マタタビの血 


「不愉快だ」

観光都市のホテルのメイクスタッフから給料アップと安定感を目当てにエニエス・ロビーの清掃スタッフになって早1ヶ月。担当している部屋の主とはじめて顔を合わせたわけだが、彼が部屋を出ていく通り際に挨拶をしただけで冒頭のセリフを言われる事態と相成った。え、ええ、俺、何しでかしちゃいました……?

「香水をやめろ」
「…………申し訳ございません」

頭をさらに深くさげて謝罪の言葉を述べれば、視界からお高そうな革靴が去っていく。足音が遠ざかったのを確信してから頭をあげると、体を限界まで反らして声にならない叫び声をあげた。

「(かー!いちばん目をつけられてはならない人の機嫌を損ねてしまった〜〜!)」
「なに変な踊りしてんだ、ナナシ」

別室担当の同僚くんがリネンワゴンを携え登場。瞬時に詰め寄りそのうでに縋りついた。

「忌憚ない意見を求む」
「は?」
「お、俺って、クサい……?」
「……いや、べつに。なんで?」

だよなあ〜〜!ホテルスタッフ時代に清潔さが大事って叩き込まれたし今もちゃんと気を付けてるし!

「香水なんてつけてないのに……!不愉快だって言われた……!」

でも反論できませんよね。楯突くみたいですしね。お金と命が惜しい。

「あらまァ。誰に?」
「ロブ・ルッチ」
「うわ」
「うわってなるでしょ!?怖いでしょ〜〜!」
「香水なんて言うくらいだからよっぽどつよく感じたんだろうな。おれにはよく分からんが」
「ハァ。シャンプーの匂いかな……」

まだ容量いっぱい残ってて勿体ないけど、変えるか。
──なんていうことがあってから数日後、ふたたび相見えたロブ・ルッチにいきなり指銃をくり出されました。不機嫌MAX!

「やめろと言ったはずだ……」
「……!!」

体に当てられなくて良かった!マジ壁で良かった!体温が2度くらい下がった気がする。壁ドンって噂にたがわぬドキドキ感ありますね……!?人のゆびで壁に穴あけられるって何!

「も、申し訳ございません……香水はすぐに使用をやめております。シャンプーも香料不使用のものへ切り替えました。たいへん恐縮ですが、どういった匂いか、詳しくお教えいただけますでしょうか……?」

香水なんて使ってねーわ!と言えない悲しみ。かといってなにも努力してないと思われても癪なので出来うるかぎり実践したことを話してみる。それでも匂ったということは、洗濯物の洗剤はスタッフみんないっしょの物だし……体臭しかないじゃん!デリケートな話題だわ!と内心喚いていたら、襟をぐっと引寄せられ、耳のうしろあたりをすん、と嗅がれた。ち、近ァ!これクサかったら今度こそ人体に穴あけられるなんて展開じゃあないよね……?ドキドキがとどまるところを知らない。

「……確かにすこしちがうな」

それ根本的には変わってないってことじゃあないですかー!?

「ももも申し訳ございません!全力で対処いたします!」

冷や汗も止まらないしこれ以上は耐えきれないということで言い逃げする形で退却した。よくこんな良い条件の求人あったな、と思ってたけどなんとなく理解。住人が気難しすぎる!そして経験者とはいえ入って間もない新人の俺がCP9のプライベートルームなんていう重要度高いであろう部屋を任された謎も解けた。ロブ・ルッチの担当者長続きしたことないな!?
そんなこんなで早速上にかけあいまして、配置換えしてもらうことになりました。評価はめちゃくちゃ下げられたろうけど、命あっての物種です。


────そんな俺が現在向かっている場所がロブ・ルッチの部屋って、どういうこと……?

押しているのはシルバートレイをのせたワゴン。そこにはアイスペールとロブ・ルッチ専用だという光沢の美しいグラスが鎮座している。これらを持ってこいという命令はわかるとして、なぜ俺が『指名』されたのか。個人名ではなく「前の部屋の掃除担当」みたいな言い方をされたらしいのでなんだかわるい予感しかしない。う、胃が。しかし文句を言うにしては遠回しすぎる気がしなくもないし……。
下げた目線の先にお高そうなグラスを認めて気を引き締めなおした。割ればそれこそ何を言われることやら。このグラスをトレイからテーブルへ移すまで、緊張しっぱなしだった。

外は明るくとも、時刻は夜だ。不夜島のエニエス・ロビーに夜空はない。真っ昼間の様な明るさのなかお酒を楽しんだってかまわない。ただ──飲み終わるまで『待て』とはどういうこと?片付けるときに改めて呼んでくれればいいから出てっちゃダメ?え、一度で聞け?そっか、ダメかあ……。特にやることもないのにな……。
無事指定の物を届けてさっさと去ろうとしたのに、「待て」と呼び止められて、今。彼の視界に入ってると落ち着かないからはしっこに立ってますよ、と言ったのにそれすら却下され、言われたとおり長椅子に座って待機していた。気持ち的に深く腰かけられないからこころも体も休まらない。斜めよこでは肩にハトをのせてブランデーを味わっているロブ・ルッチ。俺ほんとなんで此処にいるんだろ。部屋にもどりたい、と唱えること数十回目。

「担当の交代を申し出たそうだな?」
「──!」

突然切り出されて体の筋肉がこわばった。背筋がひんやりして流水でもかけられたかの様。

「……はい。未熟な私にはまだ学ぶべきことが多くあると感じ、担当の交代を申し出ました」
「元に戻しておいた」

氷がグラスにあたるカラン、と乾いた音が響く。

「お前の仕事の方がいい」
「……恐れ、入ります」

わからない……!こんなときどんな顔すればいいかわからないの!混乱している俺にロブ・ルッチがさらなる追い打ちをかけてくる。

「相変わらず、匂いは撒き散らしている様だが……」

だから俺なんで此処にいるの?!そんな心の叫びとともに口端から血が流れでる気分になったのも無理からぬことであろうよ。
そもそもプライベートなリラックスタイムに俺が同席していること自体おかしい。ロブ・ルッチならひとりで味わうか、せめて気を許した相手数人を招くくらいなものだろうに。

「お前も飲め」

キャビネットから別のグラスを取り出してきたロブ・ルッチ。部屋にもあるんかい!問答無用で上等なブランデーを注いで、差し出してきた。氷が入ってないのはわざとなんだろうか。

「あ、あいにく、不調法なもので……申し訳ございません……」

ロブ・ルッチは一旦目線をはずすと、グラスをテーブルへ置き、おれの目の前にまですべらせてくる。無言の圧力。沈黙はやぶられない。心なしか視界が狭まってきた。う、胃が。

「じゃあ……すこしだけ……」

おれは!圧力に!負けた!
ビールなら普段からゴクゴク飲んでいるので、お酒が苦手というわけでもない。けれどやっぱり、グラスの内側にたまった度数の高いお酒特有のアルコールには眉を顰めかけてしまった。薬でものむ様に、舌先でちびりと嘗める。すると、濃厚な味わいの奥に果実のほのかな甘みと木樽の名残を感じられて、鼻からぬけていく芳醇な香りに脳がとろかされていった。元々注がれてあった量はそんなに多くなかったと思うのだが……。

恐ろしいことに、記憶は一旦ここで途切れている。


────しゃべるモアイに座布団にされる夢を見ていたところで、ぼんやりと意識が浮上した。カーテンが閉じられているのか、部屋はうす暗い。よこになっている椅子はさっきまで座っていた長椅子の様だった。そこに堂々と仰向けになって潰れている。大胆な寝相だ。だって、そう、此処は、ロブ・ルッチの部屋なのだから……。

「(はっ)」

飛び起きようとして、起き上がれなかった。体の上に豹≠ェのっていたからだ。豹=c…?──脚を組んで優雅に寝ている猛獣に一瞬、金玉が縮み上がったものの、まわらない頭をどうにか働かせてロブ・ルッチだ≠ニ気がつく。ネコネコの実。モデル・レオパルド。実際に見たのははじめてだったが、こんな場所にいる危険生物など不自然極まりなかった。豹の背中に見知ったハトが眠っていたので、推測は確信に至る。
ロブ・ルッチは俺の体に完全にかぶさる様にのっていて、その前脚に胸を押さえつけられているおかげで、下敷きになっている俺は首をちょっと上げることしかできなかった。はて、さて、これはいったい?俺ハイッタイ何ヲシタ?状況がさっぱりわからない。できれば考えたくもない。そっと抜け出せやしないかと彼をどかすことも試みてみたが、豹の体は重いし、半ば液体みたいに柔らかいしで上手くどかせそうになかった。

「(え〜……!)」

頭のてっぺんを掻いたりしながら、悩むこと数分……────結局、図太く二度寝することにしたのだった。
次に起きたのは、早朝。乱暴に蹴って起こされた。あわてふためいたことで長椅子からずり落ち、座面を背もたれの様にしてカーペットに座り込むと、テーブル越しにお風呂上がりらしいロブ・ルッチが立っていた。カジュアルな私服姿に、しっとり濡れた癖のある黒髪。

「いつまでそこにいる」
「……っも、申し訳ございません!」

あたりを見まわし洗うべき物たちを回収していく。すべてをワゴンにのせると「失礼します!」と可能なかぎりのスピードを以て退室した。パタン、と丁寧に扉を閉じ、ワゴンのハンドルをつかんだところで、ようやく呆然とする余裕ができる。

「……………夢……?」

呟きは、しずかな廊下にぽつりと落ちて消えていった。起き抜けというのも相俟って脳みそが現実の半歩うしろにいる。ゆっくりとワゴンを押しながら、状況を整理しはじめた。うしろのあそこはロブ・ルッチの部屋。今の時刻は朝。寝てしまったことは事実、それも恐らく酔いつぶれて。……なんたる失態。だがそれ以上に悩ましいのは──。

彼が、豹の姿で、おれの上で寝ていたような?

「……………………」

どう絵面を想像してみても嘘っぽい。長椅子で一晩過ごすのを許してくれたことも充分驚きだが、もしあの光景が事実なら、その衝撃は遥か上をゆく。さっきの彼の態度は何事もなかったかの様だった。尋ねていたら、なにか答えを得られたんだろうか?

「…………ムリだ。訊けない。ムリムリ」

説明できやしない。殺戮兵器と恐れられる彼の、あんな『甘え』たみたいな姿。

「俺の夢……そうだ夢にちがいない!」

その後、使用人部屋にもどったら、同僚をはじめスタッフ達から怒り混じりの笑顔でもみくしゃにされた。どうやらロブ・ルッチの部屋へ呼ばれたことは知れわたっており、そのままいつまで経っても帰ってこなかったので、すでに命はないものと思われていたらしい。特に同僚はものすごく心配してくれた様でちょっぴり泣いていた。この職場好きだなあ、と思った瞬間だった。






やけに鼻にまとわりつく匂いをたどれば、ひとりの使用人に行きついた。

「不愉快だ。香水をやめろ」
「…………申し訳ございません」

ロブ・ルッチの部屋を担当している掃除夫だった。その匂いはルッチの嗅上皮にふかくとけこみ脳をくらりと眩ませる。ほんの一瞬だったが、酒に酔うこともすくないルッチには思いがけない平衡感覚の消失であり、見過ごすことなどできない不測の事態だった。どうして匂いだけでそうなったのか説明はつかない。自覚はないが体調が優れなかったか、匂いの成分と相性がわるかったか。しかしそれらの推測には違和感があった。あのとき感じた匂いはむしろ、ルッチにとって好ましいものに感じられたからだ。
二度目に嗅いだとき、ルッチの脚はかすかによろめいた。傍にはやはりあの掃除夫。危機感から、本能的に攻撃していた。

「やめろと言ったはずだ……」
「……!!」

青ざめた顔をして、どんな匂いか?と尋ねてくる掃除夫。その様子が心底戸惑っているふうに見えたので、ルッチは不思議でならなかった。誰にも指摘されたことがないのだろうか。ルッチの鼻にはこんなにもつよく、濃く、脳髄に痺れがはしるほどはっきりと感じ取れるのに。掃除夫を近くへ引寄せて嗅ぐと、自己申告のとおりシャンプーが変更されたことはわかった。だがそんな香りなど霞むほどに、圧倒的な存在感を放っている独特の匂いがある。いつまでもぼやけることなくふくらんで、細胞の隅にまではいりこみ身心の緊張をほぐしていく様な、気だるい眠りすら誘うその風韻は、愛飲するブランデーのかぐわしさに似ていなくもなかった。

ルッチの前からフェードアウトしていこうとした掃除夫を呼びだし、じっくり観察してみることにした。──なんてことはない凡夫だった。警戒したのが馬鹿ばかしくなるほどに特筆すべき点がない。遊びでブランデーを飲ませてみれば、驚くほどかんたんに酩酊した。そうして──、匂いの濃密さがましていく。まただ。ルッチは鼻をふさぐ。頭の芯に眩暈が起こるのを感じた。久しく感じたことのない、アルコールに脳を麻痺させられる様な感覚。気づけばルッチは、その身を獣化し、掃除夫を長椅子に押し倒していた。

「やはり、なにか……っつけて、いるな……?」
「つけてませんー!最初っからなーんにもつけてません〜!香水なんてシャレたもんつけませんー!」

男も相当できあがっている。侵蝕してくる芳香に、もう、ルッチは我慢が利かなかった。男の腹や、胸や、首に──『頭突き』をはじめる。ぐりぐり、と時折ちからを入れては顔もこすりつけていった。その姿は酩酊している様でもある。一方、実際に酔っている男は、あごの下をなでていく毛の感触にくすぐったそうな顔をしながら、やがて豹の背中にうでをまわすと、「猫ちゃん」と呟きながらルッチの毛並みをととのえはじめた。

「ふは、かあいい……」

男の手のひらは、ルッチの背筋からだんだんと上へのぼっていく。首や肩をかるく押してマッサージすると、耳の付け根、頭のてっぺんなどをゆっくりなでていった。ほどよい掻きなで方は慣れている者の手つきだ。ルッチの眼がゆるやかにほそめられていく。その視線をやさしく受けとめ、男は独り言の様に語りはじめた。

「そういえば、昔っから……お前の血にはマタタビが入ってんのか?って、よく言われるんですよねェ。猫ちゃんにね、懐かれやすいんですよ……自由猫でもね、傍でじっとしていると、寄ってきてくれて……こんなふうに、すりすりって……」

自由猫とは、野良猫をさす造語だろうか。ルッチは体のあちこちがむず痒くなる様なもどかしさにおそわれ、男の顔のよこに両手をつくと、無防備なそこかしこに存分に体をこすりつけていった。

「きみももしかして、俺の血にメロメロですかァ?」

しあわせそうなひびきをもつ男の甘ったるい声。自らに向けられるそれを心地よく感じながら、豹のルッチは満ち足りた様子でのどを鳴らしていた。


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