「げ……」

 ガタッ。木材のぶつかり合う音が無慈悲に響く。静けさに満ちた修道院の礼拝堂を抜け、中庭を通ったら後は宿舎の戸を開くだけであるのに。その扉には内側から閂がかけられていて、押そうが引こうが、俺を迎え入れてくれることはなかった。ひゅう、と通り過ぎていった風は冷え切っている。戸が開かないか確かめる度、酔いが冷めていくような気がした。
 やべえ、と内心で呟く。院長の住んでいる小島のほうに出る入口も、厨房に繋がる勝手口も、ご丁寧に全ての扉が固く閉じられていた。つまり夜が明けるまで、俺は自分の寝床に辿り着くことができない。何ということだろう。
 結構な時間まで好き放題遊んでいた自覚はある。宿舎の消灯時間が過ぎたことも重々承知してはいたが、油断していた。これまでは、こっそり抜け出しても締め出しを食らうことなどなかったのだ。
 参った。とにかく寝床を何とかしなければいけない。草の上も土の上も、ましてやこの修道院の石のタイルの上も、寝床にするには全くもって不充分だ。固い地面に身を横たえるなんて論外だし、冷えた空気に身体をさらすのも嫌だった。

「……そうだ」

 来た道を引き返し、礼拝堂を抜けて橋の上に出る。ちょうど礼拝堂の真上、二階部分を見上げると、角の一箇所だけは、まだ明かりがついていた。
 よし。また引き返して礼拝堂に入り、階段を上がる。今が何時なのかは知らないが、随分遅くまで彼女は起きているらしい。寝不足は美容の大敵とは言うが、今ばかりは大変にありがたかった。
 木製の扉を数回叩く。「起きてるか?」、声を潜めて問いかけると、「はい」と応答があった。助かった。
 やがて扉が開く。いつもと変わらぬ様子で、その人は笑んだ。

「こんな夜更けに、珍しいお客様ですね。どうぞ」



 柔らかいソファに身体を沈める。昔はずいぶん通った部屋には、夜中であってもその雰囲気に呑まれない優しさが漂っている。
 どうしてか、この部屋に来るとあちこちを見回してしまう。クリーム色の壁も、真面目なタイトルが並ぶ本棚も、いかにもマイエラ修道院らしい簡素なキッチンも。この部屋も彼女も、親しみあるはずなのに新鮮で、落ち着くのに落ち着かない。
 彼女は俺をソファに案内したあと、どうやら茶の用意をしていたらしい。しばらくして戻ってきた彼女は、カップが二つ載ったトレーを持っていた。

「お待たせしました。どうぞ」
「ああ、悪いな」
「いいえ。こんな時間に、何かあったのでしょう?」

 彼女は俺に訊ねると、自分のカップを手に取った。俺は自分の分のそれに手をつけないまま、言葉を頭の中でまとめながら立ち上る湯気を見る。

「……最近よく、夜抜け出してドニの酒場に行ってたんだ」
「まあ、いけない子」
「本当にな。で、ついさっき戻ってきてみたら、宿舎の入口が閉まってて入れなかった」
「普段は開いているのですか?」
「ああ。でも今日は、正面には閂がかかってた。勝手口も裏側の入口も、全部鍵がかけられてんだ。ご丁寧なことで」
「……ふふ。では、素行不良がばれてしまったのですね。自業自得ですよ」
「笑ってくれるなって。参ったな、朝になったら説教されちまう」

 彼女はすこし笑うと、カップを傾ける。そしてカップをテーブルに戻し、俺を見てその瞳を細めた。普段あまり会わない人だから、慈しむ視線を浴びるのも久しぶりだった。

「憂鬱そうですね」
「喜んで怒られに行くヤツなんてそうそういないさ。しかもマルチェロの説教はなかなかキツいんだ」
「知っているかのような口ぶりですけれど」
「……前に祈祷先でお偉いさんの娘を引っ掛けた時、しこたま怒られたんだ」
「あら……」

 呆れた、と続けた彼女は、しかし柔和な笑みを崩さないまま。
 この人は、俺が何を言っても怒ることはない。ずっと昔に、俺が初めてやらかした時もそうだった。怒らないのか訊くと、『望むならそうします』と答えたのだ。彼女を母代わりのように思っていたのを改めたのはこの時だった。──今となっては、遠い遠い過去の話。

「あーあ。しかし何でバレちまったかな。けっこう上手くやってたんだぜ。誰かが告げ口したんだ、きっと」
「分かりませんよ、マルチェロは聡いですから」
「……ま、どうでもいいけどな。怒られることは変わんねえわけだし」

 カップのハンドルをつまんで煽る。鼻を通り抜ける香りは柔らかながらも爽やかだった。彼女は首をすこし傾けて「先日の祈祷の折に戴いたものなのですよ」と笑う。たしか近場の町の町長のところへ行ったのだったか。それらしい上品な味がした。
 やがて空になったカップを下げると、彼女は部屋の奥の間仕切りを手で示した。

「身体も温まったことでしょう、そろそろあちらで休みなさい」
「……、いいのか?」
「そのためにここへ来たのでしょう? 私は朝まで外しますから、この部屋は好きに使いなさい」
「はは、あんたには適わねえや」
「そうでしょう、かわいいククール」

 「膝を貸してあげても良かったのですけれど」、彼女がそんなことを言いながら笑うから、いつのこと言ってんだ、なんて俺も笑ってしまった。
 冗談だと言って部屋を出て行った彼女を見送ると、明かりを消していそいそとベッドに潜り込む。

「……聞きそびれた」

 一人になると急に声が大きく響いたような気がする。口にしてみた独り言は、部屋の隅で跳ね返り、夜闇のなかでぼんやり反響した。
 俺が来る前、この部屋に誰か来てたのか? 聞きたかったことを、そうすべきか迷っているうちにタイミングを逃してしまった。
 この部屋に一歩踏み入った時、何となく、俺でも彼女でもない気配が残っていたような気がした。そしてそれは、俺が知っているヤツのもののような、そんな仄かな心当たりが頭の中を掠めたのだ。
 ──まさかな、ないない。あいつと彼女が喋ってるとこなんて見たことねえし。
 寝返りと同時に思考を打ち切ると、意識がまどろみの底まで引きずりこまれていきそうになる。それが正しい。朝になればお叱りが待っているのだから。抱き込んだ毛布の感触は滑らかで、柔らかだった。
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