08 窓から溢れる朱色の光が、部屋全体を満たしている。ベッドサイドに腰掛けているヒソカの横顔もまた、綺麗に染まっていた。 もう夕暮れだ。 今日はずっとベッドの中だったけど、なんだか一日がとても早く感じた。 意識がはっきりしたと言ってもまだ本調子には程遠く、寝ていた時間が多かったせいもある。 でも一番の理由は、ヒソカが傍にいたから……だと思う。 知り合いも思い出もない今の私にとって、こんな風に誰かと一緒に過ごすこと自体が初めての体験で新鮮だったし、それに……なんて言えばいいのかな。 ヒソカが危ない人だっていうのはわかっているつもりだけど、少なくとも一日過ごしたこの時間は決して危険なものじゃなかったと断言出来る。 からかわれることも多かったけど、私がまどろみ出すとヒソカはちょっとだけ優しくなったような気がした。 何の気まぐれか、うとうとすると時折その大きな手で私の髪を撫でることがあって。おまけに「子守唄でも歌おうか?」なんて冗談交じりに囁く声が思いのほか労わりの気持ちが感じ取れたり。 とても穏やかでゆったりした時間。木漏れ日の中でうたた寝するような、あったかな感覚。 ひとりじゃないっていいな――なんて思ってしまった。 特にこれといって特別なことがあったわけじゃない。けれどヒソカと同じ時間を共有していたら、自然と退屈することはなかった。 時たま用意してくれたりんごも美味しかったし。 そういえばりんごを差し出すヒソカは嬉々とした感じだったけど、ふと彼が内心ではどう感じていたのか気になった。 私は寝ている側だからいいけど、一日中何もしないでベッドサイドに腰掛けてるだけのヒソカは退屈だったんじゃないのかな、なんて。 「そんな事ないよ。むしろ楽しかったかな」 問いかけてみたら返ってきたのは意外な言葉。 その言葉を聞いて、何故か私は少しだけほっとしていた。 08.せめてシャワーを 水も滴るなんとやら。 窓の外に見える空が夜のしじまに包まれた頃、シャワーを浴びてきたのか濡れた髪をタオルで拭きながらヒソカが部屋に戻ってきた。 バスローブを着ていたことに内心安堵の息をつく。 「今日はどうする? ボクはこのままでいいと思うんだけど」 視線をこちらに向けてヒソカが笑った。 一瞬何を言われたのかわからなくて、私はきょとんとする。 今日? このまま? 「……え?」 「言っただろう、キミがボクのベッドに入ってきたって。ここ、一応ボクの部屋だよ」 そこまで言われてやっと合点がいった。 少し考えればここがヒソカのベッドの上だとわかるのに。すっかり頭から抜け落ちていた。 人のベッドを一日占領してしまったのだ。 「わ、ご、ごめん。すぐ移動するっ」 「ん? 別に構わないよ、ボクは」 「私が構うよ……んぐっ」 そろそろ動くのではと腕に力を込めてみる。しかし体は石のように硬い。健闘虚しく上半身を起こすのがやっとだった。これだと立てたとしても歩くのは無理かもしれない。 一体どれだけ強力なガスだったんだろう。 吸ってから3日くらいは経ってるし、そろそろ動いてもいいはずなのに。 「無理しない方がいいね。やっぱりこのまま一緒に寝よう」 「え、ちょ、ちょちょちょっと待って!」 ヒソカがベッドに入ろうとするのを見て思わず静止の声が出る。しかも思いっきりどもってしまった。 いくら大きなベッドとはいえ、一緒に寝るなんて問題ありすぎる。 意識がなかったときのことはこの際置いておくにしても、意識のある状態は流石に耐えられない。 「べ、別の部屋に私を運ぶという選択肢は……?」 「んーないね。このまま寝ちゃった方が楽だろ?」 「いやいやいやいや! 楽とかそういう問題じゃ」 「照れてるのかい? 今更じゃないか」 「や、そ、そうだけど。ってそうじゃなくて、今日は流石に」 「大丈夫ナニもしないよ」 「そ、そそそういう問題でもなくて!」 何かされるとかそういう思考はなかったのに、ヒソカの一言で一気に意識してしまう。 だって何かするつもりならもうとっくにどうにかなってるはずだし……って、ちょ、何考えてんだ自分! 顔がだんだん熱くなってきた。 お風呂上りのせいかヒソカはなんだかいい匂いがするし、鼓動が煩くなる材料ばかりが増えていく。 あれ、というか私はいつからお風呂に入ってないの? 気づいてしまった瞬間、さーっと血の気が引いた。これはいろんな意味で酷い状況だ。 今までなんで気にしなかった! と、自分を問い詰めたいくらいだった。 「クックック忙しそうだね、百面相してるよ」 「だ、誰のせいだと……ってか待って待って! ベッドに入らないで近づかないで! ほんとお願いだからっ。お、お願いしますっ」 「んー? でもそろそろ寝たいしね」 「待って、あ、い、一緒に寝るならせめてお風呂っ! シャワー浴びさせて下さいっ」 「…………」 「……?」 私の哀れな懇願を最後に、何故か訪れた沈黙。 テンパり過ぎて何か変なことを言ってしまっただろうか? 「ヒ、ヒソカ?」 「……それは誘っているのかな」 「え?」 誘うって何を。 一瞬本気で考え込んでしまった。今の会話のどこに誘う要素が…… 一緒に寝るならお風呂に入りたい、と言っただけだ。 あれ。 でもそれって取りようによっては。 「ち、ちがっ」 「やっぱりキミって積極的だねェ」 「ひっ」 墓穴を掘った間抜けな私は、とんと軽く押されただけでふかふかのベッドに倒れた。そしてヒソカが真上から面白そうに覗き込んでくる。 私の顔を挟む形で両手をつき、覆いかぶさるような体勢だ。 ヒソカの赤い前髪からぽたりと一筋の雫が落ち、私の頬を濡らした。 ――空気が、一瞬で変わってしまった気がする。 ドッドッドと壊れてしまいそうな心音だけがやけに耳の奥で響いた。 やばいやばい。これは本当にまずい。というか怖い。 ヒソカが急に知らない男の人に見えた。 「そんな怯えた顔するなよ。ボクが怖い?」 怖い。今まで怖がらなかったのが不思議なくらい。 「クックック。冗談だよ、体が動かないコにどうこうする趣味はないから安心して」 目を細めてにんまりしたあと、ヒソカは私から身を離した。 意外なほどあっさりと離れた姿に気が抜けたのか、ヒソカは意外とノーマル……? なんてずれた考えが脳裏に浮かぶ。 その意外とノーマルらしいヒソカは昼間のようにベッド脇に腰掛けて、くくくと肩を揺らした。 「キミ、やっぱり変わってるなぁ。見てて飽きないよ」 「ええ? ふ、普通の反応だと思うけど……?」 首を90度にしても足りないくらい首を傾げたくなる。 「普通、だからだよ」 「?」 ますますわからない。ヒソカは興味深そうに私を見つめ、やがて立ち上がった。 「だってボクの殺気は少しも怖がっていなかったじゃないか」 ぽつりと呟いた何かはあまりに小さくて聞き取れなかったけど、なんとなくピンチは脱したらしい。 はーっと思わず大きな息をはいた。 「立てるかい? シャワー使うならそこまで運ぶよ」 「え?」 おどけたように笑い、ヒソカが私の前に手を差し出した。 もちろん出来ることならすぐにでもシャワーを浴びたかったけど、少なからず警戒心がうまれていたので素直に手を伸ばすことが出来ない。 「大丈夫。運んだらちゃんと出て行くし、鍵もついてるから」 逡巡した私の様子に間髪入れず安全性を主張するヒソカ。 差し出された手とヒソカの顔を交互に見つつ色々考えてみたけど、 「ね、行くでしょ?」 「……お願い、します」 結局私はその手を取った。やっぱり今の私にシャワーは必須だと言わざるを得ない。 「警戒心<シャワー」という酷く個人的な優先順位の結果だった。 そしてバスルームまでの短い道中。 「え、ちょっ」 なんと私はお姫様だっこという乙女の夢(?)を叶えてしまった。 「ヒ、ヒソカ! こ、これはちょっと恥ず……」 「最初と逆だね」 楽しそうに言ってスタスタ進むヒソカはまるで重さを感じていないような足取りだ。 こ、これだけ軽そうに持ってくれるなら……! 「に、荷物みたいに運ぶっていうのはどうっ? ほら、田舎のおじいちゃんが束の稲を小脇に抱えるみたいにっ」 「面白い例えだなぁ」 そうは言いつつも私の提案と言う名の要望は受理されず、お姫様だっこのままバスルームまで連れて行かれたのだった。 その後、バスルームの鏡に映った自分の顔を見て、おそらく十代半ば頃かなと適当に判断した。 珍しい紫色の瞳が印象的で、シャワーを浴びている間、不思議と目ばかりを見ていた気がする。 |