トロデーン城を取り巻く暗雲の冷たさは、何度瞬きをしようとやはり変わらない。ついこの前まで暖かな陽を受けていたこの城は、僕らのたおやかな日々は、深い影に塗りつぶされてしまっている。その暗がりを見るだけで、王や姫や無辜の人たちを取り巻くおとぎ話みたいな呪いは現実なのだ、と、嫌でも思い知らされるようだった。
 肌の上を滑る、呪いを乗せた風は冷やかだ。生命の息吹を感じないこの地を訪れて、はじめに思い出したのは彼女のこと。
 ナマエ。トロデーン城に住み込みで働いていた小間使い。近衛兵の立場を戴く前は僕の同僚だった、歳の近い女の子。細くしなやかな体つきをしていて、陽の光に照らされると煌めく、滑らかな髪の毛がきれいだった。透き通る瞳はよく楽しげに揺れていて、甘やかな声がかわいい。そんな女の子だ。

「エイト? どうしたんだよ、さっさと図書館へ行こうぜ」
「あ……、うん。今行くよ」
「お前が案内役なんだ、頼むぜエイト」

 ククールに呼ばれて、懐かしい日々に飛び立っていた意識を戻す。ゼシカが茨を焼いて開いた扉を潜った先に、みんなはいた。
 まさか旅を終える前にこの城に戻るとは思わなかった。みんなに追いつくように駆け足になりながら、そんなことを思う。手がかりがこの城に眠っているだなんて思ってもみなかったし、何よりも現実を直視することは、王も姫も、そして僕も、あまりに居た堪れなかった。

 城の内部は、外観よりずっと悲惨だった。
 縦横無尽に壁や床を伝う茨と、それによって崩れたレンガがあちこちに転がっている。光の類は一切が射さず、滞留して澱んでいる空気が重い。そしてあちこちに在る、かつて人だった植物たち。
 あるものは驚いたまま、またあるものは恐怖に顔を歪めたまま、呪いの一部にされている。手で触れると植物の表皮の感触がするのに、温度だけは人間のそれと同じで暖かい。そのことがまた、この呪いが悪い夢ではないと告げているようで、心臓をちくちくと刺されている気分になった。

「なんてこと……酷すぎるわ」
「こんなの、あんまりでがすよ」

 僕のうしろを着いてきているみんなが、口々にこぼす。『呪い』の一言で片付けるのは簡単だけれど、その中身がこんなにも惨いと知って、冷静でいられるわけもないのだ。僕だって未だに慣れない。
 四人分の足音が階段を上る。こんな場所なものだから、自然と口数は減っていた。気が滅入るとはこの事を言うのだと思う。気休めだと言いながら、ククールが切ってくれた十字がただうれしかった。
 無言のまま進んで行くと、小間使いたちに宛てがわれた部屋の辺りに出た。ナマエに与えられた部屋は、使用人たちの間で人気のある角部屋だ。城が平和だった頃に何度か遊びに行ったことがある。
 あの日も、朝にナマエの部屋を訪ねたのだ。久しぶりにお昼を一緒に食べようか、それがナマエと交わした最後の会話だった。

「……どうしたの? 大丈夫?」

 再び足を止めた僕に、心配そうにゼシカは訊ねた。「うん」、とりあえずそう答えたけれど、僕はナマエの部屋の扉から視線を外せないままだった。
 僕がこうしている間にも、ナマエはこの城で長すぎる夜を過ごしている。そう思うと、どうも胃の辺りがぞわぞわとして、急かされているような感覚がするのだ。

「……、ごめん。すぐ戻るから、この辺りで待ってて」
「えっ? あ、エイト!」

 とうとう耐えきれなくて、みんなを置いて僕はナマエの部屋の前まで走った。いざ目の前まで来ると、何となく、戸を開くのがこわい。
 ナマエは僕と会う約束をしている時、いつも窓の側で外を眺めて僕を待っていた。そして僕が迎えに来ると、ゆっくりと振り返ってにっこり笑うのだ。
 そっとドアノブを捻って戸を押すと、木の軋む音がした。僅かに風が流れてきて、僕の頬を撫でる。
 風は、開けっ放しの窓から入ってきているようだった。白いカーテンがひらひらと揺れている。部屋の中の茨は、入口から近いクローゼットの前と窓辺の二箇所に在った。

「……、ナマエ……」

 名前を呼んでも、窓辺に佇むその人は振り返ることはなかった。もちろん、笑うことも。分かっていたはずなのに、はっと息を呑む。鼻の奥をつんとした痛みが刺した。泣きそうなんて情けない話だ。これから先、きっともっと辛くなるだろうに。
 そっとナマエだったそれに近寄って、手の形をしたところに触れる。城内だったり近くの森だったり、一緒に歩いた時にはよく繋いだ手だけれど、今はすっかり僕の知らない感触に成り果てている。

「……ナマエ、ご飯一緒に食べようって言ってたから、待っててくれたんだよね。ごめんね、約束、まだ守れないままだ」

 返答はない。代わりに乾いた風が少し吹き込んでくる。

「でも、呪いを解いて、必ず約束は守るよ。ドルマゲスを倒したら、きっとみんな元に戻れるから、だからそのために、僕は行く。
 置いて行ってごめんね。でも、僕を信じて、きっと生きていて」

 お願いだ──少し震えた言葉尻が、冷えた空気を揺らした。
 ナマエに聞こえているのかは分からない。ほんの気休めに過ぎなくて、ともすればただの自己満足なのだけれど、ナマエに届いていたらいいなと思う。
 「じゃあね」、茨をひと撫でして、僕はナマエに背を向ける。部屋を出ると、いちばんに僕に気づいたヤンガスが手を振った。

「兄貴!」
「ごめん、お待たせ」
「別にいいけど、何かあったの?」
「少しね」
「少しって……」
「ストップ、ゼシカ。それ以上は野暮ってもんだろ、なあエイト?」

 視線を寄越したククールに曖昧に答える。ゼシカは「……どういうこと?」と首を傾げていた。

「呪われしお姫さまがもうひとりいる、とかな。よし。話はこの辺にして、行こうぜ」
「ええ……? まあ、そうね。行きましょう」

 そうして僕たちはまた歩き始めた。月の光さえ届かない陰鬱な呪いの中を、僕はただ歩く。
 先程確かめたナマエの温度を、きっと僕は忘れないだろう。あれはナマエが生きている証拠で、“僕は必ずここに帰る”という約束そのものだ。
 今は茨の君へ。僕は帰ります。そして君を迎えに行きます。今言いたいことはそれだけだ。本当に言いたいことは、もう一度ナマエと見つめあってからにしよう。
 あの部屋を通り抜けた風は、もしかしたら僕の願いを乗せていたのかもしれないな。いや、そんなことはないのだろうけど。くすりと笑った僕を、ククールがちらりと見た。
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