九十九 願造

「物」に宿った感情「残留思念」を見抜く力を持つことを誇りに思うことだってある。見えてしまう「思念」によっては、目玉を抉り出してどぶ川に投げ捨ててやりたくなるほどに過酷なものだってある。それでもこの力は自分にしか扱えない、だからこそ自分は人格者としてこの力を最大限活かさねばいけない、という自負もある。人のため、あるいは人の力にならないように、また、純粋に、力を持ってしまったため、自分の好奇心を満たすため頼み頼まれ1人の人間には有り余るほどの、他人の感情を背負ってきた。それは壷、それは鏡、それは人形、それは土地、それは洋服、それは掛け軸、それは石ころ、それは地図…なんでもある。それは人が思いをこめてそれになる。意図的、無意識、知らぬ間に。思いが篭り、力が産まれる。そういうものから害を受ける人々は少なくなかった。古い時代は少ない物を長く使うのが当たり前で、そうすれば次第に物への愛着は強くなる。思いが生まれる。その思いに篭った力にのまれ手放せなくなることは、ある意味で一番厄介なことだ。亡き人の愛用品によって遺族が被害を受けることがあれば、話し合いを重ねてその「思念体」を預かった。その思念体をと向き合い、あるいはその力が他の人間のためにならないかと思案した。いい考えが浮かべば、またその対象となる人物と話し合いを重ね、人の思いの篭った…たとえソレが、今は亡き人だとしても、生前大事に思いをこめて使っていたものなんだと理解させた上で、その尊く純粋な(生半可な気持ちが物に宿ることは無い。悪意であろうと善意であろうとそれは酷く純粋な強い強い思いである)力を譲渡した。思念体を誰かに譲った後は、少しの間、決まって虚無感にとらわれた。まさに心にぽっかり穴が開いたような気持ちになった。思念体とは、生きている人間に、そう思わせることがある。思念体に篭められた思いを、生きている人間に同調させ、まるで篭められていた感情は、同調された人間の感情そのものなんだと、感情を奪われてしまうことがある。それが危うい。危ういことだ。

「願造さん?」

脳みその奥から光が沸いてくるような声。空気を揺さぶる声自体が輝いて目に映すことができそうなほどに、圧倒的な、声。体をゆすぶる様な声。それは声でしかない。他のものはすべて虚像。イメージに過ぎない。

「おなまえ…」
「願造さん、また髪が乱れて」

くすくすと口元を隠しながらおなまえが、スカートのぽけっとから大事そうに布にくるまれたべっ甲の櫛を取り出した。ふくらはぎまでの上品なスカートは派手すぎない明るい色で、我々が座り込んだ芝生の青に柔らかくよく映えた。布を手のひらに載せて、もう一方の手でゆっくりと布を広げた。とろっと溶け出して形を崩してしまいそうなその櫛は、あたたかい光を反射させた。照れると髪をぐしゃぐしゃとやってしまう私の癖を、彼女は笑った。犬のようだとか、おかしな理由で笑った。それでも、その当時の私は若くてバカで、恋をしていた。なんだっていい、彼女が笑ってくれるなら、何だってよかった。犬だと言われようが虫だと言われようが単細胞生物だと言われようが、彼女が笑ってくれればなんだってよかった。櫛を軽くつまんで私の前髪にそっとかける。くしゃくしゃになったおかげで絡み合った髪がちっちと音を立てた。私が痛くないように、と彼女の手つきは繊細で、ゆっくり、ゆっくりと私の髪を解き梳かした。心地よい風が吹く。彼女の手がふいと私の耳に触れる。後ろの髪を梳くために、そっと肩に首に触れる。延々と、この時間が続けばいい。そう思っているのは、もちろん、私だけではなかった。

が、現実は甘くない。そして有り勝ちな脚本をなぞる。おなまえは良家のお嬢さん、私は風変わりな質屋でしかない。縁があっておなまえの父親からの相談を受けた。近頃家の者によくない事が起こる、と噂が広まる。誰かがソレを私に聞かせて、ようしでは行ってみよう、と。原因は思念体だった。それも蔵いっぱいに先祖代々の思いの詰まった品がぎっしりと。一つ一つの性質はまだわからない。じっくりと対話してみない限りそれは見えない。人に害のおよばない思念体はもちろん存在する。それはつまり、残された家族への大事な品であるはずだ。思い出の、亡き人の形見になるはず。だが、この蔵の中ではそんなもの見抜けるはずも無かった。みっちりと並べ積み上げられ仕舞われ蓋をされた思念体がひしめいていた。すべての物を、今すぐに、手放すべきです。いえるはずもない。小さな1つで家が一軒建てられてしまうような高価な品もある。もちろん、寂しさに手放せない思い出の品もあるだろう。ひょっこりとやってきたおかしな質屋に、そんな大事なことを決めさせるわけにもいかないだろう。提案。一つ一つ私に目利きをさせてくれないか?いいものは残し、よくない物は検討し話し合い私が預かる。飲み込んでもらえた。そうしておなまえの家に出入りをするようになった。一つずつ片付けていけば、この家の不幸も薄れていった。おなまえの父親は気をよくして私によくしてくれた。食事に誘われたり、酒の席にだってよばれた。おなまえと接するときも増えた。惹かれあってしまったことだけが、問題だった。

「願造さん」
「なんだ?」

好きだと、お互い口に出したことは無い。出してはいけない、ということもお互いに理解していた。諦めていた。願ってはいけないこともある。それでも繰り返す逢瀬だけはやめられなかった。ツンと指先で襟足を引っ張られる。そっと背骨の盛り上がりをなぞられる。おなまえの控えめな指先に意識を集中させる。触れてはいけない。そしたら、何かが始まってしまう。そしてすべてが終わってしまう。ただ、風の中で、揺られて寄り添う花と葉のように、そっと、誰にも咎められないよう、そっと、思いを伝えてしまわぬように、ぐっと、堪えて、私はおなまえへの"思い"を風に乗せて遠くに飛ばした。


願ってはいけない思いがある。叶わない思いがある。思いが、思いを殺すこともある。私の仕事も、もう終わる。蔵の禍々しい空気は薄れ、あとは引き取る約束のついている大きな衣装棚を運ぶための手配が整うのを待つだけとなった日。シェイクスピアの脚本通りか、悲劇の綱に首を括って、蔵の中でおなまえは死んだ。蔵の中に風は無い。ピクリとゆれることも無く、おなまえが息絶えていた。品は減ったというのに、蔵の中には私にしかわからない、むせ返るような強い思いに満ちていた。彼女の部屋からは遺書が見つかった。『私は、思い思われしぬのですから、なんの悔いもございません』他に両親へあてた短い言葉と、べっこうの櫛は私に譲るという事が書かれていた。誰も私を責めなかった。そもそも、この家の者には不幸が続いていた。慣れて、いたのかも知れない。誰も私とおなまえの機微に気づいていなかったのかも知れない。「あの子のために」と、最後の仕事も終わり、発とうとした晩に無理やり渡されてしまった彼女のべっこうの櫛。受け取るより、他はなかった。これは私に残されたたった一つの彼女の思い出なのだ。べっこうの櫛をそっと髪に通してみる。ちっちと絡む髪の解き方なんてわからずに、櫛を強く引けば、ブチっと嫌な音を立てて髪が切れた。夜通しそんな事を続けては、何度も彼女とあるいた道を選んで進んだ。べっこうの櫛は月明かりを移してとろりと、つめたく輝いた。

「願造さん」
「…おなまえ」
「そんな風にしないで。髪は大事にしなきゃ、将来痛い目みますよ?」
「心配いらんさ、俺の家系にハゲはおらんよ」
「強気ですね?」
「そんな事をいうなら、また君が梳いてくれ。上手だろう」
「無理だとわかっているくせに」

くすくす、笑われている気がした。体に染み入るような、あたたかな声がした。彼女の思いが、手の中にあった。これは、これだけは手放せない…。危ういことだとわかっていながらも、もう彼女の思念体はすでに私の思いだった。


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