![]() ちっとも眠くない。私は奇妙なエスエム談義が終わったあとも、こうして眠ることが出来ずにいた。 精神的にはかなり疲れていると思う。主にヒソカの容赦ない言葉攻めのせいで。 でも身体的にはまったくといっていいほど疲れはない。連日にわたり体を休めていたのが利いているのだろう。 すぐ隣に横たわるヒソカが本当に寝ているのかはわからなかったけど、少なくとも目は閉じられている。 私はヒソカから視線を移し、カーテンから差し込む淡い光に目を向けてそっと起き上がった。 人間一日くらい眠らなくても大丈夫なはず。 そう結論づけてなるべく音を立てないように部屋を出る。 朝特有の薄い光が満ちたロビーを歩きながら、朝靄のかかった空に目を細めた。今日は晴れそうだ。 「んーっと」 私はひとつ大きな伸びをして、エントランスに向かった。あそこは広いし、ソファも置いてあるので集中するには丁度良い。 「まずは凝……あ、でもとりあえず絶の方がいいかな」 起きるにはまだ早いこの時間を使って私は念の修行をすることに決めた。 18.奇術師のいない夜に・1 時間はあっという間に流れていく。 飛行船に戻って来てからの私達は買い物に出掛ける以前と変わらない感じで、たわいない会話をしながら一緒に過ごしていた。 もしかしたら午後辺りには眠気が来るかもしれないなんて思っていたけど、今日は眠気の「ね」の字も襲ってこない。 そのまま時間は過ぎ、太陽が西の空に偏り始めた頃ヒソカが唐突に思いがけない話を切り出した。 「そろそろ帰ろうと思うんだけど、キミは日当たりの良い部屋と夜景が綺麗な部屋のどっちがいい?」 「え?」 「用事もなくなったし、そろそろ移動しようと思ってね」 帰る、ということはつまりヒソカの家に行くということだ。 ……ヒソカの、家? 私はワンテンポ遅れた思考の中で目を丸くした。 「他にもあるけど、ここから近いのはその2つなんだ」 どうやらいくつか拠点としている家があるようだ。テーブルを挟んで向かいに座るヒソカを見つめたまま、私は思わず口を開いた。 「ヒソカの家、行っていいの?」 「うん」 あっさり頷いたヒソカに私はつい嬉しくなってしまう。 「嬉しい?」 「……っ」 見透かされてしまったことに羞恥を覚え、これ以上からかわれないためにも思考を切り替えた。 飛行船生活に何の疑問も抱いていなかったけど、確かにいつまでも空の上というのも変な話だ。 ただヒソカの家って聞いてもまったくピンと来ない。いったいどんなところなのか。どちらかといえば夜景の方の家が気になる。 「そろそろまた連絡も入ってきそうだから、そうなる前にキミを連れてしばらくの間は家でゆっくり……」 ヒソカの言葉を遮って無機質な電子音が「ピピピピ」と響いた。それはどうやらヒソカのポケットから聞こえているようだ。「ああやっぱり」なんて肩を竦める姿に私は首を傾げる。 早く出やがれと言わんばかりにしつこく鳴り続いているのに、ヒソカがポケットから携帯を取る様子はない。 「……出ないの?」 「うーん、どうしようかなぁ」 言葉の割に大して迷っている風でもないヒソカは、何故かトランプを1枚手品のようにさっと出現させた。トランプは死神が描かれたジョーカー。大きな鎌とドクロの顔が印象的だった。 トランプの柄を見て何かを考えるように押し黙ったヒソカの横顔を見ている間にも、電子音はけたたましい音を立てている。 「仕方ないなぁ……もしもし、珍しいじゃないかキミから連絡なんて」 やっと携帯を取ったヒソカは何食わぬ顔で話し始めたが、受話器越しの相手はご立腹らしく声に怒気が含まれていた。断片的に「連絡」がどうとか「すっぽかすな」とかそんな内容まで聞こえてくる。 何だかこのまま聞いているのは悪いかなと思ってその場をあとにしようとしたけど、急にヒソカが私の腕を捕まえた。 びっくりする私をよそにヒソカは行かなくていいよと目で促してくる。本当にいいのかなと思いつつも私は再び椅子に座った。 漏れ落ちる言葉を拾い集めてみるとどうやらヒソカは誰かと会う約束があるようで、ちゃんと来いという念押しの電話らしい。それも仕事に関することのようだ。友人と遊ぶような気軽な約束という感じではなかった。 やがて「はいはい、わかったよ」と言って電話は切られる。 「……仕事?」 「まあね。ちゃんと来いって。ボクがいなくても事足りると思うんだけどなぁ」 ククク、なんて悪びれもなく言う仕草からしてヒソカはすっぽかしの常習犯なのだろう。 すっぽかす辺りはヒソカらしい感じがあったけど、仕事と聞くと家と同じでやっぱりピンと来ない。 仕事をしているイメージがまるでないし、いったいどんな職についているのか気になった。 「盗・賊」 冗談めいた口調で言ってヒソカがにこりと口角を引き上げる。 「とうぞく?」 「そ。いろいろ盗んだりするのがボクの仕事さ、今のところはね」 「今のところは?」 「目的は他にあるんだ。それが済んだら抜けるつもりだから今限定」 「へえ」 目的は”他に”の部分が禍々しかったのを、私は見逃さなかった。ほんの一瞬、ぞわりとする一歩手前の感じがあったので、たぶんまた人を殺すことに関係しているのだろう。 目的はさておき盗賊が職業に入るのか激しく疑問が残ったけど、それより仕事をすっぽかしたら職を失う可能性もあるんじゃ……なんて別の心配が浮上した。 ヒソカの口振りだと今回もすっぽかしそうな勢いだ。 「仕事……行くんだよね? いつ?」 「今夜さ。夜だからあんまり気が進まないんだけどね」 「? 何かまずいの?」 きょとんとした私にヒソカは可笑しそうに笑う。 「だって夜はキミが……」 ピピピピっと再び絶妙なタイミングで鳴り出した携帯にヒソカはひとつため息をついた。そしてゆったりと立ち上がる。 「……今日は逃げられそうにないね。仕方ないから行ってくるよ」 「うん、いってらっしゃい」 言いかけた言葉が凄く気になったけど、それより行く気になった様子にほっとした。 「帰りは遅いと思うから先に寝てていいからね」 「わかった」 「……ひとりで大丈夫かい?」 「だ、大丈夫だよ」 そんな会話をしてしばらく、飛行船は高度を下げてどこかの空港に到着する。 外を歩いているヒソカの背中に目を向けながら、これからの時間をどう潰そうか迷いに迷って。 「やっぱり念かな」 やることといえばそれくらいしかないという結論に至り、基礎から応用まで一通りこなしてみることにした。 『だって夜はキミが……』 ふと携帯に遮られてしまったヒソカの言葉が、私が毎夜ヒソカのベッドに入ってくることを気にしての発言だったと気づいたのは、シャワーを浴びて自分のベッドに入ったときだった。 「ま、まさか本人がいないなら大丈夫……だよね」 だ、大丈夫大丈夫。どんな理由で人のベッドに入り込む癖があるのかはわからないけど、流石に本人がいないベッドに入るなんてことはないと思いたい。 もし朝起きたとき、ヒソカのベッドで目が覚めたらなんだか途方もなくがっくり来そうな気がする。でもこればかりは明日の朝、今寝ているこのベッドで目覚めることを祈るしかない。 一抹の不安を覚えつつも、ずっと寝ていなかったせいか瞼を閉じてから夢へと旅立つまでそう時間は掛からなかった。 静かでほんの少しだけ寂しい空気の中。 私はゆっくりと眠りの世界へ沈んでいった。 |