまして」と笑ったなまえさんの細められた目元のおかげで報われたような、気がした。


* 夢主の名前の音(読み)しか知らなかった巳波が名前の漢字を聞く話、なのですが、ツイッターログに使っている名前変換の数の都合上、セリフが不自然になってます。シリーズとしてまとめ直す際にはそれぞれに名前変換をつける予定です。すみません。
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