![]() 「はぁ、はあっ……はっ」 私は息が切れるのも構わず闇の中を走り続けていた。そうしないと背後から迫ってくる深淵の闇に押しつぶされそうだ。 今まで感じたことのない恐怖。背筋が凍り、心が冷え切っていく。 もっと早く、早く行かないと追いつかれる。 そう思うのに砂山でも走っているのか、足が沈んでなかなか前に進めない。力を込めるたび激痛にも襲われ、まるで割れたガラスを踏みしめているようだ。 痛いけど、止まってはいけない。私はとにかく前を見ていた。 振り返ってはいけない。得体の知れない闇を見てはいけない。わけのわからないままただただ本能に従って走り続けている。 でも、私はちゃんと前へ進んでる? 焦りと不安でいっぱいだ。本当に前を向いて走っているのかさえわからない。 前も後ろも右も左も真っ暗で人の気配がまるでなかった。平衡感覚が狂わされていく。 暗い。怖い。寂しい。 どんなに走っても、私はひとりだった。 酷い虚無感だ。 ここには何もない。一面黒の世界が広がっているだけだ。一体どこまで続いているのだろう。 まさかこのままずっと彷徨い続けるのではないか。 ――怖い。 頭が割れるように痛い。息を吸ってもちっとも入ってこない。 ――誰か! 思わず叫んだそれは荒い息に紛れ、“誰か”の耳に入ることなく深い闇の中に消えていった。 走れど走れど、終わりが見えない。 永遠とも取れる途方もない時間を走り続けた私は、いよいよ足が上がらなくなった。 もう心が折れかけている。 それでもなけなしの強がりで「止まるな」と奮い立たせたときだった。 「大丈夫かい?」 ふいに聞こえた優しい声音。勢いよく振り返ると虚無の彼方、気の遠くなるような先に一筋の光が見える。 そこには誰かが立っているような気がした。 異常に冷たかった心に僅かな熱が生まれ、頭痛がぴたりと止む。息を吸えば酸素がしっかりと肺に流れ込んでくるのが実感できた。 痛かったはずの足も、ほんの少しだけ軽くなる。 ――誰? 声を掛けてくれたのは一体誰? 縋る思いで走った。すると導くように光が大きくなる。眩いばかりの白が黒を消し去っていく。 目を細めながらも進んでいくと、やはり誰かが立っていた。顔は逆光で見えない。見えないけど、ほっとしている自分がいた。 その誰かが、私に向かって手を伸ばす。私も自然と手を伸ばした。 距離が近づくにつれ、今度は冷たかった体に熱が少しずつ戻ってくる。 もう少し、あとちょっと。差し出された手が目前に迫る。私は震えてうまく動かない手で、なんとか掴んだ。 ぎゅっと握り返されて、心が震える。涙が出そうだった。 握り返してくれた手が、想像していたよりもずっと温かく、そして力強かったから。 そんな温もりに安堵していると、辺り一面が光の粒子に包まれる。 目を開けていられないほどの眩しさに思わず目を閉じると、体が変に浮いた。 次にはがくんと階段を踏み外したような感覚に襲われ、体をびくりと震わせて目を開ける。 「は……っ」 目の前に飛び込んできた誰かの首筋を見た瞬間、自分は夢を見ていたのだと唐突に理解した。 さっきまでの恐怖が嘘のように消えている。 全身の熱っぽさと息苦しさはあったものの虚無感はない。私は胸を撫で下ろし、息を大きく吐いた。 「大丈夫かい?」 夢の中で聞いた声がすぐ傍から聞こえる。仰ぎ見ると、そこには見知った顔があった。 「ヒソカ……」 「ずいぶんうなされていたね。熱も出てきたみたいだ」 ふわりと柔らかい何かに寝かせられて、私はようやく自分がどこかに運ばれていたことに気づく。 どうやらベッドのようだ。 ふとヒソカの大きな手が私の額にそっと押し当てられる。 思いの外ひんやりとしていて、心地良かった。 「冷た……きもちいい」 「キミが熱いんだよ」 くすくすと笑うヒソカに、私はよくわからないままぼんやりとその顔を見つめていた。 そういえば右手がさっきからあったかい。ヒソカが握っていてくれたのだ。 いつから? もしかして夢の中で手を掴んだときから、だろうか。 ――ああ、どうしよう。 すごく嬉しい。 本当に怖かった。ひとりだったら頭がどうにかなっていたかもしれない。 「あんまり大丈夫そうじゃないね。辛い?」 「だいじょうぶ」 正直体も心もズタズタでどこが痛いのかさえわからなかったけど、さっきの虚無感に比べればずっと楽だ。 誰かが傍にいて手を握ってくれる、それだけで十分過ぎるくらいだった。 「本当に?」 「……うん」 「じゃあ、何かほ――は? ――でも飲む?」 ヒソカが何か問いかけてきたけど、うまく聞き取れなかった。 「今にも死んじゃいそうだなぁ、本当に大丈夫かい?」 あれ、今度はちゃんと聞こえ……あ、でもなんか変だ、ぼーっとしてヒソカの声が二重三重に聞こえる。 「――、かい?」 何を言っているのかわからない。ええと、何か質問されたと思うんだけどなんだったかな。 ぼやぼやして、視界がぐるぐる回り続けている。 体が妙に熱い。 やたらと喉が渇いてしまう。 ああ、でも今は水とかじゃなくて瑞々しいモノが欲しい。 例えば、果物とか。 ぐーるぐーる渦巻く中に、ふと赤い果物が見えてくる。瑞々しくて、甘酸っぱい果物。 「……りんご」 「うん?」 「りんご、たべたい」 「……?」 もう自分自身何を言っているのかわからないまま、いよいよ意識が飛んだ。 04.mellow 「りんご」 熱が上がりすぎたのか、意識が飛んでしまった彼女の横で、ボクはぽつりと呟いた。 意外なリクエストだ。もしかして好きなのかな? なんて思いつつ、彼女の額に張り付いた髪をそっと払う。 額は燃えるように熱いのに、手は氷のように冷たい。 しかしずっと繋いだままの右手は、弱々しくもしっかりと握られている。怖い夢でも見たのか、その小さな手は微かに震えていた。 いや、夢じゃないな。 彼女がこんなにも体調を崩し、うなされ出したのはおそらく“念”が原因だ。 ボクが殺した最後の男――1人だけガスマスクをしていなかったあの男の念が、彼女に付きまとっているのだろう。死者の念は生前より強くなることがある。 手を下したのはボクだったけど、死の間際にあの男が見ていたのは彼女だった。 「酷いとばっちりだね」 憎い矛先がボクから目の前の彼女に移ってしまったようだ。 敵はあの箱庭でガスが充満すれば勝てる、なんて思っていたのかもしれない。それを邪魔されて憎くなったのかな。 どんな効果があったのかは知らないけど、ガスが充満するよりボクがあの場にいる全員を殺す方が数段早いんだから無意味だったんだけどね。 あの場に居合わせた彼女には気の毒としか言いようがない。 襲ってきた集団は大方ボクに恨みでもあったんだろうけど、生憎身に覚えが多すぎてどの敵討ちかなんてわからないし、興味もなかった。 そんな事より今は彼女だ。さっきよりは大分顔色がよくなっているけど、相変わらず息は浅い。 今日、あるいは明日が峠かもしれないなぁ。 死んでしまったら残念だ。 「だいじょうぶ、わたしはだいじょうぶ、だよ」 慰めるような言葉とともに、きゅっと力なく握られる手。けれど起きているわけではなさそうだ。 凄いタイミングだなぁ。 「……キミはボクのせいで死に掛かってるのに、ずいぶんと優しいね」 半ば独り言のように呟いて、ボクは笑った。 すると彼女の頬もほんの僅かに綻んだように見えたのは、気のせいかい? ぞくぞくとえも言われぬ感覚が体中を巡る。気まぐれで拾った果実は、もしかしたら予想以上に甘い果実だったのかもしれない。 ボクを夢中にさせてくれるような、そんな果実。 「……そうだといいね」 今度こそただの独り言だ。聞いていようがいまいがどちらでもよかった。 ふいに飛行船の窓から覗く空へと目をやれば、ちょうど流れ星が煌いていた。 |