春瀬さんと同じベッドで一夜を過ごして数日。 彼女の性格のおかげか特に気まずくなることも無く毎日を過ごしていた。 今日はごみの日なので、まとめられたごみ袋を持って家の外に出たところで隣の部屋のおばちゃんに話しかけられる。このおばちゃんは話し出すと長いのだが、ご近所付き合いと言う物もあるので無下にする訳には行かない。 「あら、東堂さん!」 「おはようございます」 「自分でごみ出しなんて偉いわねえ」 「そうですか?」 「偉いわよお。うちの旦那は全然そういうことやってくれないから。あ、そういえばこの間東堂さんのところの奥さんとお話したんだけど、若いのにしっかりしてらっしゃるのねえ。わたし感心しちゃって」 新婚さんでしょう?羨ましいわあ、と続けたおばちゃんの話が読めず「はあ」という相槌しか打てない。間違いなく俺は結婚していないし、奥さんなんてのも居ない。 一体何を勘違いしているのだと思ったが、思い当たるのはただ一つ。春瀬さんだ。 「ええとあの、彼女はですね」 妻とかじゃなく、と説明しようとしたのだが、一体何と説明すればいいのか。妻でも、恋人でも無い女の人と一緒に暮らしているなんて間違いなくご近所の評判が悪くなる。 かと言って妹というのも無理があるし……。 そんなことを考えて居たら、自分の家のドアがガチャリと開く。 「あ、良かった!ねえ忘れ物だよ」 出てきた春瀬さんにお弁当箱を渡される。危ない、せっかく作ったのに忘れるところだった。 ほっとしたのも束の間、おばちゃんに微笑ましい視線を向けられて非常に気まずい。 「山下さん、おはようございます」 「メイちゃん、おはよう。そのお弁当はもしかして愛妻弁当かしら?」 「いや、実はわたし、朝があまり得意じゃなくて。朝はいつも尽八さんが用意してくれてるんです」 ね、と春瀬さんに同意を求められてが何が何だか分からない。 この二人、一体いつの間にそんなに仲良くなっていたのか。 っていうか尽八さんって何だ。 何と答えたら良いか分からずに居ると、山下のおばちゃんに見えないところで春瀬さんに睨まれる。 話を合わせろと言う意味だろうソレに、よく分からないなりに「そうなんですよ」と言っておく。 帰ったら絶対説明して貰うからなと春瀬さんと目で会話した後、ごみ出しもあるしとその場を後にした。 帰宅後。おかえり〜と俺を出迎えた春瀬さんは今朝のことなんてすっかり忘れているようだった。 冷蔵庫何も無いけど買い物行く?と俺が脱いだスーツの上着を当たり前のように受け取ってハンガーに掛ける彼女の動作を見て、ふと自分の動きを止めてしまった。 普段何気無くやっているこのやりとりだが、意識して見ると物凄く夫婦っぽい。 何とも言えない顔になった俺を見て「何?」と春瀬さんは不思議な顔をする。 「いや、今朝のことなんだが」 「今朝?あ、山下のおばちゃんと話してたやつか」 「ああ。いつの間に春瀬さんは俺の奥さんになっていたんだ」 全然話が見えないんだが、とネクタイを緩めながらソファに腰掛けると春瀬さんもその横に座る。 本当はこたつで向かい合って話したかったのだが、スーツを着たままこたつに入ると皺になってしまうのでやめた。 「先週の木曜日なんだけどね、たまたま出かける時に山下さんに会ってね。今までも挨拶くらいはしてたんだけど、山下さん、ずっとわたしが東堂さんとどういう関係なのか気になってたみたいで」 何故そうなってしまったのか語り始めた春瀬さんの話を要約すると、話し出すと長い山下さんの話に適当に相槌を打っていたらいつの間にか自分の新妻設定となっていたらしい。どういうことだ。 「否定しろよ」 「否定しようと思ったんだけど、否定したら新妻じゃないなら何って話になるじゃない?」 「……確かに」 「赤の他人なんて言うと世間体が悪いし、否定するのもめんどくさくなってそうですって言っちゃったんだけど今考えれば親戚ですとか適当に言っとけば良かったよね」 本当にな。山下のおばちゃんの情報拡大能力は凄まじいので、きっとこのアパート中の人間が俺と春瀬さんを新婚夫婦だと思っているのだろう。 そして今朝、二人して夫婦らしいやり取りをしてしまったので今更の訂正は難しい。何だか頭が痛くなってきた。 「……そんなに嫌だった?」 頭を押さえる俺を覗き込む春瀬さんは珍しく少し悲しそうな顔をしていた。 「嫌とかじゃなくて、もしこの先彼氏が出来た時に困るのは春瀬さんだろ」 付き合っても居ない男と結婚しているなんて言われて、この先出来るだろう春瀬さんの彼氏が絶対良い気分になる筈も無い。更にもしそれが何かの拍子に春瀬さんの通っている大学にまで及んだら彼女は在学中の身で結婚していると言うことになってしまい彼氏どころではなくなってしまう。 「ああ、なるほど」 「なるほどって……」 もしかして今の今まで思い至らなかったのかと俺が問う前に、春瀬さんは爆弾を落として行った。 「じゃあ東堂さんが彼氏になれば何の問題も無いね」 そう言って笑みを浮かべる春瀬さんはびっくりしすぎて何も言えない俺を見上げた。 ぎゅっと手を握られて、ぴったり身体をくっつけられる。 手を握られるのも身体をくっつけられるのも、初めてでは無いのに心臓はかつてない程に早まっていた。 それは、いつもの冗談なんかでなく本気で言っているのか。 ふと隼人が言っていた「尽八が彼氏になっちゃえば全部解決だろ」という一言が頭を掠める。 一言も発せられず、手足も動かすことが出来ない俺を見て春瀬さんはにっこりと笑って、握っていた手を離した。 「冗談だから、そんなひどい顔しないでよ」 お前なあ、と言いかけて、止めた。 確かに春瀬さんはいつも俺をからかうようなことを言うけど、からかった後こんな寂しそうに笑ったりはしない。 「わたし、買い物行って来る」 そう言って立ち上った春瀬さんの腕を掴んだのは無意識だった。 「……そんなにひどい顔してたか、俺」 立ち上ったまま俺を見下す春瀬さんは「すごくね」と貼り付けたような笑顔だ。 「なあ、冗談なんかじゃ無いんだろう」 言ってから、これを言って自分はどうする気なのかと思った。 もし春瀬さんのあの言葉が春瀬さんの本心だとしたら、春瀬さんは俺のことがそういう意味で好きだということになる。 彼女が自分に懐いてくれているのは知っていたが、それは兄に対するような物だと思っていた。 「冗談じゃ無いって言ったら、どうするの」 さっきまでの貼り付けられた笑顔が剥がれて、泣きそうな顔が現れる。 「冗談じゃ無いって言ってここに居られなくなるくらいなら、冗談で良い」 とうとう春瀬さんの目から、涙が零れた。 初めて見た彼女の涙にどうしたらいいか分からないけれど、彼女が俺のことをそういう意味で好きでいることは分かった。 彼女の腕を引いて、再び隣に座るように促す。 抵抗もせずに隣に座った春瀬さんの頭をいつもの癖で撫でようとすると「やめて」とはっきりと拒絶される。 「春瀬さん」 「……何」 「春瀬さんと同じ気持ちを返すことは出来ないけど、受け止めるから。だから冗談で良いなんて言わないで、ちゃんと言ってくれないか」 まだ俺は春瀬さんが考えていること、口に出してくれないと分からないから。 いつもの天真爛漫な様子なんて欠片も見せずに俯く彼女に言ってやれることはこれぐらいしか無かった。 今後の生活を考えると、彼女の言う通り冗談のままにして彼女の気持ちは聞かなかったことにして過ごす方がいいのかもしれない。 しかしそれでもきっと今まで通り生活することは出来なくなるのだろう。 どうせ今まで通り戻れないのなら、彼女の気持ちをきちんと受け止めてやりたい。 今度は俺が彼女の手を握る。 春瀬さんと同じ気持ちを返すことは出来ない、なんて答えを先に言っておいてこんなことをするのは卑怯だろうか。 140803 ×
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