ろくでもない気持ちだと知っていた。
 好き。
 それ以上でも以下でもない、ただの恋だった。
 音ノ木坂に入って、スクールアイドルとしての活動を始めて、なまえと出会ったのはいつの頃だろう。もうその時の詳しいことなんて覚えていないけれど、ふと気がついた時にはもう、なまえを好きになっていたことははっきりしている。
 でも。私は女で、なまえも同じ、女だった。
 そのことは私の心を沈ませた。同性同士が好き合うことに偏見があったわけじゃない。けれど、この気持ちは絶対に伝えまいと思った。なまえを困らせることも、私の行動のせいでなまえが私たちの活動から離れることも、私の望むところではない。――本当は、それは単なる言い訳に過ぎなくて、なまえに拒絶されることがこわかっただけ。
 ろくでもない気持ちだと、知っていた。知りながら、捨てるどころか丁寧に暖め続けて、どうして取り返しのつかないところまで育ててしまったのだろう。

「えっ、降ってきた……。雨とか聞いてない」
「夕方は雨だって、言ってたじゃない。天気予報見てないの?」
「今朝は寝坊しちゃって。とにかく急いで家を出たから」
「ふーん。なまえが寝坊なんて珍しいわね」
「たまにはするよ」

 どんよりと曇った空から落ちる雫を見ながら、なまえは笑った。「ちょっと、早く窓閉めて」そう言うとなまえは「はぁい」と答えて窓を閉める。カーテンを揺らしていた湿った風が硝子に遮られて、ぴたりと止んだ。
 防音壁に囲まれた音楽室。この部屋で、私となまえはよく放課後に顔を合わせる。海未が書いた詞に私が曲を載せていく工程に、彼女は興味があるらしかった。なまえはあくまで部の手伝いという立場ではあるけれど、楽曲の受け取り手であるファンの視点から意見が貰えるのは私にとっても有難かった。
 有難いのはそれだけではなかった。この時だけは、私となまえは正真正銘の二人きりだから。二人きりだからといって何をするわけでもない、本当にただ曲作りと意見交換をするだけなのだけれど、それでも、二人だけで音楽室を占有するこの時間は、代えがたいものだった。少なくとも、私にとっては。
 始めるわよ、となまえに声をかける。まだタイトルの決まっていない歌詞の上には、恋に恋する女の子の煌めくこころが踊っていた。

「………」

 とりあえず、頭から通して弾きながらメロディを模索する。
 恋に恋する女の子なら、いつか現れる運命の人のことを想像して、心を弾ませたりするのかもしれない。白馬の王子様なんて今時ありえないけど、いつかそんな人が迎えにきてくれることを想像して、気分はお姫様のたまごになる。時々高音を跳ねさせて、きらきらしたフレーズを入れてみるのもいいかも。恋は楽しいもの。楽しくて、幸福で、好きな人のことを考えるたびにこの人と出会えて良かったと感謝する。
 けれど私は知っている。恋をしたって全然楽しくなんかないこと。私はなまえのことを考えると、心臓の辺りが張り詰めて、息がうまくできなくなる。明日も変わらずにいられるだろうか? そんな風に不安になって、意味もなくため息を吐いてしまったりする。心は跳ねるより、深く暗い谷底へ落ちて、そして粉々に砕け散る幻を見る。
 右手は乙女の憧れ。左手は私の現実。踊るメロディと沈んだ旋律とがアンバランスに響きあって、気持ち悪い。気持ち悪いのに手を止められなくて、願いを弾いては駄々をこねる子供のように暴れる。それを止めたのは、なまえの一声だった。

「真姫ちゃん、ストップ」
「……、なまえ……」
「ねえ、今日は切り上げて帰らない? 雨がひどくなる前に」
「……そうね。そうしましょう」


 音楽室を閉めて外に出ると、なまえは「けっこう降ってるや、ついてないなあ」と笑った。朝の天気予報を見る余裕が無かったというなまえは、傘を持っていないらしい。折り畳みの傘くらい、常に入れておけばいいのに。呆れた私の言葉は、苦笑いで流された。フン、鼻を鳴らしながら傘を開く。

「……途中まで一緒よね。入って」
「え、いいの?」
「だって、濡れたら風邪引くじゃない。ほら早く」
「じゃあ、お邪魔します」

 なまえは遠慮がちに私の傘の中へ入ってきた。「ありがとう」、そう言って笑ったなまえの肩は、左側が雨にさらされている。

「……もう少し寄ったら?」
「大丈夫。ありがとう」
「別に、いいわよ」

 言いながら、目線は下を向く。私の靴のすぐ近くに、なまえのローファーがあった。私と同じ速さで歩むそれが、私には少しうれしかった。もう少し、近くに寄ろう。なまえの左肩は、ほんの僅かだけれど雨避けを得た。

「今日、調子悪そうだったね。いつもと違う音鳴らしてた」
「そんなことないわよ。ただ頭に浮かんだ通りに弾いてたら、ああなっただけ」
「……そうなんだ。何か悩みでもあるのかなって思って」
「………」

 あるわよ、悩みなら。なまえには絶対言わないけど。飲み込んだ言葉の行き先はどこだろう。私の気持ちの行き先も、どこだろう。
 なまえはいつも、私のことによく気がついてくれる。その度、もしかしたら私の気持ちを知っているんじゃないかと思うのだ。気がついていて、だけど私と同じように言葉にするのをためらっているだけなんじゃないかって。そうであって欲しいと思うし、そうでなければいいとも思う。私の気持ちは、きっと言葉にすれば終わってしまうから。
 なまえは、私の横を歩きながら口を開く。なまえはたまに妙に鋭いことを言うから、少し嫌な予感がした。

「……たとえば、恋の悩みとか。真姫ちゃんって、誰かを好きになっても伝えないって決めちゃったりしそうじゃん」

 やめて。

「スクールアイドルだし、恋人は作らないって線引きはたしかに必要だなって、私も思うけど。でも、誰かを好きになることは悪いことじゃないから」

 やめて。

「だから、もし真姫ちゃんが悩んでるなら、話くらいなら聞けるから。話してほしいな、って思うんだ」

 やめて!
 傘が私の手を離れていく。ゆっくりと傘が地面に落ちて、私も、なまえも、雨空の下に身体をさらすことになった。
 顔に伝うものは、冷たい雨のはず、だ。妙に生暖かくて、それは人の、いや、私の体温に似ているなんて、あるはずがない。目頭に熱が集まっているなんて認めない、認めたくない。息がうまくできないのも、唇を噛んだのも――

「真姫ちゃん?」

 泣いてるの、となまえは問う。下がった眉が心配だと訴えていて、けれどその問いには答えることはできなかった。その頃にはもう、別の言葉が喉を通り過ぎていた。

「……話したら」
「………」
「話したら、なまえは私に何をしてくれるの!?」

 雨が全身を打つ。なまえは、返答に困ってただ私を見ていた。それを見て、私が気持ちを打ち明けたところで、なまえは受け入れてくれることはないのだと気づく。
 そう、私たちは友達で、もっと言うとスクールアイドルとそのお手伝いで、そんなこと初めからわかってたじゃない。わかっていたのに、こんなろくでもない気持ちを、どうして宝物みたいに大事にしたの。花なんて咲かないと知っていたのに、芽吹いて、育って、根を張って。バカみたい。

「真姫ちゃん……」
「さわらないで」

 触れられること、あんなにうれしかったのに、今はもうそうされたくない。うそよ。本当は、手を繋いで歩いてみたかった。でもその手を、たった今払ってしまった。
 ごめんなさい。それだけ言って走り出した私を、なまえはついに追いかけることはなかった。
 傘、置いてきちゃった。冷静になってから放り投げた傘のことを思い出す。だけどいいか。あの傘、なまえにあげるわ。どこで買ったのかも覚えていなくて、特別なものでもなんでもないけれど。手を払い除けた時、悲しそうな顔をしてたから。せめて雨に濡れることなく、家まで帰ってほしかった。
 だけどなまえは律儀だから、きっと次に顔を合わせる時、お礼と一緒に傘を渡してくるんだろう。その時、私はどんな顔をしてなまえと話せばいい? 何も聞かれたくない、本当は聞いてほしい、そんな考えもなまえには悟られてしまうかもしれない。
 変なの、言ったら終わりだから言わないと決めていたことを言ってしまったのも、それなのにまだなまえのことを考えているのも、本当に変。自分でも知らないうちに、私、変わってしまった。そうでなかったら、涙を隠してくれるからなんて理由で雨に感謝なんて、しないもの。足元のばしゃばしゃと鳴るのに紛れて、こっそりと、嗚咽を漏らした。
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