狩人夢 | ナノ

  09



新しいバスローブに身を包んだ彼女が、ぼんやりと眠そうにバスルームの扉から出てきた。
ああ、やっぱりまだ動くのは辛そうだ。ずいぶんと体力を消耗した様子でふらついている。
「大丈夫かい?」と問いかけても辛うじて頷きが返ってきた程度だ。
ボクは足早に彼女の傍まで行き、細い体をひょいと抱え上げた。
短い悲鳴だけでさした抵抗もない。何か言う気力もないみたいだ。

ボクは彼女の軽い肢体をそっとベッドの上に下ろし、その隣に寝そべった。
隣室に寝かせてもよかったけど、たぶん時間が経てば這ってでもこっちに来るだろうしね。
だったら今一緒に寝ても同じ事さ。

彼女はすでにうとうとしている。なんだか子供の世話をしているみたいだ。
気まぐれに湿りを帯びた彼女の髪をそっと梳いてみる。
すると彼女は静かに目蓋を開いた。そしてのろのろと手を伸ばし、ボクの胸に触れる。

――ああ、まただ。

昨日も一昨日も、彼女はベッドの中で同じ事をした。まるで何かを確かめるように、そっと触れてくる。
おそらく心臓だね。腕を通して彼女はボクの心音を感じ取っているみたいだ。
眠るとき、あるいは寝ているときの癖なのか、それとももっと意味のある行為なのか。今のボクにはわからない。

やがて彼女は心底安心したように体の力を抜いて寝息を立てる。

彼女の意識的な言動は至って平凡、押し倒したときの反応も普通の女の子となんら変わらない反面、無意識での言動はずいぶんと変わっている。
加えてボクの殺気を真っ向から受け止めたときの瞳もまた、違う印象を持った。

今思い出してもゾクゾクするよ。
キミはずいぶんと闘いに慣れた眼をしていたね。それにあれは闘うのが好きな眼だ。きっと万全の状態ならボクの殺気に高揚していたんじゃないかな。

でも……おそらく“慣れている”事自体忘れちゃったんだろうなぁ。
彼女の今までのちぐはぐな印象からして過去がない、というのが一番しっくりくる。
念に関してもボクが指摘するまで使えるかどうかもわからない感じだったしね。
洗練されているようで無防備なのも、今までツんできた経験が真っ白になってしまったからだろう。

大体はそれで説明がつくんだけどひとつだけ矛盾もある。彼女がボクの存在を覚えていた事だ。
まあ、会った瞬間に思い出したのかもしれないけど、彼女とボクは面識ないんだよね。過去に会っていたのなら忘れないと思うし。
やっぱり不思議なところは残っているね。

ホント飽きないなぁ、このコ。
記憶喪失だけならそこまで興味を持たないと思うんだけど、言わば目の前の彼女は熟しそう、あるいは熟した果実だったのに、記憶を失う事で再び青い果実に近い状態へと戻ってしまったのだ。

だから正確に言えば青い果実じゃない。

失ってしまった経験が戻るまでどれくらいの時間が必要なのかはまだ計れないけど、少なくとももう一度鍛錬すれば、物凄いスピードで上達するに違いない。
念の基礎や応用がどの辺までしっかりしているのかは後々確かめるとして、あとはそれに見合った経験と勘を取り戻すだけだ。

まあ一番早いのは記憶を取り戻しちゃう事なんだけど……ククク、なんだろうね。
早く思い出して欲しい気もするんだけど、もう少し今の彼女を見ていたいとも思うんだよなぁ。

ボクの言葉にあたふたする彼女の素直な反応を楽しみながら、その一方でぐんぐん成長していく様を見てみたいね。
ああ、考えただけでゾクゾクする。

早く元気にならないかなぁ。そうしたらもっと楽しくなりそうだ。
彼女の規則正しい呼吸の傍らで、ボクもまた瞳を閉じた。



09.感謝と笑顔



人の順応性って凄い。
目が覚めて最初に思ったのはそんなことだった。
朝の日差しがカーテン越しでも伝わってくるベッドの上で、私はまたもヒソカと一緒に寝ていたことに気づいたのだ。
びっくりはしたものの、2回目のせいか最初ほどの衝撃はなかった。この調子だとあと1・2回繰り返せば驚かなくなりそうだ。

それはそれで不味いのでは思いつつ、すぐ横にあるヒソカの寝顔を眺める。
見れば見るほど整った顔立ちだ。さらさらの前髪から覗く閉じられた目元は涼しく、鼻梁はすっと高い。薄い唇も形が良くて、いっそ羨ましいくらいだった。

「そんなに見られると穴が開きそうだよ」
「わっ」

おかしそうに肩を揺らして瞼を持ち上げたヒソカに思わずどきりとする。

「お、起きてたの?」
「キミがあんまり熱っぽい視線を送ってくるからね」

今起きたような口ぶりだけど、なんとなく最初から起きていたんじゃ……と変な確信があった。
大体からしてヒソカが無防備状態なんてありえない気がする。よく見れば今日はベッドの中でも奇術師の格好をしていた。
メイクなしの髪が下りた状態なのでなんとも不思議な感じだ。

「調子良さそうだね。体はどう?」

聞かれてどうだろうと手を握ったり開いたりしてみると、昨日よりだいぶ動きやすくなっていた。

「手は動くみたい。この感じだと普通に歩けるかも」
「そう、それはよかったよ」

にこりと微笑むヒソカは心なしか嬉しそうに見える。
気のせい、かな。なんだかそんな風に喜ばれるとくすぐったい。

思い返してみればヒソカは最初こそ私を殺しかけたものの、飛行船に運んでからは親身になってくれていると思う。
それもこれも私が青い果実(仮)だからだっていうのはわかっているつもりだけど。

なんというか、最初に受けたヒソカの印象と今とではだいぶ違っている。
やっぱりあれかな。凄く弱っていたときに傍で手を握っていてくれたこととか、昨日の穏やかな時間とかそういうのが少しずつ影響しているのかもしれない。
警戒心がなくなりつつある。このままだとヒソカが優しいお兄さんに見えてしまいそうだ。否、もう見え始めているかもしれない。

「どうかした?」
「……なんでもない」
「そう? 何か言いたそうに見えるけどね」
「……」
「……」

黙っていても、視線は完全に「言ってごらん」と待ちの体制に入っている。答えないという選択肢は、取れそうもなかった。
ヒソカが起き上がったので、私も釣られるように起き上がる。

「……ヒソカが」
「うん?」
「優しく、見える」

どう言ったらいいのかわからないのでありのままを伝えると、少しだけ驚いたような顔をされた。
自分もまさか殺されかけた相手にこんな言葉を掛けるとは思ってもみなかった。

「最初に会ったときは正直危険な人だって思ったから」
「否定はしないよ」

私の見解にヒソカはあっさりと同意。

「……でも私はヒソカに助けてもらってここにいるから」

ヒソカが助けてくれなかったら、きっと私はあの場で死んでいた。
昨日は意識が浮上したばかりのせいか思い出せなかったけど、今なら夢うつつに苦しんだ記憶がおぼろげながらある。酷い虚無感だった。手を握っていてくれたからこそ助かったんだと改めて思う。

……そうだ、まだお礼さえ言ってなかった。

「だから、その……ありがとう、助けてくれて」

その言葉が意外だったのか、ヒソカは少し驚いているようだった。

「まだちゃんと言ってなかったよね。最初に言わなきゃいけなかったのに」

ほんとにありがとう。そんな思いと一緒に笑顔を向ける。
助かってよかったと心底思うし、助けてもらえたことも素直に嬉しい。今になってようやく実感出来た。
なんだか笑うのが信じられないほど久しぶりな気がする。やっぱり人間笑顔が一番だなーなんて暢気なことを思った。

「……キミは」
「うん?」
「いや……どういたしまして」
「うん」

今度はヒソカの方が何か言いたそうだったけど、すぐにいつもの笑みを浮かべたのでなんとなく聞けなかった。
沈黙が少しだけ居心地悪くて私は咄嗟に別の話題を探す。そういえばさっきから飛行船の高度が少しずつ下がっているみたいだ。

「ねえヒソカ。もしかしてこの飛行船、どこかに下りる?」
「ああ、そうだった。実はちょっと用事があってね」
「用事?」
「そ。約束があってね」

何の、とは聞かなかった。
だってヒソカが妙に邪悪な笑みを浮かべていたから。あのとき――襲いかかって来た敵を切っていたときと同じ顔。だからたぶん誰かを殺りに行く、とかそんな感じだと思う。

……優しいお兄さんじゃなくて、優しそうに見えてかなり危険なお兄さんに訂正しよう、うん。
と、脳内メモを書き換えているうちにヒソカがベッドから出ていった。

「それじゃ、ボクは行って来るよ」

「船内の物は好きに使っていいから」と付け足してヒソカは軽い足取りで扉へと向かう。

まもなく飛行船はどこかの島へと着陸した。窓の向こうには鬱蒼と茂る木々と草花が見える。
無人島……? なんて思いつつ再びヒソカに視線を戻して、私は瞠目した。
なんとそこにはばっちり奇術師スタイルに様変わりしたヒソカが立っていたのだ。後ろに撫でられた髪と、頬に施された独特なペイント。
初めて出会ったときとまったく同じ状態の奇術師がそこにはいた。
今の今まで確かにノーメイクで髪も下りていたはずなのに。
目を離したのは窓の外を見たほんの数秒だ。

「い、いつの間に」
「奇術師に不可能はないのさ」

なんて、ヒソカは満足そうに笑った。

「そうだ、言い忘れてたけど」
「ん?」
「ベッドのところに置いてあるジッポー、キミのだから」

ベッドの上を指差すヒソカにつられてちょこんと置いてあるジッポーを見る。
最初に見たとき浮いている気がしたのは間違いじゃなかったらしい。

「キミの服をクリーニングに出したときポケットに入っていてね。彫ってある絵はユーリだと思うけど」
「ユーリ?」

聞き覚えのあるそれは、幻と謳われる希少な花の名前だ。
言われてジッポーを手に取ってみると、確かに蕾状態の花が描かれていてその下にはユーリと文字が彫り込まれている。

霞がかった記憶の向こうに、七色の花びらが舞う光景がちらついた。
私はこの花を知ってる……?

「キミの記憶の手掛かりになるかもね。じゃあ、行って来るよ」
「あ、うん。……いってらっしゃい」

ドアの向こうに消えていくヒソカを見送って、私は再びジッポーに視線を戻した。
確かに記憶を取り戻すきっかけになりそうだ。
ん? 記憶?

「あれ……?」

私、ヒソカに記憶喪失だって言ってないよね?

「…………」

奇術師って一体何者……と、ワンテンポ遅れて私はひとり驚愕した。






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