ここ最近、なまえさんはあまりよく眠れていないらしい。一緒のタイミングでベッドに入りはするけれど、寝返りの回数が多かったり、気がつくとベッドを抜け出していたり、朝も先に起きて朝食の支度をしている。普段から夜中に目が覚めることはあるようだけれど、朝はだいたい同じ時間に起きて、ほんのわずかに早く起きた方が相手の寝顔を眺めるのがほとんどだ。それがこの一週間、なまえさんは夜中も朝もベッドにいないのだ。
 日付が変わって三時間。時計がいうには時刻は真夜中もいいところで、それを裏づけるように外はまだ真っ暗だ。そんな時間だというのに、いつの間にか空っぽになっていた私の隣は、すっかり温もりを無くしている。
 心当たりは、ちょうど一週間前に「結婚しませんか」と聞いたこと。指輪はとりあえず受け取ってもらえたけれど、なまえさんはまだそれを嵌めてくれていない。“返事は少し待って”と言われて、それきりになっている。
 正直なところ、即答で断られると思っていたから意外だった。二人でいる時にもずっと考え込んでいて、なまえさんと私との会話や触れ合いは目に見えて減った。
 それは寂しくはあるのだけれど、あのなまえさんが他人と一緒になることを真剣に考えているのは、どうにもうれしくて仕方なかった。あの人が誰かと生きるのを苦手としていることなんて、恋人になって三年もすれば自然とわかる。五年も傍にいれば、なまえさんより彼女のことに詳しくなっていたりもする。結婚はあの人にとって、恐らく何よりも越え難いハードルだ。
 不器用で、臆病で、けれど真面目で優しくて。そんなあの人が結婚を真面目に考えてくれるのは、相手が私だから。なまえさんが、私のことを本気で好きだからだ。これはきっと、いや確実に、自惚れなんかではないだろう。


 寝室の扉を開けてリビングに出る。リビングの明かりはついていなかった。
「なまえさん」
 窓を開け放して、揺れるカーテンの向こう側、ベランダになまえさんは立っていた。外を眺めていたらしいなまえさんは、私の声に振り返る。冷えますよ、その呼びかけには、ただ頷くだけだった。

「……起こしちゃったかな、ごめんね」
「いえ。考え事ですか?」

 わかりきった問いになまえさんはうん、と頷いた。私もベランダに出て、なまえさんの隣に立つ。
 さすがに夜深い時間だからだろう、車の通りすら無くて、周りの家の明かりもほとんどが消えている。誰の気配も無い、月と星の光が静かにそそぐ晴れた夜。ひゅっと頬を滑る風がほんの少し尖った冷たさを孕んでいて、まるで二人だけでこの夜を独占しているみたいだった。

「この前の、……結婚の、話だけど」

 しばらくの沈黙の後、なまえさんはそう切り出した。落ち着いた、静かな声。けれどこれは、色々なことを考えて、不安を隠すために落ち着いた振りをしている時の話し方だ。

「巳波くんも知ってるかもしれないけど、私、結婚にはあまり向いてないと思うから」
「……ええ」
「色々と上手くできないだろうし、間違えたり失敗もすると思う。傷つけたり、嫌な思いをさせることも多分、あるよ。それでも巳波くんは、私でいいの?」

 ベランダの手すりをきゅっと握って、なまえさんは私を見上げた。夜の暗がりが横たわる瞳の中、私が穏やかに笑っている。
 ――出会った時、まさか未来でこんな会話をするようになるなんて、想像もしなかった。きっとなまえさんも同じはずだ。
 時が経てば人は変わる。私もなまえさんも例外なく変わっていって、けれどずっと隣り合っていた。これから先のことを思い描けるようになったのは、それを叶えたくなったのは、一緒にいてくれた人との未来だからなんだろう。私も、なまえさんも。

「……確かになまえさんはとんでもなく回りくどいですし、その上不器用で、やきもきさせられることがしょっちゅうありますけど」
「うん」
「これまで一緒にいて、あなたの良いところも、欠点も知ったつもりです。知って、理解した上で、私の隣にいるのはなまえさんがいい。今更離れる選択肢なんてありません」
「私を選んだら、後悔するかもしれないよ」
「しません。するなら、はじめからこんな話をしたりはしませんよ。あなたと一緒になる覚悟は、もうできていますから」
「………」

 わずかに目を見開いて、その後、なまえさんは部屋着のポケットから小さな箱を取り出した。開いたそこには指輪が収まっていて、きらり、夜のわずかな光を反射して煌めく。一週間前、私が贈った指輪。

「……怒らないで、聞いてね」
「はい」
「怖くて。あれからずっと、色々考えてたんだけど……」

 ああ、だめかもしれない。相槌を打って続きを促しながら、そんなことを思う。覚悟はできていると言った通り、一度で諦めるなんてことはないけれど、断られる可能性の方が高いと思ってはいたけれど。別に私は好き好んで振られたがる嗜好を持ち合わせているわけでもない。少しの期待くらいはする。受け取ってほしくて渡したものを返されたら、傷つく心があったって良いだろう。

「今日まで一緒にいられたのは、たまたま上手くいっただけの奇跡かもしれない。明日にはその奇跡はもう終わってるかもって、どうしても心のどこかで、そう思う時があって」
「……ええ。わかってます」
「結婚って、ずっと一緒にいようって約束だから。そんなこと思ってるのにしたらだめだと思うし、巳波くんにも失礼だし、さっき言った通り、上手くできなくて後悔させることになるかもしれない。考えれば考えるほど、私には難しいんじゃないかって」

 でもね、なまえさんはそう続ける。

「……巳波くんと、ずっと一緒に、いたい。終わらせないように、後悔させないように、きちんと努力をしたい。だから、ね」

 私の胸の前、指輪の箱を差し出して、なまえさんは真っ直ぐに私の目を見た。下げられた眉が珍しい。口が開かれると同時、なまえさんが息を吸うのがやけに大きく聞こえた。

「しようか、結婚」
「え……」
「指輪、嵌めてくれる?」

 ――この人はどれだけ悩んで、葛藤して、この結論を選んだのだろう。意外と怖がりなところがあるから、心を決めるにもそれを伝えるにも勇気が必要だったはずだ。笑ってみせているけれど、瞳はいつもより潤んでいる。そんな姿を見せられたら、もう愛おしくてたまらない。後悔なんてしませんよ。だって私には、あなたしかいないんですから。
 小さな箱から銀の輪を抜き取って、そっとなまえさんの左手を掬い上げる。細い指先から関節をふたつ通って、指輪は綺麗に薬指に収まった。こっそり測った通りサイズはぴったりで、何度も確かめはしたけれど、きちんと嵌ったのを見てようやく安心できた気がする。

「なまえさん。私と、結婚してください」
「……はい。よろしくお願いします」

 何だか夢を見ているみたいだ。けれどこれは疑いようのない現実で、今まで過ごしてきた日々がそれを証明している。一緒になることは決してゴールではなくて、ひとつの区切り、始まりに過ぎないのだけれど、どうしても胸は熱くなって。今すぐになまえさんをぎゅっと抱きしめたくて仕方がない。線が細くて頼りなくて、引き寄せれば簡単に腕の中に収まったなまえさんの身体を、力いっぱいに、けれど丁寧に抱きしめる。もう限界だった。首筋に顔を埋めると、滲み出た涙がなまえさんのシャツを濡らす。

「み、巳波くん。泣かないで」
「……うれし涙ですから、いいんです」

 涙にでもして外に出してしまわないと、どうにかなりそうで。やがてゆっくりと頭を撫でられて、少しずつ目にさした熱が引いていく。

「……なまえさん。私と出会ってくださって、ありがとうございます」

 顔を上げてそう告げると、なまえさんはきゅっと目を細めて微笑んだ。初めの頃は見せてくれなかった、本音で話してくれる時の表情。あなたももう知っているでしょうけど、私はあなたのその顔、大好きなんですよ。

「うん。私もね、巳波くんに会えてよかった。ありがとう」
「ふふ。……中に、入りましょうか」

 夜風が少し肌寒い。何時間風に当たっていたのか、すっかり身体を冷やしたなまえさんは「うん」と頷いて。
 しっかりと繋いだなまえさんの手に嵌められた指輪の感触が慣れなくて、けれどどうしようもなくうれしくて。
 ――ねえ、私、あなたのことを好きになって、本当に良かった。


* マリマリおめでとうで書いたやつです
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