向かい合った櫂くんの瞳が、燃えるように輝いていた。

 放課後の空き教室、夕陽が射してオレンジに染まった空間はなかなかのロマンチックな雰囲気を醸し出している。そんな中で二人っきりで視線を通わせているわたしたちの関係には、一応恋人という名前がついていた。あくまでも、一応。恋人同士の『そういうこと』はまったくしたことがないからだ。
 櫂くんの長いまつげが切なげに揺れたと思ったら、机の上で無防備に晒されていたわたしの手に暖かいものが重ねられる。何だろうと疑問に思うまでもなく、櫂くんの手だった。
 男の子の手になんて初めて触れる。それも、好きな人のものだ。いつもカードを華麗に扱うしなやかな指先が、今はわたしの手を包んでいる。櫂くんの性別を主張するように大きくて少し温度の低い手は、わたしのものよりずっと骨張っていた。やっぱり櫂くんは男の子なんだと再認識せざるをえなくて、わたしは耐え切れずに俯いてしまう。からだじゅうの熱が全部顔に集まったみたいに、熱い。

 わたしと櫂くんは付き合っている。学校中、あるいは日本中、もしかしたら世界中にファンがいる櫂くんがわたしを好きだと言ってくれるなんて、奇跡みたいな話だと思う。そしてわたしもその奇跡を受け入れて、櫂トシキという人間が好きだということを彼に伝えた。そして櫂くんは頷いた。
 キスをしたわけではないし、手を繋いだことだってない。わたしがまだそういうことはしたくないと言ったから当然といえば当然なのだけれど、それでもわたしは櫂くんが好きだし、櫂くんもそれでいいと言ってくれた。
 でも時々、本当にいいのかと思うことがある。それを櫂くんに言うとムッとされるから、直接確認することもできないけれど。『まだ大人になりたくない』そんなわたしの我儘に付き合わせるのは、やっぱり櫂くんに申し訳ないとも思うわけで。わたしがぐずぐずしている間に、櫂くんがわたし以外の人を好きになってしまう可能性だってゼロじゃない(櫂くんのことは信じているけれど、それでも不安に思ってしまう)。今のところはその心配はなさそうだけれども、環境はいつだって変わるものなのだ。
 不安なことはたくさんあるのに、それでもわたしは大人になる決意をできないでいた。キスひとつで何が変わるわけでもないのかもしれない。けれどわたしにはとても重大なことに感じるのだ。もう二度と戻れないような、そんな気がする。すごくすごく、怖いのだ。何かを得ると同時に何かを失ってしまうような、そんな予感がいつだって胸をざわめかせる。考えていることが顔に出ていたのか、手に触れていた穏やかな熱がすっと離れた。

「櫂くん?」
「……悪かった」
「う、ん……」

 櫂くんの綺麗な翡翠色の瞳は変わらず、夕陽を受けて燃えている。その熱を閉じ込めるかのように、櫂くんはゆっくりとまぶたを閉じた。綺麗な顔。大人になりたくないわたしは櫂くんのことを嫌いなわけではないのだ。むしろ好きで好きで、とても好きで。だから櫂くんがわたしに触れたいと思うのなら応えてあげたい。わたしを好きだと言うのなら、同じだけ、いや、それ以上の好きをあげたい。だけどわたしが境界線の手前で怖気付いているせいで、それが出来ないでいる。
 もどかしかった。ほんの少しの勇気が足りなくて、大好きな人に触れられないことが。心のどこかで『もっと』と思っている自分がいるのに、表に出せないことが。このもやもやから解放されるには、いっそ櫂くんに境界を越えてもらう方が良いのかもしれない。そんなことさえ考えている。

「あの、櫂くん」
「……? どうした」
「あの、わたし……」

 頬に集まった熱が、思考を浮かしてゆく。うまく言葉を探せなくて黙り込むわたしを、櫂くんはどういう気持ちで見ているだろう。

「あの、わたしは、あのね」
「落ち着け」
「……、……好き、なの。櫂くんが、すごく」
「………」
「好き、で。だから、その……」

 もういい、と低い声がささやいたとき、わたしはもうだめだと思った。そうだよね、櫂くんがいくら優しくてもこんなやつは嫌だよね――諦観はわたしの肩にのしかかり、その重みに耐えかねてわたしは瞼をそっと閉じる。
 そのときだった。くちびるに柔らかい感触。ガタッと鳴った音は、そうか、櫂くんが立ち上がった音か、と妙に冷静に思う。わたし、櫂くんとキスをしている。
 やがて名残惜しそうに櫂くんのそれが離れても、わたしはぼんやりと、櫂くんを見つめるばかりだ。

「……かい、くん」
「嫌だったか」
「……ううん……」

 「嬉しくて」、辿々しくそれだけ言うので精一杯だった。けれど、顔の赤みが引いていくにつれて思考も冷静さを取り戻していく。
 キスって、こんな感じなんだ。わたしが怖がっていたのが馬鹿らしいほど、簡単だ。音もなくもう一度重ねられた手に、暖かさを感じる。
 そこからは自然に身体が動いていた。櫂くんの翡翠の瞳に、薄い唇に吸い寄せられるように、椅子が倒れるのもお構いなしで立ち上がる。ひどくゆっくりではあれど、確実に詰められていく距離。
 わたしは新しく喜びを知った。何か得体の知れない恐怖と引き換えに、好きな人と唇を重ねたときに、心臓が歓喜を訴えて高鳴ることを、知ったのだ。わたしを一段上から引き上げてくれたその人は、わたしを受け入れようとその瞼を閉じている。それがまた、わたしの心臓の動きを早めるのだ。
2016.04.28
お誕生日プレゼントを献上するつもりが遅くなりすぎて申し訳なくなり、お詫びと言っては何ですが書いたものです。
もはや遅筆なんて言い訳は通用しないし湊さんが菩薩でなければ首をくくるところでした。本当に遅くなってすみませんでした…!至らなさすぎる私ですが、これからも仲良くしていただけたら嬉しいです。
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