![]() 饐えた匂いが鼻について辺りを見回すと、前に見た夢の光景が広がっていた。あれから少し時間が経ったのか炎の勢いは衰え、焦げた地面から弱々しい煙があがっている。 またこの夢。妙にリアルでどこか怖くて、見たくないと思ってしまう夢。 「” ”」 誰かに名を呼ばれ、背後から足音が近づいてくる。単語として聞き取ることは出来なかったけど、それが自分の名前であることは認識出来た。 「下がれ、まだ気配がある」 血に塗れた手で、持っていた刀を鞘に収めた私は低く簡潔に答える。果たして自分の声なのかと疑うほど凛として澄んだ響きだった。 紅蓮の炎の中ではしゃがみ込めたのに、今は体の自由がないし声も自分の意思では出せない状態だ。 誰かの体に憑依したらこんな感じなのかもしれない。傍観という言葉がぴったりの状況だった。 でもここに立っている人物は確かに自分だ。何の疑いもなくそう解していた。同時にもうひとりの私の感情も自然に流れ込んできている。 ”何も感じない”という感情が。 以前感じた嫌な予感は、たぶんこれだ。寄り添うようにあるもうひとりの私の心は凍てつく氷のように冷え切っていて何も感じていなかった。 あるのは”対象物”の掃滅のみ。 前方に息を殺す気配がひとつだけある。警戒はこれだけでいい。後方の無数の気配は虫の息で放っておいてもそのうち絶命するだろう。心臓(おと)が弱くなっているのがよくわかる。 もうひとりの私はなんの感傷もなく、ただ息をはいた――その一瞬。 前方の気配が目にも止まらぬ早さで迫る。私にとって”対象物”でしかない目下の男はまるで獲物を狩る獣のようにギラギラしていた。 しかしその姿を前にしても揺らがない心に焦りや恐れなどは微塵もなく、私は鞘に収めたままの刀で男の頬を張り倒す。 がつんという鈍音と共に勢いを殺せなかった男の肢体が盛大に地面と激突し、灰が辺りを舞った。 「うぐぅ……」 耐えるように蹲る男を足蹴りにし体を上に向かせる。異様な力を持つ目が射殺すようにこちらを注視していた。 「この、化け物ぐぁっ」 吐き捨てるように言って口角を引き上げた男。私は無言のまま持っていた刀を一直線に振りおろし、躊躇なく男の喉笛を潰した。ひゅーと耳障りな空気音と濃い鉄の匂いが充満する。 そしてまたひとつ、世界から音が消えた。 やがて訪れる静寂は、虚しさと哀しさで溢れかえっている。 それでも自分は何も感じていなかった。一見怒って相手を絶命させたようにも思えるが、もうひとりの自分は怒るどころか男の放った言葉など心底どうでもよかったのだ。 それが、ただ傍観している身の私には恐ろしかった。 「次はどこだ? 北か?」 当然私の恐怖など無視され、もうひとりの私は鷹揚のない声で問いながら振り返る。視線の先には白衣を纏った青年がいた。自分よりは幾分か背は高いものの男性にしては小柄だ。短く切られた髪は銀色だった。わかったのはそれくらいで顔は以前の夢と同じでわからない。 「いや、南に行こう。これから寒くなるしな」 青年は淡く微笑んで、私に手を差し出した。 血に塗れた私とは対照的な穢れを知らない真っ白な手だった。 19.奇術師のいない夜に・2 「はっ」 目を開けるとそこは見慣れた天井だった。全身がじっとりと汗ばんでいる。私は大きく息を吸い込み、目が覚めた事実に心から安堵した。 あの不可思議な夢……青年の手を取ったあとも酷い有様だった。 とにかく目に映るのは赤ばかり。襲ってくる”対象物”を切り刻みひたすら進むだけの悪夢だった。途中からは刀を捨てて素手で相手の首をへし折ったり潰したり。とにかく凄惨な様子が頭にこびり付いて離れない。 しかし何より恐ろしかったのはそれが日常だと認識していた自分自身だ。地獄絵図のような風景は「見慣れたもの」だと心のどこかで当たり前に感じていた。 私は一度目を閉じて肩の力を抜く。正直忘れられるなら忘れたいところだ。 もしも望む夢を見られるのなら、もっと違う……ほっとするような夢が見たい。 「……ヒソカ」 無意識に呟いたのは先日から一緒にいようと決めた奇術師の名前。 私ははっとして、ぶんぶんと首を振った。何故ここでヒソカの名前が出てきたのか。しかもねだるような甘さを孕んだ声音だった。 ひとりあたふたしながら、今のつぶやきはなかったことにしようと心に誓う。 「すーはーぁっ」 大げさな深呼吸で気持ちを落ち着け、私はベッドから下りた。見ればここは自分に宛がわれた部屋だ。とりあえずヒソカのベッドじゃなくてよかった。流石に無人のベッドに入り込む癖はないようだ。 それはよかったけど、これからどうしようか。先刻の悪夢を思うともう一度寝る気にはなれなかった。カーテンを開けて外を見れば暗い空を照らすように飛行船の導となる光が眩しく輝いている。 時計の針は0時を回ったところだった。眠ってから1時間程度しか経っていない。 「……シャワーでも浴びてこようかな」 ヒソカが帰ってくる様子もないし、私は汗ばんだ体と一緒に悪夢も洗い流す心持ちでシャワーを浴びることにした。 やがてバスルームから出ると微かな雨音が響いていたことに気づく。部屋に戻って窓を見ればやはり雨が降っていた。 雨脚はそんなに強くはないけど、普通に歩けば濡れるはずだ。ヒソカは傘を持っていったのだろうか。 ……でもヒソカって傘とかさすのかな。なんだかそのまま濡れて帰ってきそうな気がする。 ぼんやり考えながらくすりと笑みがこぼれた。 ――早く、帰ってこないかな。 自然と浮かび上がった思いは、しとしとと降り続く雨音に溶けていく。 「ヒソカ」 寂しさを紛らわすように呟くとほんの少しだけ気持ちが和らいだような気がした。 その和らぎを胸に、私は窓際に寄りかかったまま黙って外を眺める。 そういえば変な夢を見るのはいつもひとりの時だ。 昨日は結局勝手にヒソカのベッドに入り込んだのでその後悪夢は見なかったけど、もし今日みたいにひとりの夜を過ごすことになったらどうなんだろう。 また悪夢を見るのかな。うーん、見そうな気がする。 『だって夜はキミが』 何気ない言葉の温かさが今になって身にしみた。ヒソカは私がこうなるとわかっていたのだろうか。悪夢のことも知ってるとか? ……わからない。でも気にかけてくれたのは事実だ。 そう自覚すると温かいような、でもどうしようもなく切ないような気持ちになる。 「……ヒソカ」 もう一度呟くと思った以上に柔らかで寂しい声だった。 「や、やめやめ!」 このままだとますます会いたくなってしまう。こんな個人的な感情で仕事の邪魔はしたくない。 えーっと、も、もっと別のことを。 ぐるぐると巡らせた思考の中で私はひとつの答えにたどり着く。 私が他人のベッドに入り込む理由。それはまさか悪夢を見るから……? もしかしなくてもそんな気がしてならない。私は覚えていないけど、これまでもずっとヒソカのベッドに入り込んだっていうのはそこに起因する、のかな。 いやいやいやもしそうだと仮定した場合今後が心配すぎる。 『そろそろ観念したらどうだい?』 ふと聞こえてしまった声。そうだ、ヒソカは楽しそうに笑って容認しちゃっている。 ……流されるのも時間の問題といえた。 私はすでに出かかっている答えを振り切るように首を振る。そもそも独り寝が出来ない質だとしたら今までどうやって生活してきたのだろう。 悶々としながら私はヒソカの帰りを待った。長い夜はまだ始まったばかり。 |