私には叶えたい願いなど存在しない。そんなもので空っぽの己を埋めることはできないと知っているからだ。願望も欲求も私は抱かない。ただ、人の営みの行き着く先を見届けるだけだ。
 そんなふうに各所を飛び回って、そろそろ千年になるだろうか。
 ここ十数年ほど定住しているエテルノの地は、今日も昼間の陽射しが刺すように降り注ぐ。実のところ私は火傷を負ったりはしないのだけれど、ヒトに擬態するためには、外套は必須であった。外套なしで出歩こうものなら、すれ違うエテルノ人全員の注目を浴びてしまう。そして、なぜ肌が焼けないのか、質問責めに遭うだろう。
 買い物に出るために外套に袖を通した時、長らく姿見の前を陣取っていたホープがくるりと振り返った。戦争の終わり際に砂漠の真ん中で拾った子供は、十数年のうちに、膝を折らなくとも目線が合うまでに大きくなっていた。

「ねえカース。どう? 変じゃないかな?」
「ええ。とてもよく似合っていますけれど、そんなにおめかししてどこに行くんですか? ホープ」

 シャツの襟元を整えながら、ホープが問うた。しっかり留められたカフスから覗くのは、今はすっかり男性らしくなった手だ。
 真っ白の布地が光をよく跳ね返す。今日着ているシャツは新品だろうか。そういえばホープは前の晩、靴をよく磨いていた様子だった。私が話しかけても気づかないほど、熱心に。
 思い出しながらホープの返答を待っていると、順に話すね、と切り出される。うれしそうに、ホープは話し始めた。

「この前僕が助けた女の子の話、覚えてる?」
「転んだ拍子に足を切ってしまった子を、家まで送って手当てした話でしょう。君の日課の、一日一善でしたね」
「そう! 実はね、その子……ナマエちゃんって言うんだけど、お礼をしたいからって誘われたんだ」
「そうですか。随分とうれしそうですね。その子に、一目惚れでもしましたか?」
「えっ……」

 石のように固まってしまったホープに、ふふ、と笑いかける。きっと図星なのだろう、わかりやすい。
 目を点にしていたホープは、しばらくすると頬を急に赤くした。まるで林檎の成長を早回しで見ているようで、すこし面白い。あっという間に熟れた果実のようになった。

「そっ、そんなんじゃないよっ!」
「いいんですよ。ホープもお年頃ですからね」
「うう……。本当に違うんだってば」
「本当に? 素直なのが君のいちばんの良いところでしょう?」

 まだ赤い頬で視線を彷徨わせるホープは、はあ、とため息をつく。カースには何でもお見通しかあ、という呟きは何度も聞いたことがあるけれど、今回はまさに堪忍したといった調子だ。

「……。泣いてたから、放っておけなくて。助けてあげたあと、やっと泣き止んでお礼を言ってくれたんだ。その、笑顔がすごくかわいくて……」
「ふふ。まさか君の口から恋の話が聞けるとは」
「もー、からかわないでよ! 恥ずかしい!」
「からかってなんていませんよ。進展したら、また聞かせてくださいね」

 頬を膨れさせたホープの頭を撫でる。ふわふわの髪は、触れると案外心地いい。

「カ、カース……」
「では私は買い物に行ってきます。ホープ、遅れないよう気をつけるんですよ。怪我や事故にも」
「うん。カースも気をつけてね。行ってらっしゃい」
「頑張ってくださいね。では」
「行ってらっしゃい」

 家の戸を閉じて、ほ、とため息をつく。
 本当にあの子は、瞬きをする間にいつの間にか大きくなった。私に手を引かれるまま歩いていたあの頃とは違う。私の目の届かないところへ行き、私の読めないことを考え、私の知らない相手と恋をする。当たり前のことだから寂しさはない。そういう人の営みを見守ることが、私の務めだ。
 私には叶えたい願いなど存在しなかった。願望も欲求も抱かず、ただこの世界の隅から隅を飛び回り、エテルノで王族の子供を保護して育てた。それはただ単に、仕事としてのはずだった。

 ──あの子の生まれたての恋が、成就しますように。

 そんなことを思うなんて思いもしなかった。人間のすべてが他人事の私が、まさか人間ひとりの未来を憂うなんて。守り人に知られたら、笑われるかもしれない。
 そっと、胸に手を当ててみる。じんわりと暖かい。
 何かを大切に思うことはしなくても良いはずだけれど、それでも、この温度は他の何にも代えがたい。それが降り積もっていったなら、空っぽな私も、いつか満たされる日が来るのだろうか?

「……ふふ。らしくない、ですね」

 思わず苦笑する。買い物に行かなければ。今夜は、ホープの好きな豆のスープにしようか。
 献立を頭の中で組み立て、市場に行こうと東へ足を向けた。新鮮なものから売り切れてしまうからと、できるだけ早足で歩く。らしくない自問を、笑みの下にそっと隠して。

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