荷物を運び出した部屋はすっかりがらんどうだ。つい最近まで、二人で目覚め、食事をし、笑いあい、眠っていたようにはとうてい思えない。息づいていたはずの生活感は、どこかへと雲隠れしてしまったようだった。
 一緒に暮らせなくなる、というのは頭では理解していたけれど、こう目に見えてしまうと、改めて実感させられる。うっかり泣きそうになって、今私が泣くのは違うと、慌ててそれを堪えた。鼻の奥がつんとする。
 こういう時でも、朝の空気というのは爽やかだった。昨日見納めた夜景は、朝日に照らされるビル群の光景に変わっている。頬を撫でた風はすこし冷えていて、身体に渦巻く眠気はどこかへと消し飛ばされていくようだ。

「ナマエ。ここにいたのか。風邪引くぞ」
「あ、楽さん」

 す、と腕を引かれる。そのまま楽さんの腕の中に収まった。後ろから抱きしめてもらうのも、今日を逃したらしばらく無いのだと思うと、羞恥はすっかり消えてしまう。この暖かい温もりが、力強い腕が、私は大好きだ。
 楽さんと出会ってから、一年と少し。出会ったばかりの頃は付き合うことになるとは思っていなかったし、一緒に住むことになるとも思っていなかった。一緒に住み始めた時も、いつか終わってしまうにせよ、こんな形でとは考えてもいなかった。まだ人生を語るには早すぎるとは思うけれど、本当に、生きていると何が起こるか分からないものである。
 TRIGGERが八乙女事務所から独立するにあたって、楽さんはこのマンションを出なければならなくなった。事務所という後ろ盾を失ったTRIGGERは、インディーズとして活動することを余儀なくされたのだ。収入も以前のようにはいかない。それどころか、以前のような活動をまたできる保証もどこにもない。
 加えて、TRIGGERを叩き潰そうとするマスコミの手はまだその勢いを緩めていない。少しでもスキャンダルの種があれば、大きく誇張して記事にされる。そんな状況で、私が楽さんの隣にいるわけにはいかなかった。私がいては、TRIGGERが潰される。

「……情けねえよな。事務所の力がなかったら、好きな女ひとり守れやしないんだ」
「楽さん……」
「本当はずっと傍にいてやりたいのに、もどかしいよ。いつも、ナマエの前じゃうまくいかないんだ。ナマエの前では、世界でいちばんかっこいい男でいたいのにさ。今はすげえかっこ悪いだろ、はは……」

 私を抱きしめる腕に、ぐっと力が込められた。肩口に楽さんの顔が埋められる。甘えるように顔を擦り寄せられるのは、とてもとても珍しい。

「……情けなくなんか、ないですよ。いつだって楽さんは、誰よりもかっこいいです。大好き」
「ここを出たら、こうやって抱きしめてやることもできないんだぞ。ナマエは俺がキツい時に隣にいてくれたのに、俺は同じことをしてやれないかもしれないんだ」
「もう、してくれてますよ」
「………」
「楽さんはね、歌って踊って、笑うだけで私を元気にしてくれるんです。それに、何があっても仕事を諦めなかった楽さんのこと、世界でいちばんかっこいいと思います。一緒に暮らせなくなるのは寂しいけれど……、私、TRIGGERには勝てませんよ」

 ふふ、と笑うと、楽さんは私の名前を呼んだ。首を振り向かせると、顔を上げた楽さんが私に唇を寄せる。目を閉じて、楽さんの唇の感触を感じ取ることに集中した。今日ここを出たら、もう楽さんは隣にはいないから。
 ひゅう、と冷たい風が駆け抜けていく。今、世界には私たち以外には誰もいないような気がして、いつまでもこうしていられたらいいのに、なんて思っていたら──名残惜しそうに楽さんが私から離れていった。

「ナマエ」
「はい」
「ありがとな、またかっこ悪いとこ見せちまった」
「ふふ、かっこ悪くなんてないですよ。かわいいですけど」
「言ったな。前に教えただろ、かわいい、は男には褒め言葉にならねえって」
「えへへ」
「……、ナマエ」
「はい、楽さん」
「めちゃくちゃかっこ悪いこと言ってもいいか?」
「なんでもどうぞ」

 眉を下げて笑った楽さんを、朝の色が照らす。それがたまらなく綺麗だった。

「……いつか絶対迎えに行くから、それまで待っててほしい」
「約束、ですよ」
「ああ、絶対、約束する。今よりずっといい男になって迎えに行くよ」
「そうしたら、もっと、楽さんのこと好きになっちゃいますね」
「そうさせてやる」

 頬に軽く口づけて、楽さんは私の手を引いた。「そろそろ行こう」、その言葉に、ああ、もう幸せな時間は終わりなのだな、と思う。
 楽さんの唇の感触も、握る手も、柔らかい髪も、大好きなすべてが今日限りなのは、寂しくて悲しいけれど。離れ離れになる時間が互いを強くするのなら、きっと私たちには、そういう日々が必要なのでしょう。大丈夫、楽さんは嘘をつかない人だから。
 カーディガンを羽織って、ハンドバッグを手にして。エレベーターから降りてエントランスを出たら、もう私はひとりで歩かなければいけない。繋ぐ先をなくした手でカーディガンの裾を握り込んで、何度も大丈夫と心の中で繰り返す。
 どうか、もう二度と、私の大好きな人が辛い思いをすることがありませんように。足を止めて見上げた空は、どこまでも高いところにあるような気がした。
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