こぼれたミルク !マルコ(30前半)が浮気性


恋仲になって起こるさまざまな煩わしさよりも、ひとりでいることでごくたまに感じるすきま風の方が堪えやすいと思ってしまう。だからもう恋人をつくることはないだろうと思っていたし、実際に7年近く、そうしてきた。


「マルコ隊長!好きです!」

そんな中目の前に現れたのが、ナナシだった。歳はひとまわり以上も下の、見習いの『男』。世話を焼くのが好きな性分の所為か、同性からも好意を抱かれることは稀にあったが、今度の告白は甲板という衆人環視の中でおこなわれた。後先考えない。猪突猛進。空気が読めない。こども。愚直。元気溌剌。

「隊長のこと、隊長の恋人になりたいという意味で好きです!俺と付き合ってください!」
「…………」

後先のことを考えてしまうおれの頭は、周囲から囃し立てられる未来や、頭を下げてまっすぐに手をのばしてくる若者の今後、そしてこれからも共同生活をしていく関係性についてあれこれ考え、溜息でいっぱいだった。

「……すまねェな。家族とは、付き合わないことにしてんだよい」
「え!?でも恋人がいたことあるって」
「いろいろあったから、そう決めたんだ」

悪いな、と締め括れば、泣くのを堪える様に顔の中心に向かって力を込めていくナナシ。半分伏せられていた目は、しばらく見守っているとキッと力強く持ち直し、輝きを取りもどした。

「俺……マルコ隊長を好きであることを、やめられそうにありません。あなたのことを、まだ、好きでいてもいいですか」
「……おれが応えることはない。それをわかってんなら、思うのは自由だ。好きにしろよい」

────もっとバッサリ切り捨ててやりゃあよかったのに、とはサッチの言だが。あのなんの虚飾もない瞳に、びっくりするほど深く澄み渡った眼球にまっすぐに覗き込まれてもなお、心を固く閉ざせる奴がいるんなら、見てみたいもんだと思う。





「マルコ隊長!好きです!」

それから毎日、ナナシは挨拶の様に告白してくる様になった。はじめの頃は正直、しつこい奴だと思わなくもなかったが──。急速に盛り上がる奴は冷めるのも早い。ナナシも例に漏れず、すぐに飽きるだろうと思っていた。なのに、

「マルコ隊長!今日もカッコいいです!」
「隊長!惚れぼれしてしまいます!」
「マルコ隊長ーーーーーー!!」

「わァーったから、持ち場にもどれ」
「はい!」

マルコ隊長、マルコ隊長と懐いてくる光景が、誰からのツッコミも入らなくなるほどに日常の一部と化しても猶、ナナシの態度は寸分も変わらずにいた。酔って正体をなくしても愛の言葉を叫んでくるのだから、筋金入りだ。

「ナナシ、お前、まだおれのこと諦めらんねェのかよい」
「えっ……も、もしかして……うっとうしくなりました……?」
「鬱陶しいには鬱陶しいが……」
「……!」
「いやまァ、よく飽きねェなと思ってな」
「……マルコたいちょーには、毎日まいにち……あたらしい魅力のはっけんが、あります……あきるだなんて、そんな……」
「………………」

うとうとして、そのまま眠りそうな様子のナナシに、ふと。

「ナナシ。……もう一度おれに、告白してみろよい」

そう囁いた。がんばって視線を持ち上げたナナシは、いきなりの要求に疑問の一声すらあげることなく、愛を紡ぐ。

「マルコたいちょう……好きです。大好きです。こいびととして、俺とおつきあい、ねがえませんかァ……」
「────わかった」

心地よい風をあてられつづけた封は、糊が乾き、風化し、ついに解かれてしまった。

「しょうがねェ。付き合ってやるよい」
「…………………………う、ん……?」

その場では気絶する様に寝落ちてしまったナナシだったが。……いや、だからこそ。翌朝、半狂乱になりながら夢ではなかったことを確認してきたナナシは、現実であると理解すると、雄叫びをあげながら終日モビー・ディック中を駆けまわっていた。





「マルコ隊長!朝食持ってきましたー!」
「うるせェ……」
「すみません!」

朝、ナナシが食事と新聞をおれの部屋まで持ってくることが習慣になった。主におれの忙しさが原因で、なかなか二人きりの落ち着いた時間を取れない為、ならばすこしでも多くつくろうとナナシが始めたことだった。
着替え途中のときに入ってくれば、照れながら「失礼しましたー……」と逆戻りをしていったり。寝姿に見蕩れていた、なんて理由で二人とも遅刻になったり。ほんとうにこいつはおれのことが好きなんだな、という実感を日々噛み締めている。

実感は朝のときに限らなかった。ナナシは目が合うたびに、全力で手を振ってくる。それはもう千切れんばかりに。全体を見渡す癖があるおれは、ナナシの視線にもすぐに気がついた。前々からよく見つめてくることは知っていたが、恋人になってからというもの、幸せオーラをいっぱいに放って存在を主張してくる。その都度、恥ずかしい奴と笑ってしまうのだ。






手あたり次第の濫読から始まった読書の習慣は、いつしか自分の知識や好みで本を選ぶ様になっていった。それでもたまに、概要も知らない本を、タイトルや装幀が気になったという理由だけで手に取ってみることがある。
──最低なことを承知で言うと、それと同じ感覚で、そぶりを見せてきた相手の誘いにのることがあった。長年染みついてきた癖。ごくたまに吹いていくすきま風を埋める方法だった。さすがにナナシと付き合い始めてから魔が差してしまったときには、罪悪感をおぼえたが。


「海賊なら、そういうもんですよね」

娼館へ寄ったことを知っていたナナシは、ぎこちない笑顔で言った。

「俺にはおっぱいも可愛いおケツもないですし、仕方ないですよ。恋愛のドキドキと体のムラムラって別物だと思いますし。それにほら!その人はそれで食べてるわけだし、きっと誘い方も上手くて、だから、その……」

──大丈夫です。と力なく呟くナナシは、いつもの朗らかな顔を翳らせ、憂鬱な気をただよわせていた。その姿に、胸が早鐘の様におどる。ナナシに対して明確に心惹かれたと思ったのは、この瞬間が初めてだった。
その肩を抱きしめてやりたくなって。優しく引き寄せ、ナナシの体に力強く腕をまわした。赦しを請う様にそっと瞼にキスを落とす。ナナシは逃げることもなく、静かに見つめ返してきた。今度は口元へ唇を寄せる。拒まれることなく重なると、次第に深くなり、舌が絡んだ。そのままシーツの中へと沈んでいく。

ナナシの言うとおり、恋愛感情と性欲は別物だ。ナナシには言えないが、男のからだと女のからだ、どちらの方が興奮するかといえば女の方が断然気持ちいいと感じる。だが、大切にしたいと思うのはナナシ。心が充たされるのもナナシだった。上辺だけではない繋がりを持つ相手との抱擁には、心臓の深部をあたためられる。長いこと忘れていた感覚だった。

それぞれ別のものが満たされる。


:


「やっぱやめる」

ジョアンナの熱がすっと引いていくのが分かった。ナナシがまさに今から始まろうとしていたこの現場に遭遇し、出ていったあとの会話だ。

「あたしどうかしてた。ナナシを悲しませる様なことするなんて。ああもうほんっとバカ!」
「もういいのか?」
「愚痴聞いてくれてありがとう。別の意味で落ち込んできたけどもういい、ナナシに謝んなきゃ。赦してもらえるとは思わないけど……」
「ナナシは根にもつ奴じゃねェよい」

ジョアンナはなにか言いたげな目線を送ってきたが、黙ったまま服を拾いあげ、着衣を始めた。

「アンタさ、うちの新人の子にも手ェ出したって?」
「出してねェよい」
「キスしたって」
「あァ……ありゃあ。告白されて、恋人がいるって返事したら。思い出がほしい、そうしたら諦めますっつーから……」
「しょーもない男。いつか捨てられるよ」
「それはねェよい」

笑って返すと、シャツを羽織ったところでジョアンナの手が止まった。今度こそ明確に、その顔には怪訝の色を宿している。

「それ、本気で言ってる?」

思いがけず真面目な調子で言われ、下手なことも言えずに閉口していると、ジョアンナは呆れた様子で溜息を吐いた。

「……初めてなんでしょ、ナナシみたいな子。アンタから甘えてくタイプじゃないもんね、いつでも愛情示してもらえるからって慢心しちゃって」
「慢心とはちがう」
「してる」
「…………」

そりゃあ、勿論ナナシだって一人の人間であり、自分で判断する意思くらいもっていることは分かっている。契約ともちがう恋人という関係は、どちらかが降りてしまえばふっつりと切れてしまうものだということも。それがある日突然やってくる可能性がゼロではないということも。
けれど、その危機感は大病に対する程度と同等のものだった。隣り合わせであることを頭では分かっている。しかし、常に意識しろというのは難しい。

「大切にしてあげなよ。あたしが偉そうに言えたことじゃないけど」


────扉が閉まってしばらく、ベッドに横になりながら一人でいろいろと考えていた。最近の、ナナシとの付き合い方についてだ。

朝。ナナシが喋って、おれが頷く。それだけでナナシは満足する様だったので、こっちから話題を振ることはなくなった。

周囲に視線を巡らせることが減った。ナナシが腕をめいっぱいに伸ばし、犬のしっぽの様にぶんぶんと振る。それを期待しながら、そうなったときの煩わしさを想像し、ふと動きを止めることが多くなっていた。

突き放したくなったわけではない。ただ、日常の一つ一つの事柄が、当たり前になり過ぎたというだけだ。





「マルコ隊長以外とキスしました」

翌朝。いつも通り、新聞とトレーを持ってナナシがやってきた。おれに手渡すときにも、昨夜のことに関して一切尋ねてこようとはしない。ジョアンナはナナシに謝りに行ったんだろうか?そんな考えを巡らせていたとき、突拍子もなくそんな報告をされた。
『誰かとキスをした』。
罰ゲームやアクシデントで?いやきっとちがう。どういうことだ、だとか。相手は誰だ、という疑問よりも先に湧き起こってきたのは────感心≠セった。

「そうかよい」

無垢だったものがくすんでいく、その瞬間に立ち会った気がした。がっかりなどしない。染め物が時間の経過とともに風合いを増していく、それと似た様な感覚だった。潮風に晒された肌に、純白のシルクは馴染まない。

「……俺。もうちょっとだけ浮気、してみようと思うんです」

その言葉を聞いて、気を引かせたいだけのウソかもしれないと思った。

「いちいち報告することかよい」

だが、いつまで経ってもウソだとは白状されないので、キスは事実なんだろうと結論付ける。わざわざ報告してくるなんて、真面目な奴だ。では一体どこまでいったんだろうか。キスだけで済ませた?その先は?尋ねてもよかったが、ナナシの思惑に乗ることになる様な気がして、ひとまずコーヒーを啜って言葉を飲みこんだ。真面目という部分を除いても、おれの嫉妬を期待していた思惑はまちがいなくある。
冷静に考えてみれば、おのずと答えは導きだされる気がした。ナナシは『遊び』という感覚を知らない。キス一つで腰砕けになるほどに経験も浅い、そして気持ちが表に出やすい性格だ。ならばもし、恋人以外と一線を越えていたなら、それはそれは罪悪感で押し潰されそうな顔をするはず。

見遣った先の顔は────きれいな、なんともいとおしくなる憂いを帯びていた。


「ま。楽しむといいよい」

魔が差す瞬間をおぼえようと、心移りしていくことはない。なぜか、そう信じ込んでいた。






それからの距離感は、おれにとって心地のいいものとなっていった。

朝食は各自、食堂でとる様になった。時間が合えば相手の隣に座る。二人のあいだに会話はなくてもいい。周囲にたくさんの仲間がいるのだから。

全体を見渡す癖がもどった。ナナシがよそ見をしていることもなくなった。たまに目が合えば、あいつはにこりと微笑む。そうしてすぐに作業へともどっていくから、班員から叱られる場面も見かけなくなった。


「アンタ達……ほんとに大丈夫?」

とは、ジョアンナからの言葉だ。あの夜以来、ジョアンナはおれ達の仲を気にする様になったらしかった。ちょうど翌日から、微妙な変化が生じたことにも気づいているのかもしれない。

「もし気にしてんなら、お前の所為なんかじゃねェよい。ようやく落ち着いてきたってだけで、なんともねェから」

と返せば、ジョアンナは複雑そうな表情をしたのち、細めた瞳を翳らせた。そこからサッチと話しているナナシを一瞥して、さらになにか伝えたそうにしていたものの。「……ナナシの話、ちゃんと聞いてあげなよ」と言い残していくのみ。

「?」

ナナシの口数は近頃たしかに減っている。しかし完全になくなったというわけでもなかった。一緒にいるうちに取り立てて話すことがなくなるのは自然なこと。ナナシもきっと学んできたのだろう。若いなら、最初のうちは好きになった相手と結ばれて舞い上がるのもしょうがない。

けれど関係を長続きさせる為には、何事も『ほどほど』の距離感がいちばんだ。








「────マルコ隊長、お別れしましょう」

そうしてそれはある日突然やってきた。
恋人になって、一年を迎えようとしていた頃のことだった。


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