ナマエはこんな顔をする人間だったか。その問いの答えは、靄がかかったように分からない。こんな顔をするナマエを「見たことがない」のではなく、ナマエが俺の前でどんな顔をしていたかが「思い出せない」のだ。笑っていたか、泣いていたか。笑っていたならどんな笑顔か。泣いていたならどんな泣き顔か。目の前の、泣き笑いのような表情をナマエはしたことがあったか。そんなことさえ、思い出せない。
 まさか、と半ば自嘲気味に笑う。口角は筋肉が硬直してしまったかのように上がらず、笑ったつもりにはなっているが、きっと端から見ればいつもと変わらない無表情なのだろう。その間も、俺の知らないナマエは涙を流しながら笑っていた。

「わたしね」

 俯いてそうナマエが呟く。こんなナマエも知らなかった。いつもナマエは、鬱陶しいくらいの明るさを引っ提げて、俺の周りを動き回る。他愛ない話ではあっても、ナマエの話を聞くのはそれだけで楽しかった。ここまで考えて、ナマエがいつもどんな話をしていたかも思い出せないことに気づく。
 手のひらに、冷たい金属が乗せられた。それは丸い、幾つか緑色の石が嵌め込まれたーー指輪。いつか、ナマエに贈ったものだった。揃いのデザインのもうひとつはチェーンに通して俺の首元からぶら下げている。

「もう無理かなって思ったの」

 突き返された指輪はそういう意味かと、ナマエの言葉を聞いて初めて理解した。輪に埋め込まれた石は、夕陽を反射していかにも安物の輝きを放っている。

「なぜだ」
「疲れちゃったからだよ」

 それは言外に俺を責めているように聞こえた。ナマエのことを思い出せない俺のことを、ナマエが笑いながら攻撃しているように錯覚する。当のナマエにはそんなつもりはないのだろう。だが、その推測にも確信が持てないほどに、俺はナマエのことを知らなさすぎた。きっと、だから思い出せないのだ。ナマエが「疲れた」と言ったことも、ナマエがそうなるに至るまで俺が何かを強いたのだろうかと、ずっと考えても分からない。
 「何でわたしが疲れちゃったかも、櫂くんは分からないんでしょう」ーーナマエの口の動きと流れてくる音が、ずれているように感じた。輪郭のぼやけたそれをなんとか削って、ナマエが何を言ったのかを理解しようとする。そしてナマエの言葉を脳が認識した時、俺は傷ついた顔をしただろう。図星だから。それは自分でも分かったことだというのに、俺の傷ついた顔がナマエをまた傷つけることまでは、分からなかった。

「櫂くんがわたしを見てくれなくてもいいって思ってたよ。でも、心のどこかで期待してたの。いつか気づいてくれるって」
「…………」
「いつになったらわたしを見てくれるかなって、期待するのはもう疲れちゃったよ」

 だから、ごめんね。ナマエの唇が音に合わせて動いたあと、緩い孤を描いた。顔は笑っているのに、確かにナマエは泣いている。水滴が幾つか、ナマエの頬から落ちていった。
 ナマエがいなくなろうとしている。「恋人」という名前のついた関係から、ただの他人になろうとしている。そうだと知って、確かに胸は痛むのに何も出来なかった。ーー引き留めて何になる。傷つけ合うことすら出来なかった、一方的に傷つけるだけだった俺が、ナマエを引き留めて何が出来る。結局はまた同じことの繰り返しなのだ。震えない声帯の代わりに、指輪を握る手に力が入った。食い込む石の感触に、皮膚がほんの少し悲鳴をあげる。

「……そうか。今まで、悪かった」
「……はは。また、期待してたなんてばかみたい……」

 ナマエはポケットからハンカチを取り出した。どこか見覚えのあるハンカチ。いつだったか、一度だけ借りた気がするものだった。それでナマエは涙を拭う。たたえていた笑みはすっかり消え失せていて、自分から振っておいてまるで告白に玉砕でもしたようだと、どこか冷静に、そんなことを思った。

「ここで引き留めてくれたら、わたし、もう少し頑張れるかもって、そう思ったんだけど」

 ばいばい。言い終わらないうちに、ナマエは踵を返して走り出した。落ち葉を踏み鳴らして駆けていく、その後ろ姿はやがて橙にとけて見えなくなる。
 こんな時にどうすればいいのか、俺は知らなかった。ナマエが今までどんな苦痛に耐えてきたのかは分からない。ただ、ナマエの心が悲鳴をあげているなら。解放してやる方がずっと良いと、俺はそう思ったのだ。たとえそれがナマエをまた傷つけることになっても、この先ずっと傷つけるよりは遥かにましなことだと。自己満足でしかないことは分かっている。けれど、それ以外の解決策を俺は持たなかった。持とうとしなかった。これでいいと無理矢理に納得して、自分自身が傷つかないようにバリアを張る。元来俺はそういう人間なのだ。
 ナマエは自分を馬鹿だと言ったが、俺の方がずっと馬鹿であることはそれこそ火を見るよりも明らかだった。こうして関係を断ち切られても、思い出の類いさえ浮かんではこないのだから。関係につけられた名前だけは立派で、恋人らしいことをしたかどうかも思い出せない。はっきりと残っているのは、手の中と首元に置き去りにされた指輪だけだ。それでも立派に傷ついているのだから、俺は確かにナマエのことが好きだったのだろう。
 首から下げていたネックレスの留め金を外す。チェーンと指輪を別々にして、二つの指輪だけをポケットの奥へしまいこんだ。足を向けるのは、ナマエの走り去った方とは別の方向。夕陽の眩しい帰り道、行き場を失った感情がポケットの中、冷たさを孕んで触れ合っていた。
2014.12.03
「水時計」の遠霧湊さんへ、相互記念ということで書かせていただきました!
切なめの櫂くんです!うまいこと切なくなっていることを祈ってます……遅筆なりにけっこう頑張って書いたので、喜んでいただけたら嬉しい限りです。
これからもよろしくお願いします!
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