不思議な人だと昔から思っていた。
 暖かい陽だまりのよく似合う、優しくて聡明で美しい、そんな女性だった。彼女がマイエラ修道院の聖女なんて呼ばれていたことは、修道院を出てから知った。
 母と呼んだ日もあった。姉のように思った日もあった。所詮他人だと突き放した日もあった。今ではすっかり疎遠になり、もう久しく顔を見ていないが、彼女がマイエラ修道院で寄り添ってくれた人間であることに間違いはない。
 だから、旅が終わったことを報告しておかなくてはいけないと思ったのだ。

「はい」

 戸を叩くと、すぐさま返事が飛んでくる。優しさを滲ませながらも芯の通った声は、遠い記憶の中のそれとぴったり合致した。沁み渡っていくような懐かしさに浸る間もなく戸を押すと、幼少期の幻想がそのまま俺を迎え入れる。
 その人は窓辺に佇んでいた。風に揺れるカーテンの間で髪の毛を靡かせるその姿は、あの頃から変わらないまま。窓辺に寄せる陽光を受け止める彼女は振り返らず、口を開く。

「珍しいお客様ですね」
「……まあ、久々に帰ってきたわけだし、あんたには挨拶をしておこうと思ったんだ」
「そうですか。どうぞ、中へ」

 言われてからもう一歩部屋の中へ踏み込み、後ろ手で戸を閉める。その間も彼女は振り返らず、窓の外を向いたまま。
 幼少期、よく訪れた部屋は何一つ変わっていなかった。窓に射す光もふわりと揺れるカーテンも、小難しい本の詰め込まれた棚も、変わったものは何もない。記憶に残るこの部屋は十年以上前のもののはずだというのに、壁にも天井にもシミ一つ出来ていやしなかった。

「まず初めに、私から言わねばならないことがありますね」

 コツ、と彼女の足元から鳴ったヒールの音が、空間に響く。もったいぶってこちらを向いた彼女は、以前と変わりなく笑んだ。

「おかえりなさい、ククール。よく無事で戻りましたね」
「……犠牲もそれなりにあったけどな」
「ええ。……このマイエラも、すっかり様変わりしてしまって」

 ここへ来るまでに、彼女の言う様変わりした修道院を何度も目にした。堕落しきったマイエラ修道院は、もはや聖地などという言葉とは程遠く、そこにかつての――院長の、兄貴の――面影はない。
 それでもこの部屋の中だけは、あの頃と変わらない気がするのだ。そしてその主も。彼女が向けた笑顔さえ、記憶からそのまま映し出されたようで、薄ら寒いような感覚すらある。ここだけが、彼女だけが、まるで異質であるかのように。
 思えば、彼女には謎が多かった。マイエラ修道院の聖女・ナマエ――。俺が知るのはその肩書きと名前だけで、出身地も家柄も好物も、何もかもを知らないでいるのだ。彼女は一体誰なのかと問われれば、その広く知れ渡った情報を口にするのみで、あとは何も答えられないだろう。しかしその謎が、彼女を神秘的に見せるのかもしれない。

「なあ」
「はい、なんでしょう」
「一つ、聞きたいことがあるんだ」
「どうぞ」
「……あんたは一体、何者なんだ?」
「………」

 ざっと、窓から強い風が吹き込む。何枚か紙が散らされたが、互いに気に留めることもなかった。
 揺れるカーテンが元いた場所に落ち着いた頃、彼女は笑みとともに口を開く。どことなく妖艶で、うつくしい笑い方だった。

「簡単なこと。あなたの母であり、姉であり、そして赤の他人です」
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