ハーブティーの入ったカップを傾けるその所作を、何となく見ていた。ソーサーにカップが触れる音も、形の良い唇から吐き出される息さえ、彼女のすべては美しく、気品があるように思える。
 窓の外は暗く、澄んだ静けさが星の煌めきを遮ることもない。三大聖地といえど辺境に佇むマイエラ修道院を取り巻く夜は、変わり映えのしない単調なものであった。
 そんな変わり映えのしない、普段と同じような夜。──普段と同じはずであったが、今日は珍しく私は騎士団宿舎の自室ではなく、マイエラの聖女と呼ばれるナマエどのの部屋にいた。
 「今晩、私の部屋でお茶でもいかがです」、そんな誘いを受けたのは、午前の鍛錬が終わった後のことであった。あまりに唐突な申し出の真意は分かりかねるが、特に断る理由もなかった。夜といえど疚しいことの為に呼ばれたのではないことは明白だった。そもそも、私が修道院に入ってかなり経つが、その間彼女のそういった話は一度も聞いたことがない。
 なぜ彼女が私をこんな時間に呼びつけたのか。その理由が分からず、私は自分用に出された茶に手をつけることもなく、手持ち無沙汰に彼女やら窓枠の向こうやらを見ることしかできないでいる。

「窓の外が気になりますか、マルチェロ」

 彼女が微笑みながら私に尋ねる。視線を彼女から逸らした、ちょうどその時のことであった。

「……いえ」
「礼拝堂の二階ですから、ちょうど入口の橋の辺りが見えるでしょう。夜は人も通らないので、灯りが揺れる様子くらいしか眺めるものがないのです」
「それは、退屈でしょうな」
「ええ、それはとても。騎士団宿舎の方は、お部屋の位置取りによっては離れ小島が見えるかしら。小川も流れていますね」
「ここと大して変わりますまい。そんなお話の為に、わざわざ私をお呼びで?」

 「いいえ」、彼女が短く答えて、また茶を啜る。落ち着いた品のある所作は、家柄に由来するものなのだろうか。彼女については名前と肩書きくらいしか知らないが、その辺の修道女とは格からして違っていた。
 壁掛けの時計を、しばらく彼女は見つめる。夜も更けてきた頃。恐らく院長は今頃深い眠りの中だろう。騎士団宿舎も、消灯の時刻を迎えて静まった頃である。

「……ちょうど、これくらいでしょうか」
「はあ」

 彼女が窓の外を手で示してみせた。それに従って首から上を動かす。院の入口を隔てる小川に架かった石造りの橋。ぼんやりと揺れる灯りに照らされたそこに、ふと陰がさす。
 人が、足音を忍ばせて、院の外へ走り抜けて行くのが見えた。灯りがあるとはいえさすがに暗く、満足にその顔を見ることはできない。だが制服の形状がどう見ても一般の騎士団員とは違っていた。
 それだけで、ああそういうことかと合点する。

「仕方のない子。近頃よく、ああして抜け出しているようなのです。行先は恐らくドニの町でしょう、どうやら酒場でよくないことを覚えたようで」
「それを知らせる為に、私をお呼びになったというわけですか。無駄骨でしたな」
「あら、咎めないのですか?」
「咎めたところで、あれは行動を改めることなどありませんよ。私は無駄な仕事はしない主義なもので」

 もう窓の外に用がなくなった私は、カップに手をつけた。茶はやや温くなっていて、しかし飲み下すと身体を内側からじんわりと暖める。

「それで、あの子が制服を改造した時も咎めなかったのですね」
「ええ。度が過ぎるようなら、院長へ伺いを立てるまでのこと」
「……冷たいのですね」
「何か問題でも? そもそも、聖堂騎士団の事情にあなたが口を挟む道理などないのでは?」
「そうですね、しかしあの子はあなたの気を引きたくて仕方がないようですから。かわいい子への、ただの世話焼きですよ」
「聖女どのは随分と暇を持て余していらっしゃるようで。羨ましい限りですな」

 下らない、実に下らない。この聖女は、あろうことか私にあれを導けなどとのたまう。可哀想な子だから、あれの為に兄として振る舞えと。院長も、部下たちも、下級の修道士でさえも。この修道院は、やたらとあれに対する同情が強かった。この聖女はその筆頭である。
 ずっと前から、彼女はよくあれに肩入れしていた。修道院に入りたての頃、修練の時間によく姿を消していたククールを匿っていたのは彼女である。その時に母代わりを乞われたことも、それ以来母親気取りであれを見守っていることも、私は知っている。
 下らない。所詮は偽の母だというのに。母も父も、子に優れた血統を継がせることが第一の役割なのだ。聖女が母になることを望もうと、ククールが母を願おうと、今更何になる。ただの飾り物が組み上がるだけだ。
 それを分かっていながら母性を演じる彼女も、それに縋るあの出来損ないも実に下らなくて、反吐が出る。見ているだけで気色が悪い。

「……あなたの思う通りに私が動く義理はない。残念でしたな、聖女どの。私はこれにて失礼させていただきます」

 出された茶を空にしてからソファを立つ。聖女も私に合わせて立ち上がった。その表情はいつもと同じ笑みを崩さない。

「マルチェロ。次の私の祈祷先、あの子を伴って向かうことになっているのです」
「……左様ですか」
「それまでに、あの子には振る舞いを正してもらわねば困ります。この意味、分かりますね?」
「……、然るべき対処をいたします」
「ありがとう、賢いマルチェロ」
「フン……、失礼します」

 「良い夢を」、閉じられる戸の向こう側で彼女は緩く手を振っていた。やがて完全に扉が閉じ、彼女の姿が見えなくなると、思わず長いため息を吐く。
 私は、彼女に母の代わりを願った覚えなどないのだが。本当に下らない、聖女と呼ばれていようと、所詮は俗物である。ただの自己満足のために母を演じるのは、ただひとりの前だけにしておいていただきたいものだ。
 誰一人歩いている者はなく、夜闇の静けさを破るのは私の靴音のみ。中庭を抜け、騎士団宿舎の戸を開き中に入ると、私はそっと閂をかけて自室へと戻ったのだった。
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