![]() ぱらぱらと雨が降り出したのは、日付が変わってまもなくの事だった。 ちょうどいいかなと雨音に紛れ、団員達の注意が他にある事を確認しつつその場をあとにする。 抜け出せるときは案外すんなりだね。まあ気づかれるのは時間の問題だろうけど。 でもたぶん追ってこないだろうし、さっさと帰ろう。 ボクはポケットに入った携帯の電源をぷつりと切った。これで連絡もない。 なにより今は”彼女”が気になる。賑やかなネオンに満たされた街を歩きながら、ボクは飛行船が止まっているであろう方向に目を向けた。 夜な夜なボクのベッドに入り込んでくる彼女は、どうやら独り寝が出来ないらしい。 つい先日までは無意識の行動だったけど、自分からベッドに入り込むという癖をいよいよ自覚したみたいだ。気づいちゃったときのびっくりした顔は面白かったなぁ。 いつも通りちょっとからかえば素直な反応が返ってくる。さらっとあしらわれるのもそれはそれで楽しいんだけど、真っ正面から受け答えする彼女の反応の方が今のボクには好ましかった。 さて彼女は眠っているだろうか、なんて考えてみても答えはすでに出ている。寝ていないだろうね。 頑なに自分のベッドで寝ようとするけど最後には必ずボクのところに来るし、今日も例に漏れずそうなるだろう。 ――早く帰らなきゃね。 弱いけど止みそうにない雨の下、ボクはひとり寂しく待っているであろう彼女の元に足を速めた。 案の定、飛行船に戻ると彼女は起きていた。大きな窓のあるロビーでただじっと外を眺めている。何に思いを馳せているのか、彼女の横顔は普段とは違う凛とした面持ちで別人のようにも見えた。 念の修行に励んでいるときに近い真剣な表情だけど、それともちょっと違うかな。 笑ったり照れたり、本気じゃないけどむっとして怒ったり、彼女にはいろんな表情がある。 一緒に過ごすうちに気づいた事、わかった事もたくさんあった。 本人が気づいているかはわからないけど、記憶のない彼女はとても寂しがり屋だ。 普段から口には出さないし珍しく表情にも出ていないけど、ボクが傍を離れるとその瞳の奥には一瞬だけ僅かな寂しさが潜んでいる。 ククク、ほんとカワイイなぁ。 なんだろうね。彼女は素直だけど甘え下手というか、進んで何かを求めてくる事がほとんどない。あったのはたったの一回、ちゃんと意識があったのかわからないときの「りんご」くらいだよ。 服だって最初は遠慮していたし、ベッドの件だって思いっきり甘えちゃえばいいのにね。 ……そのせいなのかなぁ、なんだか無性に甘やかしたくなるよ。 そうしたらキミはどんな顔をするんだい? ボクは静かに笑いながら、まだボクの存在に気づいていない彼女にそっと声をかけた。 20.奇術師が帰った夜に 「ただいま」 「わっ、あ……お、おかえり」 急に声をかけられて大げさなくらいびくりと肩が揺れた。振り向けばそこには見知った顔。肩が少しだけ濡れている奇術師が立っていた。 自然と心が晴れやかになる。思っていたより早い帰宅につい嬉しくなってしまった。 「早かったね」 「うん、そんなに大きい仕事じゃなかったからね」 声も少し弾んでしまったかもしれない。なんだか妙に恥ずかしくなって俯きそうになったところで、ヒソカの足下が思ったより濡れていたことに気づく。顔のメイクは落ちてないし髪もあまり濡れている感じがなかったのでちょっとだけ目を見開いた。 「結構濡れてるね、やっぱり傘さしてこなかったんだ」 「ん? ああ、そういえば雨降ってたねえ」 「風邪引いちゃうよ、シャワー浴びてきたら?」 「そうだね。じゃあせっかくだし一緒に入ろうか?」 「……お、おひとりでドウゾ」 「ククク、残念」 さらりとかわすつもりが微妙に裏返ってしまった声で台無しだ。ヒソカはまた面白そうに笑って私に近づいてくる。身の内にいつの間にやら設置された”対ヒソカ専用からかわれセンサー”がちょっと反応している気がして身構える。 「ところでまだ起きていたんだね。もしかしてボクの事、待っていたのかな?」 ――し、白々しく聞こえるのは気のせいでしょうか。 三日月のように見事な弧を描いたヒソカの口に目がいく。絶対わかってて聞いてる、これは間違いない。 気まずくなって目を逸らしたかったけど、いつもよりずいっと距離を詰めてきたヒソカのせいで叶わなかった。 せめて後ずさりしようとしたのに、ヒソカの策略なのか窓とヒソカにうまいこと挟まれてしまって身動きがとれない。背に当たる窓はひんやりとしているのに、体温はだんだん上がっていた。ヒソカと私の距離は半歩もなく、くっつくかくっつかないか微妙なラインだ。 「ヒソカっ」 近いよ、と言う前にヒソカが口を開く。 「……怖い夢でも見た?」 「えっ?」 やっぱり知ってたの? 目を丸くすると、ヒソカは私の顔を覗き込んでいたずらっぽく笑った。 「おや、アタリかい?」 「え、あ……」 どうやら知らなかったみたいだ。でもこの感じだと予想はしていた、のかもしれない。ヒソカはどことなく柔らかい表情で私の頭を撫でた。その手つきは昨晩ベッドに入ったときと同じくらいとても優しい。 まるで大丈夫だよ、と恋人に囁くような仕草だ。 「もっと早く帰ってくればよかったね」 「え? そ、そんなことないよ。帰ってきてくれただけで嬉……」 慌てて首を振ろうとしてうっかりいらないことまで口走りそうになったが、 「そ。ならよかった」 嬉しそうに微笑んだ顔を見る限り、すでに伝わってしまったようだ。 「じゃあ先にベッドに行っててくれるかい? ボクもすぐに行くよ」 「えっ……」 「ああ、もちろんボクのベッドだよ?」 断定的だけどなんだかとても甘い響きだった。てっきりからかわれるのかと思ったのに、労るような温かさがヒソカの大きな手から感じられる。 「ほら、返事は?」 「えっ?」 無数の疑問符が頭の上に浮かぶ。もともと優しかったけど、目の前のヒソカはそれ以上に優しいというか、甘い。 「はいって言わないとククク、どうしようかなぁ。キミが自分のベッドに寝ていたら、ボクがそっちに行っちゃおうかな。うん、それもいいね」 むしろそっちの方がいいかな? なんて本気とも冗談とも取れる口調で言って、ヒソカは私から離れた。 「どっちにするかはキミに任せるよ。じゃあ、あとでね」 語尾にハートマークでもついていそうな感じで笑ったあと、ヒソカはさっさと歩き出してしまい、私が何か言うより先にロビーの奥へと消えてしまった。 「ど、どっちって……」 ええええ、どっちにしろ待っていなきゃいけないことに変わりはない。というかそれ以外の選択肢が最初から用意されていない。 確かにヒソカが帰ってくるのを待ってはいたけど、改めてこんな「ベッドで待っててね」なんて言われてしまうとどうしたらいいのかわからなくなってしまう。 一体どっちにすれば…… 私は窓に寄りかかったまましばらく頭を悩ませた。 |